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    花月ゆき

    @yuki_bluesky

    20↑(成人済み)。赤安大好き。
    アニメ放送日もしくは本誌発売日以降にネタバレすることがあります。

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    POIPOI 52

    花月ゆき

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    ライ時代、催眠術をかけられてしまった赤井さん。
    組織壊滅作戦前、赤井さんが降谷さんへの恋心を自覚するのと同時に催眠の効果があらわれはじめ…というお話。

    催眠術の影響で、赤井さんが降谷さんにひどいことを言ったりします。
    なんでも許せる方向け。

    後編:https://poipiku.com/1436391/10602782.html

    #赤安

    ヒトフリの魔法(前編)-赤井Side-

    「任務以外で、あなたが女性に興味を持つなんてことあるのかしら。せっかくこんなに良い雰囲気の店に呼び出しておきながら……あなたのその顔、私にはまったく興味がないって感じね」
    「あいにく、興味があるのはこのデータの中身だけでね」
    「まったくひどい男ね。こんなときは、嘘でも何か気の利いたことを言うものよ」
    「……言う必要があればそうするがな」
    「私には言う必要がないってこと? 失礼しちゃうわね。バーボンはとても気が利く良い子なのに、あなたときたら……」
    「……バーボンに会ったのか?」
    「あら、随分と怖い顔。バーボンと私の関係が気になるの?」
    「…………いや」
    「ふふ。あなたが気にするようなことは何もないわよ。ほんの数回、取引で会っただけ。それにしても、今の顔すごく良かったわね。どこか余裕のない感じで。あなたのそんな顔、もっと見てみたいわ」
    「……悪趣味だな」
    「そうかしら? 人って意外とこういうのに弱いのよ。……あら、今流れているの、私の好きな歌だわ。ここの歌詞も良いのよね。……この歌みたいに、あなたは苦しい恋をしたことってあるのかしら?」
    「……」
    「ねぇ、あなたって、本気で相手を口説いたこともなければ、一心不乱に愛を叫んだこともないでしょう? そんなことしなくても相手の方から寄ってきそうだし。面白くないわ」
    「面白くなくて結構」
    「……そうだわ! これから先、あなたが本気で人を愛したとき、――――ようにしてしまおうかしら」
    「何を馬鹿なことを。…………ッ! 何をした」
    「ほんのちょっと魔法をかけてあげただけよ。しばらく動けなくなるけど、すぐに元通りになるわ」
    「……ッ、魔法、だと?」
    「今は信じられないだろうけれど、いずれわかるわ。……あ、私はそろそろ行かないと。あなたの運命未来の恋人によろしくね、ライ」





     昔の出来事を夢に見るのは珍しい。組織に潜入していたときの、よくある日常のワンシーンだったが、あの女との取り引きは妙に記憶の隅に引っかかっていた。
     夢と現実を引き離すために、身体を起こす。一瞬、自分が今どの時間軸にいるのかわからなくなる感覚があった。壁にかけられているカレンダーの日付を見て、ようやく今の自分を取り戻す。珈琲でも淹れようかと考えていたところで、スマートフォンの通知音が鳴った。見れば、ジェイムズからのメッセージが届いている。そこには“二時間後に集合”の文字があった。
     今日は、各国の捜査機関が一堂に会し、組織壊滅作戦の合同会議が実施されることになっている。
     赤井はFBI捜査官の代表のうちの一人として、参加することが決まっている。表向きには、赤井は死んだことになっているので、会議室に入室するのにも特別なルートを使う必要があった。合同会議の参加者以外に自分の存在が知られたりしないように、日本の公安が手を回してくれたのだ。
     他の者たちよりも少し早めに現地に向かう必要があることは事前に聞かされていたが、正確な時間は当日に連絡するという話になっていた。
     二時間後に集合ということは、家を出る時間までまだ余裕がある。赤井はシャワーを浴び、素早く沖矢昴に変装した。会議の前には変装を解くのだから、わざわざ変装をするのも面倒だが、こればかりはどうしようもない。時間が来るまで、資料を読みながら珈琲を飲み、待ち合わせ時間ちょうどに着くよう、スバル 360に乗って警察庁へと向かった。
     警察庁に到着し、ひとけの少ない指定された裏口から入る。そこにはすでにジェイムズがいた。
    「おはよう、赤井君」
    「おはようございます」
    「……そろそろ彼が来る時間だ」
    「彼?」
     自分の声に、全力疾走でもしているかのような足音が重なる。振り返ると、そこには"彼"がいた。息も切らさず、凛とした佇まいで目の前に立っている。
    「すみません、お待たせしました」
    「いや、我々もちょうど今着いたところだよ」
     謝罪する彼に、ジェイムズが応対する。
    「今日はよろしくお願いします」
    「……あ、ああ。こちらこそ」
     彼がジェイムズに頭を下げた。顔を上げた彼は次に、自分へと目を向ける。
     以前とは比べ物にならないくらい、自分たちに向けられる表情はやわらかい。演技をしているようには見えず、彼がもともと持っている爽やかさや優しさが滲み出ている。
    「赤井」
     降谷が自分の名前を呼ぶ。彼の声はどんな感情を伴っていても自分の胸を高鳴らせるが、今日は胸をくすぐられるような心地が広がった。鼓動を速める胸の音が、やけに大きく耳に鳴り響く。彼に対する自分の感情に何ひとつ変化はないはずなのに、これまでとは違う“何か”を感じた。
     自分の心を揺り動かそうとする“何か”の正体を暴くには、それ相応の時間がかかりそうな予感があった。追いかけてすぐに捕まえられる類のものではない。
     何も言わない自分を不思議に思ったのか、降谷が首を傾げる。その仕草に胸を叩かれながらも、赤井は我に返り、口を開いた。
    「今日はよろしく頼むよ、降谷君」
    「ええ」
     降谷が微笑む。彼に目が釘付けになり、胸を鷲掴みにされたような感触が広がった。
     見つめ合ったのは、ほんの数秒。すっと離れた降谷の視線に名残惜しさを感じながら、赤井は降谷から目を離せずにいた。
    「小さいですが会議室を確保しましたので、合同会議が始まるまではそこで待機していてください。少し入り組んでいるので、僕が案内します」
     降谷が歩き出したので、それに続くように歩を進める。降谷の背中をじっと見つめていると、ジェイムズが小声で呟いた。
    「今日の彼は、いつもと様子が違うようだね」
    「……ええ、そのようです」
     ジェイムズも自分と同じ感想を抱いているとわかり、赤井は頷く。これまでとは異なり、彼の態度は我々FBIに対して好意的であるように見えた。
     小会議室に辿り着くと、降谷は一礼して素早く去って行った。赤井はすぐには部屋に入らずに、降谷の後ろ姿を目で追う。降谷はすぐにスマートフォンを取り出し電話をかけていた。合同会議の主催は彼の組織である。会議の準備に追われているのかもしれない。
     赤井は変装を解き、合同会議が始まる直前まで、ジェイムズと資料を確認しながら小会議室で過ごした。
     午前十一時には合同会議が始まった。各国の捜査機関が集まる合同会議とはいえ、人数は極少数に限られている。参加者は全員ボディチェックと持ち物検査が実施され、会議室の前には立ち入り禁止のバリケードが張られていた。厳重に封鎖された会議室の周辺には、見張りも複数人配置されているので、警備も徹底されているようだ。この状況だけを見ても、誰が指示を出しているのかは明らかである。
     合同会議の指揮を執っているのは降谷だった。会議の参加メンバーの紹介もそこそこに、黒の組織の幹部を捕えるための作戦会議が始まる。会議室前方の大きなモニターには、降谷をはじめとした日本の公安が準備したのだろう資料が映し出された。資料に沿って、降谷の説明が始まる。彼の説明は無駄がなく整理されていて、思わず聞き入ってしまった。
    「――というのが、こちらからの提案です。ご質問やご意見のある方は挙手をお願いします」
     各捜査機関ごとに会話が交わされ周囲がざわついたが、どの参加者も異論はなく、彼の説明に納得しているらしい。
    「さすが日本の公安警察だな」
     ジェイムズも感心したような声を上げる。しかし、この作戦には穴があると赤井は思った。周囲を見渡すが、手を挙げようとする者はいない。赤井は静かに手を挙げた。
     周囲の視線が一斉に自分に集まるのを感じる。
    「あかい……赤井捜査官、どうぞ」
     降谷に名指しされ、立ち上がる。まずはこの作戦計画が非常に良く出来ているものであることを伝えた上で、弱点になり得そうな箇所を指摘しようと思っていた。しかし、自分の口から発せられた言葉は、自分の考えとは異なるものだった。
    「…………この計画通りに動いたら死人が出るだろうな」
     周囲がしんと静まり返る。赤井は自分で自分に驚いた。こんな言い方をするつもりなど微塵もなかったというのに、降谷へ向かって発せられる言葉は、自らの意思とは関係なく次から次へと自分の口から零れ落ちていく。「ここの配置が甘い」「狙撃ポイントが近すぎる」「退路の確保が不十分だ」等々、言っている内容に間違いはないが、言い方は完全に間違っている。
     否定するからには提案が必要だが、自分の口から発せられるのは、あれがダメだこれがダメだと、無残にもただ否定するだけの言葉ばかりだった。
     降谷と目が合う。降谷の瞳が一瞬悲しそうに揺れた。けれどすぐに、かつての彼がそうであったように自分を睨みつけてくる。しかし、そこに憎しみは込められていない。まるで、泣くのを堪える子どものような表情をしている。
     降谷のその表情を見るだけで心が痛んだが、そうさせてしまったのは自分の言葉に他ならない。
    「……不備があり、失礼しました」
     そう言って頭を下げる降谷に、今の言葉は自分のものではないと言い訳をしたくなったが、そう告げたところで誰も信じはしないだろう。
     起こってしまったことを、無かったことにはできない。取り返しのつかない現実に、ただただ静かに佇むことしかできない。
    「……赤井君」
     ジェイムズの低い声。「君らしくないな」と、ジェイムズの瞳が語っていた。
    「……少し、退室します」
     そう告げるのが、精一杯だった。
     赤井が席を離れると、周囲が騒然とする。会議を途中で抜け出すなど、失礼極まりない行為だが、これ以上この場所にいると、さらに状況が悪化するような気がした。
     会議室を出て、会議が始まる前に居座っていた小会議室へと向かう。部屋に入ってすぐ、自分たちのために用意されていた、水の入ったペットボトルを手に取った。キャップを外し、水を一気に喉へと流し込む。
     胸がざわざわとして落ち着かない。椅子に腰かけ、深呼吸を繰り返しながら、自分の言動を振り返る。朝、警察庁の裏口で降谷と会ったときは、普通に会話できていたはずだ。変わってしまったのは、合同会議が始まり、降谷に対して発言をしたその瞬間だ。それまでの間、いったい自分に何が起きたのか。考えても、何もわからない。
     一刻も早く合同会議に戻りたいところだが、また先程と同じような状態になっては困る。
     会議に戻るか。ここに留まるか。思案していると、ドアをノックする音がして、ジェイムズが部屋の中へと入ってきた。
    「会議は終了。君の指摘をもとに、再度作戦を練り直そうということになったよ」
    「……」
     何も弁解できぬまま会議が終わってしまったことに、後悔の念が募る。ジェイムズは続けて言った。
    「君と降谷君は、これから良い関係を築けると思っていたんだが……」
    「私もそう思っています。ただ……」
    「ただ?」
     今、自分に起きている不可思議な現象をどう説明すべきか。現時点でまともに話せる内容は何ひとつなく、言葉が途切れる。ジェイムズは静かに息を吐いて言った。
    「君の指摘は的確だった。言い方には少々問題があったが、作戦を前に精神が昂ることはよくある。他のメンバーも納得していたよ」
    「……」
    「……具合でも悪いのかね?」
     答えようがなかった。自分の身に何が起きているのかわからない苛立ちと焦りで、膝の上で組んだ両手に力が入る。
     静寂の訪れた部屋に、再びドアをノックする音が響いた。思わず身構える。部屋の中に入ってきたのは降谷だった。
    「失礼します。先程の会議のことで、ご意見をお伺いしたいのですが」
     あんなにひどいことを言われておきながら、それでもなお、目的のために前に進もうとする降谷の力強さを目の前に見る。
     降谷の力になりたい。心の奥底からそう強く願っているが、今ここで彼と話をすれば、また先程のようなことになりかねない。押し黙ったままの自分に何かを察したのだろう、ジェイムズが口を開く。
    「すまない。今日は彼の具合が良くないようでね。後日にしてもらっても良いだろうか」
    「……そうでしたか。はい、後日で構いません。それまでに、こちらで改めて資料をまとめておきます」
    「面倒をかけるね」
    「いえ、ご指摘には感謝していますから」
     自分が一言も発しないまま、話はそこで終わってしまう。
     せめて謝罪をしたい。今日この日をきっかけに、彼との関係が悪化することは避けたい。そうは思うが、自分の口からどんな言葉が飛び出すのかがわからず、口を開くことができない。
     身体への攻撃であれば、傷の程度が目に見える。しかし、言葉による傷口はどこまで広がっているのか目に見えない。
     ここまで自分の発する言葉に頓着したことなど、これまでに一度もなかった。しかし今は、自分の言葉が降谷にどんな影響を及ぼすのかを心配し、彼を傷つけないすべを必死に考えようとする自分がいる。
     人の心を傷つけるというのは、こんなにも恐ろしいことなのか。
     降谷が部屋を出て行く気配を感じて、赤井は焦燥感に駆られた。誤解されたまま、彼をここから帰していいのか。額に脂汗が滲み出るのを感じる。どんな言葉が飛び出すかわからないというのに、気づけば口を開いていた。
    「降谷君」
    「……なんですか?」
     降谷がこちらを振り返る。呼び止めてしまった以上、無視は許されない。本当は彼の目を見て真摯に謝罪の言葉を述べたかったが、今の自分の顔を彼に見られるのは躊躇われて、赤井は顔は伏せたまま声を押し出した。
    「さっきはすまなかった……」
     自分が思った通りの言葉が出たことに、心の中で驚く。
    「いえ……お大事に、赤井」
     降谷の顔を見ていないため、彼がどんな表情をしていたのかはわからない。けれど、降谷の声音は今朝のそれと同じようにやわらかな響きを持っていた。
     降谷が部屋から出て行く。ドアが閉まるのと同時に、どっと疲れが押し寄せてきて、大きな溜息が零れた。
    「顔色が悪い。今日はもう帰ってゆっくり休みなさい」
     ジェイムズの提案に、赤井は頷くことしかできなかった。


     合同会議を終えてから、警察庁には各国の捜査機関が自由に出入りできるようになった。もちろん立ち入れない区域はあるが、機関同士の隔たりはなく、自由に意見交換ができる。FBIと公安も例に漏れず、互いの部屋を自由に行き来できるようになっていた。
     毎回変装をするのも面倒だろうからと、自分が裏口からいつでも庁舎に入れるよう手配してくれたのは降谷だ。ジェイムズからそのことを聞いたとき、赤井は驚くのと同時に、なんとも言えない複雑な気持ちになった。
     本心ではないとはいえ、あんなひどいことを言ったのにもかかわらず、彼は自分のことをよく見て、よく考えてくれているのだ。
     裏口のキーは、降谷からではなく、ジェイムズから受け取った。
     なるべく降谷との接触を避けるようにしていたので、合同会議の日から降谷とは一度も会っていない。降谷のことだから自分に直接鍵を渡そうとしてくれていたのかもしれないが、その機会が訪れないため、結局ジェイムズに鍵を渡さざるを得なかったのだろう。
     直接受け取って礼を言いたかったが、また自分の意図せぬことを言って彼を傷つけたくはない。今は降谷と顔を合わせないことが最適解である。
     作戦会議での指摘事項は、詳細をすべて資料に落とし込み、メールで降谷に送った。降谷は対話を望んでいるようだったが、赤井は文章でのやり取りに徹することにした。文章であれば、自分が考えている内容をそのまま書き記すことができたからだ。
     効率が悪いと感じるときもあるが、謎の現象の正体が解明できるまでは、降谷とはメッセージでやり取りを続けるしかないと赤井は割り切ることにした。
     とはいえ、FBIのメンバーからの要請があれば、工藤邸を出て警察庁に赴くしかない。そういうときは、降谷と会わないよう慎重に警察庁に出入りした。
     だが、合同会議から一週間が経とうかという頃。赤井はとうとう降谷に見つかってしまう。
     裏口から中に入る人間は限られているので、痺れを切らして裏口を見張ることにしたのだろう。いったいどれだけの時間、この場所に張り付いていたのだろうか。
    「……赤井、今日お昼一緒にどうです?」
     無視するわけにもいかず、今は都合が悪いことを伝えるために口を開いたが、自分の口から出た言葉は、やはり自分の意思とは異なっていた。
    「……君と昼食? 今はそんな気分になれんよ」
     あの日、降谷に謝罪の言葉を伝えることができたため、謎の現象はもうすでに解消されている可能性もあるかもしれない。そんな薄い期待も少しはあったが、そのかすかな期待さえ、脆くも崩れ去ってしまった。
    「そう……ですか」
     降谷の瞳が悲しみに揺れて、表情が曇ってゆく。彼に合わせる顔もなく、赤井は素早く降谷から顔を逸らした。
     あのときのように、謝罪の言葉であれば意図した通りに口にできたりしないだろうか。一種の賭けのようなものだったが、赤井は声を押し出す。
    「いや、すまない……まだ体調が優れなくてね」
     自分の思った通りに声が出る。安堵するのと同時に、謝罪の言葉だけは口にできるのだろうかと新たな疑問が湧いてくる。降谷は心配そうにこちらを覗き込んできた。
    「大丈夫ですか?」
     降谷からの問いかけに、赤井は反射的に答える。
    「……ただ疲れが出ているだけだろう。君が心配することはない」
     再び自分の思った通りの言葉が出る。謝罪以外の言葉も、自分の思った通りに口にすることができた。
    「……そうですか。あまり無理しないようにしてくださいね」
     そう言い残して、降谷は自身の部屋へと帰って行く。
     赤井は大きく長い息を吐いた。自分の意思通りに言葉が出る場合と、そうでない場合がある。話す内容が特に関係ないとすれば、シチュエーションが要因だろうか。
     自分の思った通りに言葉が出たときの状況を、赤井は振り返ることにした。共通点といえば、降谷の顔を見ずに喋っている、ということくらいだろうか。
     そこで、ふと、夢の中で聞いたある言葉が、強烈なフラッシュバックとともに脳裏に甦ってきた。

    "これから先、あなたが本気で人を愛したとき、『見つめ合うと素直にお喋りできない』ようにしてしまおうかしら"

    「まさか、俺はあの女が言う魔法とやらにかかったままなのか……」
     この不可思議な現象が起きるのは、降谷に対してだけ。
     あの女の言葉を信じるとするならば――自分は本気で降谷零を愛しはじめており、彼と見つめ合うと自分の意思とは異なる言葉が出てしまう、ということだ。
     自分の口から出る冷酷ともいえる言葉も、好きな子を振り向かせたい男子の、行き過ぎた言動と捉えられなくもない。だが、気を引きたくて相手の心を傷つけるような言葉を言う――演技でもない限り、自分はそのようなことはしないので、明らかにあの女の仕業だと断言できる。
     今まで、降谷を“恋愛対象”として意識したことはなかった。だが、思い返してみれば、自分の降谷に対する感情は、他の人間に対するそれとはまったく異なっているように思う。自分の言葉で降谷が傷ついていたりしないかひどく気になったのも、この感情がいつの間にか自分の心に根付いていたからなのだろう。
     こんな形で彼への想いを自覚させられるなど、夢にも思っていなかった。
     降谷は自分にとっての特別だ。その特別が、ただの友人や同僚の枠を越えているという事実はすでに認識しているが、まさかそれが“恋愛感情”に起因していたとは。いずれはっきりと自覚しただろうが、組織壊滅作戦を控えているこのタイミングでそれを知るというのは、どこか運命的なものを感じる。
     このような非現実的なことなど本来は信じるべきではないのだろう。だが実際に自分の身に起きているとなると、信じざるを得なかった。
     あの女は“魔法”と言っていたが、自分以外の何者かに操られているようなこの現象は、催眠術の類ではないかと思う。思い起こしてみれば、あの女が身に着けていた悪目立ちするペンダントはペンデュラムではなかっただろうか。
     ペンデュラムとは、かつては水脈や鉱脈を探り当てるために使われていた振り子のことである。いわゆるダウジングや占いで用いられるが、振り子になっているので、催眠をかける道具としても使うことができるはずだ。あの女は情報収集能力に長けた情報屋だが、こうした非科学的な力を使った可能性も否定はできない。
     あの女が催眠術を使った可能性は十分にある。一般的に催眠術というものは、特定の条件を満たすか、あるいは術をかけた本人にしか解けないはずだ。無論、自分が催眠にかかりやすい類の人間とは思えないので、あの女が何か妙な真似をしたか、自分の隙を突かれた可能性もある。
     催眠をかけられる直前。自分はバーボンとあの女の関係を訝しんでいた。そのときの自分の顔を、あの女は“どこか余裕のない感じ”と表現したのを覚えている。隙が生まれていたとするならば、おそらくはこのタイミングだろう。
     赤井は自嘲した。若気の至りというべきか。思考をバーボンに傾けすぎて、催眠をかけられる隙を自ら作ってしまったとは。だが、後悔したところでもう後戻りはできない。
     過去を振り返るより先に、自分にはやるべきことがある。まずは、夢にも出てきたあの女の行方を捜すところからはじめるべきだろう。赤井はすぐに調査に取りかかることにした。
     早速当時の取引情報を洗い出すが、記録してあった連絡先は当然ながらすべて不通となっていた。女はマリーという名を名乗っていたが、もちろん偽名であるため、人名検索の類は使えない。顔も何度も変わっており、見た目は女だが、男である可能性も否定はできない。髪は亜麻色で、当時は腰のあたりまで伸びていたが、髪型はウィッグでどうとでもなる。もし変装の術も持っているとすれば、外見や身体的特徴から洗い出すのも難しいだろう。
     今は組織壊滅作戦前の大事な時期だというのに、実に厄介なことになったと赤井は嘆息を漏らした。

     赤井が調査を始めてから一週間経っても進展はなかった。FBIの情報網を使っても辿り着けないとは、マリーは情報屋としてかなり優秀だといえるだろう。
     マリーを知るのは、組織の関係者の中でも極少数に限られている。バーボンと幾度か取引をしたことがあるとマリー本人が言っていたが、今でも連絡を取り合うことはあるのだろうか。降谷に直接聞いた方が早いかもしれないが、今の自分がまともに彼と会話できるとは思えない。
     仕事の合間。休憩室のソファに腰を下ろし、一杯の珈琲を飲み終える。目を閉じてしばらく思案するが、良案は浮かばない。諦めて目を開けると、すぐ目の前に降谷の顔があった。気配を消して部屋に入ってきたのだろう。さっと顔を背けると、降谷は負けじと顔を近づけてくる。
    「あなた……最近、僕の顔を見ようとしませんよね」
    「……」
     否定はできず、かといって肯定することもできず、赤井は口を閉ざす。
     降谷と見つめ合っているとあの謎の現象が起きるとわかってから、赤井は降谷と目を合わせないように注意していた。必要最低限、かろうじて彼と話はできるようになったが、降谷の顔を見ずに話しているので、会話もどこかぎこちないものになる。いずれ問い詰められるだろうと踏んでいたが、予想していたよりも早かった。降谷は続けて言った。
    「僕の記憶が正しければ、あの合同会議の日からおかしいですよね。目的は同じ仲間ですから、あなた達FBIとも協力してやっていきたいと僕は思っているんです。それなのに、あなたときたら……いったい何を考えているんです?」
     果たしてどう切り返すべきか。適当な嘘をついて誤魔化すこともできるだろうが、彼相手にいつまでもその嘘が通用するとは思えない。
     今は、降谷に嘘をついてその場しのぎをするよりも、恥を忍んででもかけられた催眠を解くことを優先するべきだろう。ここはひとつ、降谷の――バーボンの手をかりてみようかと赤井は考える。
    「マリーという女を覚えているか? 俺が組織にいた頃、何度か情報の取引をしたことのある相手だ。君とも何度か取引をしたことがあると、本人から聞いたことがある」
    「ああ、情報屋のマリーですか。覚えていますよ。ほんの数回ですが、取引したことがあります。でも、それとこれといったい何の関係が……」
    「もう何年も前になるが、最後にその女と取引した日、あの女は俺に魔法をかけたと言っていた」
    「魔法、ですか……」
     何か思うことでもあるのか、降谷が言葉をなぞるように呟く。赤井は続けた。
    「正確には催眠術の類だと思っている。あの女が身に着けていたペンダントはペンデュラムで、その日、マリーがペンデュラムを振り子のように動かしていた記憶がある」
    「それで、あなたはいったいどんな催眠をかけられたっていうんですか……」
    「君と見つめ合うと、素直にお喋りできなくなる、とあの女は言っていた」
     本気で愛した人と見つめ合うと――とは、もちろん言えなかった。
    「……ッ……ハ……クッ……」
     降谷は声を押し殺しながら、肩を震わせている。
    「……降谷君」
     降谷は「すみません」と謝りながらも、笑うのを堪えきれずにいる。どうやら彼の笑いのツボにハマってしまったらしい。逆の立場だったら自分も同じような反応を示しただろうから、彼を責めることはできない。
    「でも、つい先日までは普通に喋ってたじゃないですか。あなたがおかしくなったのは、あの合同会議からですよね。催眠術が発動するのに、何か条件があったはずです。それはわからないんですか?」
    「……わからんままだ」
     自分が本気で相手を愛するのが条件だ――とはとても言えない。知らないフリをすると、降谷は「そうですか」と頷いた。⁠
    「とりあえず、あなたが僕の顔を見ようとしない理由はわかりました。あとはその催眠術を解く方法ですが、手がかりは掴めましたか?」
    「……いや。今はマリーの居場所を探っているが、見つかりそうにない。君の方は今も取引はあるのか?」
    「いいえ、僕も彼女には何年も会っていません。おそらく、彼女と最後に会ったのは、あなたと同時期です」
    「……そうか」
    「FBIの情報網を使っても見つからないとなると――マリーを見つけ出すのは困難でしょう。術を解く方法を見つけ出す方が早いかもしれません。術をかけられた日、彼女は他に何か言ってませんでしたか?」
     幾度となくあの日のことを振り返ったが、降谷にそう問われて、赤井はもう一度、降谷に伝えるべきことが残っていないかを考えた。
     その日、マリーと出会ってから別れるまで、時系列順に記憶を呼び起こしていく。ほんのささやかな言葉でもヒントが含まれているかもしれない。だが、取り交わした言葉をすべて覚えているわけではないので、記憶は断片的なものになる。しかし、ふと、脳裏に“ある言葉”が甦った。あの日、マリーが特に感情を露わにした言葉だ。

    "ねぇ、あなたって、本気で相手を口説いたこともなければ、一心不乱に愛を叫んだこともないでしょう? そんなことしなくても相手の方から寄ってきそうだし。面白くないわ"

     まさか、この催眠を解く方法は――。
     マリーにとって面白い展開――愛する相手に、自分が本気で愛を伝えることが、この催眠を解く術だというのか。
    「――いや、特に思い当たる節はないな」
     赤井は嘘を重ねた。
    「……となると、ヒントなしで術を解く方法を見つけ出さなくてはならないということですね」
    「……そうなるな」
    「わかりました。催眠術について僕も調べてみます。あなたも他に何か思い出したら言ってください」
    「……わかった。ありがとう、降谷君」
     礼を言いながら、赤井は心の中で謝罪する。降谷が協力してくれようとしているのに、本当のことを言えないのがひどく歯がゆかった。
     しかし、問題は山積みとはいえ、自分の状況に降谷が理解を示してくれたことは大きな前進だ。非科学的なことであるにもかかわらず、降谷は自分の発言を疑うことはしなかった。これからは、彼に対してひどいことを言ってしまったとしても、降谷が自分の言葉を本気で受け止め、傷つく可能性は極端に低くなるだろう。そのことに赤井はひどく安堵した。

     翌日の夕方。赤井が警察庁に赴くと、待ってましたとばかりに降谷が駆け寄ってきた。降谷の手にはペンデュラムがある。あの女が持っていたペンデュラムにひどくよく似ていた。先についている円錐型の水晶が、夕陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
    「なんだこれは。あの女の真似事か?」
     降谷を見つめたまま言葉を発してしまい、赤井は慌てて顔を背ける。「すまない……。そのペンデュラムはどうしたんだ?」
    「本当に僕と見つめ合ってるとダメなんですね……これは今朝買ってきたものです。催眠術で上書きしようと思いまして」
    「……上書き?」
    「僕と見つめ合うと、素直にお喋りできるようになる――っていう催眠をあなたにかけるんですよ!」
    「……な、なるほど」
    「善は急げです。行きますよ!」
     降谷の手が自分の腕を掴んだ。「さぁ早く!」と降谷が急かすので、言われるがままに赤井は彼に付いてゆく。
     降谷に連れて来られたのは、以前も来たことのある小会議室だった。部屋に入るとすぐに、降谷は鍵をかける。部屋の電気はつけないまま、降谷に言われた通りに部屋の中央にある椅子に腰かけた。降谷は机を挟んで、赤井と向かい合うように座る。赤井は降谷から目を逸らして問いかけた。
    「それで、俺はどうすればいいのかな」
    「このペンデュラムをじっと見つめていてください」
    「……了解」
     言われた通りに、ペンデュラムの――水晶の部分をじっと見つめる。降谷はゆっくりゆっくり時間をかけて、左右にそれを揺らした。
     赤井自身も催眠の仕組みについては調べていたので、降谷がどういう意図をもってこういうことをしているのかは理解している。理解はしているが、「これは、うまく催眠がかかりますように~というおまじないみたいなものなんですよ」と、降谷が実に可愛らしい説明をするので、集中力が途切れてしまった。
     自分どころか彼自身に何か影響が出たりはしないかと心配になるほど、降谷は真剣な目で水晶を見つめている。その真剣な目で、ペンデュラムではなく自分を見てはくれないだろうか。独占欲ともいえる感情が湧き上がってくるが、もちろん、それを本人に伝えるようなことはしない。
     降谷は表情ひとつ変えずに、ゆらゆらとそれを揺らしながら、「赤井は、僕と見つめ合うと、素直にお喋りできるようになります」と静かに言った。他人が聞けば思わず笑ってしまいそうな言葉だが、降谷の凛とした美しい声に、すっと胸を打ち抜かれる。
     降谷はその言葉を何度も何度も繰り返した。まるで子守歌のように、降谷の声に心を揺らされてゆく。神聖な存在を目の前にして、その神々しさに目を離せなくなってゆくような感覚が広がった。
     眠気が訪れて、つい目を閉じてしまいそうになる。マリーに催眠術をかけられたときは身体が動けなくなるほどの衝撃があったが、今は身体がぽかぽかとして心地が良い。
     本当にこれで、かけられた催眠を上書きできるのだろうか。
     信じたい気持ちが半分、信じがたい気持ちが半分。いつの間にかペンデュラムではなく降谷を見つめていると、彼に問いかけられた。
    「……どうですか? 何か変化は感じます?」
    「くだらんな。こんなことで変われるなら苦労はせんよ」
    「ダメですか……一番メジャーな方法でやってみたんですけどね」
     降谷が肩を落とす。赤井は降谷から顔を逸らして言った。
    「わざわざペンデュラムまで用意してくれたのにすまない。俺はずっと君を傷つけることばかり言っているな……」
    「いいえ、こちらこそお役に立てずすみません。あなたの発言は、事情が事情なので仕方のないことです。最初は正直ちょっと傷つきましたけど、今はあなたの本心じゃないってわかってますから大丈夫です。それに……素直にお喋りできない赤井って、なんとなくライのときのあなたみたいで、最近は懐かしく感じてきちゃったんですよね」
     やはり降谷は自分の言葉に傷ついていた。彼の口からそれを知り、マリーだけではなく自分に対しても赤井は怒りを覚える。
     自分たちの間には、すれ違い、誤解、確執――様々な要素が絡まりあって、一言では言い尽くせない因縁があった。その因縁のはじまりは、ライである自分がもたらしたものでもある。降谷にとってライは憎むべき相手に違いないのだが、それでも彼は、思い出を振り返るように“懐かしい”という言葉を選んだ。
    「……君にとって、ライはどんな存在だったんだ?」
     つい、興味本位でそう問いかけてしまった。
     降谷を見れば、どこか驚いたように目を瞬かせている。まさかこんなことをきかれるとは思ってもみなかったのだろう。
     しばらくの間、静寂があった。降谷は意を決したように言った。
    「……ライは、バーボンにとって面白くない存在でした。ライバル視しながらも、ライであるあなたの仕事振りを心の中では認めてもいた。どうやったらあなたを超えられるのか、毎日のように考えていましたよ。思えば僕は、あのときからずっと、あなたを追いかけていたような気がします……今とあまり変わっていません」
     降谷がコホンと空咳をする。降谷の顔を見ると、彼はどこか照れたような表情をしていた。夕焼け色が彼の顔に触れて、切なくも美しいと感じる。
     彼の表情をずっと見ていたかったけれど、余計なことを言ってしまう前に、赤井は再び降谷から目を逸らした。
    「……そうか」
    「……ええ。では、そろそろみんなのいる部屋に戻りましょうか。万が一、何か変化があったら教えてください。時間差で何か起きないとも限らないですから」
    「ああ、何かあれば君に連絡する」
    「必ずですよ。こちらでも引き続き調べておきます」
     降谷はそう言って立ち上がる。彼が手にした紙袋からは、催眠術に関する本がいくつも覗いていた。
     先日自分も読んだので、中身は知っている。催眠術の基本を学べる本だ。降谷が買ったのだろうその本には、付箋がいくつも貼られていた。組織を壊滅させるための大事な準備期間だというのに、降谷はこうして自分のためにも時間を割いてくれているのだと知る。
    「……どうして君は、俺にそこまでしてくれるんだ?」
    「それは……あなたのこの問題を解決できるのは、僕しかいないからですよ!」
     いったいその自信はどこから来るのだろう。彼の顔を見れば、目がらんらんと輝いている。赤井は色々な意味で、降谷から目を逸らした。
    「君……面白がってないか?」
    「いえいえ。そんなことありませんよ」
     表情を見なくても、声を聞けばわかる。嘘を吐いているな、と赤井は思った。


     あれからずっと、降谷とは不思議な関係が続いている。
     ジョディからは、「あんた達、仲が良いのか悪いのかさっぱりわからないわ」と言われた。降谷と自分が一緒に過ごす時間は日に日に増えているが、お互いに目を合わさない状態で会話をしているせいだろう。
     降谷から目を逸らして会話する自分の姿は、ジョディをはじめ、FBIのメンバーには何度も目撃されている。理由を話すのも言い訳を探すのも面倒でそのままにしているが、自分の言動は第三者の目には異様なもののように映っているに違いない。
     降谷は常にペンデュラムを持ち歩き、幾度も催眠術の上書きを試みてくれたが、効果は得られなかった。
     自ら思い至った催眠を解く方法も、降谷にはずっと伝えられずにいる。降谷に恋愛感情を抱いていることを打ち明けてしまえば、これまでに培った降谷との関係が壊れてしまうかもしれない。そう思うと踏み切れなかった。
     そして何よりも、催眠を解くために降谷に愛の告白をするのは本意ではない。
    「……マリーの催眠はなかなか手強いですね」
    「……そうだな」
     すっかり馴染んだ小会議室で、静かに会話を交わす。赤井は赤井で、世界中に名の知れた催眠術師達から情報を集めていたが、マリーの情報はどこの術師からも得られなかった。マリーと疑わしき人物でさえ、ひとりも出てこない。
     それを降谷に伝えると、彼はしばらく考えてこう言った。
    「マリーのことだから、催眠術師として認識されていなかったのかもしれませんね」
     相手から情報を聞き出すために、催眠術を用いた可能性も否定はできない。だが、マリーはあくまで情報屋として名が通っている人物だ。
    「……ああ。催眠術をかけられたことにも気づいていない人間が大半かもしれん」
     自分がそうだったように、マリーの催眠は短時間で完成されてしまう。マリーが口にしない限り、術にかけられたこと自体に気づくのはほぼ不可能だろう。それが時間差で発現するとなればなおさらである。
     マリーの催眠は、一般的な催眠術とは明らかに異なっている。もし催眠術を分類するとしたら、特殊な部類に入ると言わざるを得ない。
     その証拠に、マリーのような術師は今まで見たことも聞いたこともないと他の術師達は言っていた。
     術をかけたい相手の潜在意識に触れるには、それ相応の準備と時間がかかるのが一般的だと言われている。つまりマリーは、催眠術の枠を超えた術を操るということだ。マリーが催眠術ではなく魔法と口にしたのも、自身の術を自負していたからなのかもしれない。
    「それで、その催眠術師達に、あなたがかけられた術を解く方法はきいてみたんですか?」
    「……ああ。だが、直接会ってみないことにはわからないと言われたよ」
    「そうですか……」
     近場を探っても、名立たる術師は東都にはいなかった。
    「今はここを離れるわけにはいかないからな。仕方がない」
     だが、これで良いのだと赤井は思っていた。たとえ相手がベテランの催眠術師でも、降谷以外の人間に自分を操られたくはない。
     赤井は降谷の顔を見ないかわりに、窓の外にある夕陽へと目を向けた。
     もうじき日が暮れる。一日、一日、日が過ぎてゆくのは早いもので、組織壊滅作戦の実行日も近づいてきている。警察庁の上空を飛んでいる烏の鳴き声に、赤井は眉をひそめた。
     自分と同じことを考えていたのか、降谷は苦渋の決断を口にするように言った。
    「作戦の日までに催眠を解くのは、正直厳しいかもしれません」
    「ああ。……作戦の日は、君を見ないよう意識するのも難しいかもしれん。もし君にひどいことを言ったらすまない」
    「……いえ。それは別に構いません。それにしても……最近のあなたは、まるで別人みたいによく謝りますね」
     降谷が小さく笑う気配を感じた。
     降谷の言う通り、今の自分は謝ってばかりいるような気がする。自分が口にした言葉を謝罪するなど、これまでの自分では考えられなかったことだ。
     これまでの自分と違うのは、降谷に恋をしていると自覚していることくらいだが、実はこれが一番、自分を狂わせているのかもしれない。
     彼との出逢いから今まで。長い時間をかけて育まれてきた感情だ。まさかマリーの催眠がきっかけになるとは思いもしなかったが、“ライであった頃の自分”ではなく“今の自分”だからこそ、降谷への積年の感情をはっきりと自覚することができたのだと思う。
     マリーがタイミングまで操っていたとするならば、それは見事としか言いようがない。
     しかし、自分たちが出逢い、こうして同じ志を持つ仲間になったのは、様々な偶然と必然を重ね合わせてきた結果だ。マリーに操られたのではなく、自分たちの未来をマリーが予想していたと言ったほうが正しいだろう。
     マリーが去り際に自分に告げた言葉は、「あなたの運命によろしくね」だ。マリーの言う“運命”とは、十中八九、降谷のことである。自分にとっての運命が降谷零であることは、紛うことなき真実だ。
     そしてこの運命を、赤井は大事に護っていきたいと思っている。
    「……君をこれ以上傷つけたくないんだよ」
     自分でも驚くくらい優しい声が出た。けっして仕事仲間に向けるような声ではない。
     降谷が息を呑む気配が伝わってくる。自分の気持ちを悟られてしまったかもしれないと思ったが、降谷の唇は意外な言葉を紡いだ。
    「そういえば、あなたってもともと優しい人でしたね。ライの頃からずっと……」
     まったく自覚していなかったのだが、どうやら自分は、ずっと前から降谷に対して優しく接していたらしい。
     自覚が追いついていなかっただけで、はじめてバーボン――降谷と会った日からずっと、彼は自分の特別だったのだろう。そのことにマリーが気づいていた可能性も十分にある。そう考えると、あの催眠術は、“自分たち”に向けられたマリーからのメッセージとも言えるのかもしれない。
     いつか“時が来たら”、素直に自分の気持ちと向き合うように――と。
     ちらりと降谷を見る。降谷は屈託のない穏やかな表情を浮かべていた。安室透でも、バーボンでもない、演じていない彼の素の表情を見ると、ありとあらゆる本音を打ち明けてしまいたくなる。けれど、今はまだ、そのときではない。
     俺が優しいのは、きっと君に対してだけだ――その言葉は口にはせず、赤井は胸の中だけで秘かに呟いた。


     次の日から、赤井は降谷の姿をまったく見かけなくなった。
     彼の不在が、組織壊滅作戦、あるいはその準備と関係していることは想像にたやすい。FBI含め他の組織に報告がされていないところを見ると、彼の組織が独断で実施していることなのだろう。
     降谷の行方を秘かに追ってみたが、三日経っても降谷が警察庁に出入りしている形跡はない。彼の居場所におおよその見当はついているが、作戦を間近に控えたこの時期に、独断専行で彼を追うのはリスクがある。まずは彼が所属する組織――公安と連携をはかるべきだろう。
     降谷の部下である風見のもとへ、赤井は急いだ。風見は睡眠不足を絵に描いたような顔をしていて、公安側にただならぬ事態が起きていることはすぐにわかった。
    「……降谷君に何かあったのか?」
     開口一番に問いかけると、風見が驚いたようにこちらを見る。風見の周りにいた刑事たちも、なぜそれを知っている、と言いたげな表情をしていた。刑事たちは互いに顔を見合わせ、答えを口にするかどうか迷う素振りを見せている。一方で、風見は覚悟を決めたように、こちらに歩み寄ってきた。
    「組織壊滅作戦前の情報収集のため、降谷は組織の末端の人間に接触をはかっていたのですが……」言葉がそこで一度途絶える。静かに待っていると、風見が拳を握りしめながら続けた。「つい先程、爆発音があり、降谷の消息が途絶えました……」
     なんとか口から押し出したのだろう風見の言葉を、赤井は反芻する。ここにいる全員が、まるで降谷の身に取り返しのつかないことが起こったかのように、悲痛な面持ちをしていた。
     しかし赤井は、彼らの考えている最悪な可能性をまっさきに思考から切り捨てた。
     早く彼のもとへ行きたい気持ちを激しく滾らせながら、平静を装って赤井は問う。
    「接触をはかった場所は?」
    「ここです」
     風見がスマートフォンの画面を赤井に見せる。赤井の予想は当たっていた。画面には、埠頭にある倉庫の地図が映し出されており、画面の中央にはLOSTの文字があった。
    「発信機はどこに?」
    「降谷の所持しているスマホに」
    「他に連絡手段は?」
    「スマホのみです。スマホ以外の電波は怪しまれるリスクがあると、上の判断で……」
     発信機がうまく機能していないということは、降谷のスマートフォンは故障している可能性が高い。連絡手段も他にないとすると、安否確認は現地でなければ行えないということだ。危機的状況であることは間違いない。
     手遅れになる前に早く彼を助けに行かなければ、今度こそ取り返しのつかないことになる。もちろん、降谷が安易に敵の手に落ちるような人間ではないことはわかっている。だが、この目で彼の姿を見なければ一秒たりとも安心することはできない。
     風見と会話を交わしている間、周りにいた刑事たちは降谷の捜索に向かう準備をはじめていた。この刑事たちは、降谷が信頼する手練れの部下なのだろう。しかし万が一のことを考えると、降谷を彼らだけに任せておくことなど到底できそうになかった。
    「君たちは、現場から五十ヤード離れた場所で待機していてくれ」
    「それは、どういう――」
    「降谷君の捜索は、俺に任せてくれないか」
     FBIという別組織の人間を巻き込むことに抵抗があるのだろう。赤井の言葉に、周囲が騒然とする。
     しかし風見だけは、この中にいる誰よりも、現実をよく見定めていた。誰が一番、降谷の捜索に適任であるかを。
    「降谷を……頼みます」
     風見のこたえを受けとめて、赤井はその場を離れた。ライフルバッグは、愛車にすでに積んである。すぐに階下へ降り、赤井はマスタングへと乗り込んだ。愛車を発進させて、風見のスマートフォンに表示されていた地図を脳裏で思い描く。これからどうすべきか。作戦を頭の中で練り上げながら、降谷が向かったとされる倉庫へと急いだ。
     現地に辿り着くと、かすかに焦げ臭い匂いが周囲に立ち込めていた。倉庫の周辺には人の気配がまったく感じられないので、爆発音は一般人のいるエリアまで届かなかったのだろう。想定していたより規模の小さい爆発だったとわかり、ほんの少しだけ安堵する。倉庫一棟を吹き飛ばすほどの爆発であれば降谷の生死にかかわってくるが、局地的な爆発であれば、降谷が退避できた可能性は格段に高くなるからだ。
     どこから侵入すべきか倉庫の周囲を探っていると、スマートフォンのバイブ音が耳に届いた。発信者が風見とわかり、すぐさま画面をタップする。
    『風見です』
    「状況は?」
    『はい。指示通り、私含め、五十ヤード先の駐車場で待機しています』
    「了解。また連絡する」
     そう答えて、電話を切る。ふと倉庫の中から銃声と足音が聞こえ、赤井はすぐそばにあった小窓から、スコープ越しに中を覗いた。そこには、倉庫の棚や荷物をうまく盾にしながら、追手の攻撃をかわしている降谷の姿があった。
     降谷が鉄製の棚に身を隠すと、すかさずそこに銃弾があたり、不快な金属音が鳴り響く。
     その後、ほんの一瞬静寂があった。敵が銃を構えている間だ。降谷が様子を窺うために身を乗り出したところで、多数の銃弾が降谷の周囲に散る。散弾銃を使ったのだろう。そのうちのひとつが、降谷の腕を掠める。それを見た瞬間、赤井の眼前にある景色が、怒りを超える真っ赤な色に塗りつぶされた。
     そこから先は、考えるよりも先に身体が動いていた。小窓の鍵をライフルで破壊し、窓を開ける。敵は降谷を追うのに必死で、こちらの存在には気づいていない。赤井はライフルを構え、降谷を狙う敵へと照準を合わせた。
     燃え滾るような激しい感情の存在を自分のなかに感じて、赤井は息を吐く。ライフルの照準が狂うことは絶対にないが、冷静さを少しでも取り戻さなければと思った。
     呼吸を整えるのに要した時間はほんの数秒。降谷にもっとも近づいていた三人に向けて、間髪入れずに引き金を引く。放った銃弾が敵の身体を突き抜けるのを見届ける間もなく、降谷からさらに遠く離れた場所にいる敵へと引き金を引いた。
     こちらに気づいたのだろう、スコープ越しに降谷と目が合う。降谷は驚いた表情を浮かべていた。声は聞こえないが、降谷の口が「あ・か・い」と自分の名を紡ぐのがわかる。それだけで、胸が大きく跳ね上がり、身体が熱風に煽られたかのように熱を纏うのを感じた。
     降谷は周囲を見渡し安全であることを確認すると、一目散にこちらに駆けてきた。小さな窓越しに、三日振りの再会を果たす。
    「どうして、あなたがここに?」
    「わからん。気づけば君の部下たちを差し置いてここにきていた」
    「……え?」
     降谷が目を瞬かせる。赤井はすぐに降谷から顔を逸らした。こんなときでも催眠は解けることなく、我が身を蝕む。
    「……すまない、つい君を見たまま言ってしまった」
    「いいえ、良いんです。それに今のはちょっとグッときてしまいましたから……」
    「ん?」
    「な、なんでもありません!」
     降谷が目を伏せる。ちらりと一瞬だけ彼を見ると、顔が赤くなっているのが見えた。
    「顔が赤いようだが、大丈夫か?」
    「だ、大丈夫です! それより、ちょっと風見に電話してくれませんか? 僕のスマホ、爆風に巻き込まれて壊れてしまって」
     画面の割れたスマートフォンを取り出して、降谷が言う。「随分とひどくやられたな」と返すと、降谷は苦笑した。
     赤井が自身のスマートフォンを取り出し発信ボタンをタップすると、すぐに風見が電話に出た。赤井は画面を再びタップし、スピーカーフォンに切り替える。
    「赤井だ。降谷君は無事だったよ。スマホが故障して発信機が作動していなかっただけのようだ」
    『本当ですか!』
     スピーカーから、風見だけではなく他の男たちの声も聞こえてくる。安堵する声、嬉し泣きする声、彼の部下たちの反応は様々だが、誰もが降谷の無事を心から喜んでいるのがわかった。赤井がスマートフォンを降谷に近づけると、降谷が口を開く。
    「心配かけたな」
     部下たちに向ける降谷の声は、穏やかで優しい。降谷の声に真っ先に反応したのは風見だった。
    『降谷さん そこにいるんですか』
    「ああ。そうだ、風見。早く応援を呼んでくれないか。倉庫内に倒れている組織の人間を一人残らず確保するんだ。全員急所は外れている。生きたまま捕えろよ」
    『はい! 赤井捜査官の指示通り、すぐそばの駐車場で待機しているので、今すぐ向かいます!』
    「赤井が指示を?」
    『え、ええ……』
    「……わかった。組織の人間に勘づかれる前に、迅速に済ませてくれ」
    『はい!』
     電話が切れて、静寂が広がる。降谷の視線がこちらへと向けられた。
    「FBIがなんで公安の人間を指揮するんだ――と言ってやりたいところですが、今回はあなたのおかげで助かりました。……赤井、こちらを向いてくれませんか」
     そう言われて、赤井は降谷に向き直る。降谷はどこか照れくさそうに、「ありがとうございます」と言った。
     思わず目を細めて見てしまう。降谷のこの表情を目に焼きつけておきたい。そう思わずにはいられないほど、彼の表情は愛らしい。
     彼の顔をずっと見ていたかったが、彼の顔を見つめたままでいると、自分の口からまたどんな言葉が飛び出すかわからない。赤井は名残惜しさを感じながらも、再び降谷から目を逸らして言った。
    「いや……それより身体の方は大丈夫なのか?」
    「ええ、大丈夫ですよ。ちょっと弾が掠っただけで、たいした怪我はありません」
     赤井は降谷の腕に静かに触れる。銃弾で切り裂かれた布を捲り上げると、血の色が広がっていた。
    「そうは言っても、傷が深い可能性もある。すぐに手当てした方がいい。病院まで送ろう」
    「……い、いえ! 僕、自分で乗ってきた車があるので、病院まで自分で運転して行きます」
    「車は君の部下たちに任せれば良い。血も出ているから、運転はよせ。今はおとなしく俺の車に乗るんだ。…………降谷君?」
     降谷からの返事がない。名を呼ぶと、降谷は我に返ったように口を開いた。
    「……あ、はい、じゃあ……頼みます」
     降谷らしくない歯切れの悪い声だ。何か考え事でもしているのか。あるいは、本当は痛いのを我慢しているのかもしれない。どちらにせよ、今はとにかく急いで病院へ連れていくべきだと赤井は思った。
    「この窓からは外に出られそうにないな。君は倉庫の入口に向かってくれ。すぐに車をまわす」
    「……わかりました」
     降谷の背中を見送って、赤井も愛車のもとへと急いだ。ライフルを仕舞い、助手席の埃を軽く払う。車を発進させて倉庫の入口に辿り着くと、ちょうど部下たちに指示を終えたらしい降谷が、入口から歩いて出て来た。運転席を降りて助手席のドアを開ける。小さな声で礼を言う降谷の顔は、まだ赤いままだ。
     運転席に戻り、降谷がシートベルトをしたことを確認して、アクセルを踏む。窓の外を見つめる降谷に、赤井は問いかけた。
    「降谷君、君……熱があるんじゃないか?」
    「い、いえ……平熱だと思います」
    「それにしてはずっと顔が赤いままだが……」
    「……さっきまで命懸けの鬼ごっこをしてましたからね。きっと走り過ぎで息が上がったせいでしょう」
     降谷が大きく息を吐く。緊張を解くための息遣いでさえも、顔が赤いせいか、どこか色気を帯びて聞こえる。
    「それならいいんだが……病院でちゃんと診てもらってくれ」
    「はい」
    「それから……今度から俺に黙ってこういうことはしないでほしい。日本警察の都合もあるだろうから、FBIに言えとまでは言わない。だが、せめて俺には相談してくれないか」
    「それはできません。あなたを巻き込むわけには……」
    「巻き込んでくれ」
     そう告げると、降谷が驚いたようにこちらを見た。降谷の表情を視界に入れてすぐ、赤色へ変わろうとしている信号へ目をやる。車を停め、動いていた景色が静止している間、降谷は何かを思案しているようだった。信号が赤色に変わるのと同時に、降谷が口を開く。
    「い、嫌です! これ以上、あなたに借りを作りたくないんですよ!」
    「フッ……そうか」
     降谷らしい言葉に、思わず笑みが零れる。素直に聞き入れてくれるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
     そんなことを考えていると、隣で降谷がしみじみと呟いた。
    「これ以上借りを作る前に、早く催眠を解く方法を考えなくてはいけませんね」
    「それなんだがな、降谷君……」
     これ以上、この件で降谷の手を煩わせたくない――そう話を続けようとしたところで、スマートフォンのバイブ音が鳴る。風見からの電話だったので、スマートフォンを降谷に渡した。受け取った降谷が、スマートフォンの画面を二度タップする。電話を受けるのと同時に、スピーカーフォンに切り替えたようだ。こんなささやかな行動でさえも、降谷の信頼を得ているようで嬉しく感じてしまう。
    「風見か」
    『はい。倉庫内に倒れていた組織の人間は、すべて確保しました』
    「そうか、ご苦労だったな」
    『病院に向かっていると聞きましたが、怪我の具合はどうなんですか?』
    「心配いらない。銃弾で腕を掠っただけだよ」
    『そうですか。病院できちんと診察してもらってください』
     風見が自分とまったく同じようなことを言うので、思わず笑ってしまう。降谷がこちらを睨みつけるのがわかった。もちろん本気で睨んでいるわけではないので、ウィンクで仕返しをする。降谷があからさまに困った顔をして、自分から顔を逸らした。
    「君も赤井と同じことを言うんだな……」
     降谷がそう呟くのを聞いて、自分が風見よりも先に降谷に忠告をしたことに優越感すら覚える。
     風見も、まさか自分にそんなことを思われているとは、まったく考えもしないだろう。風見は降谷の呟きには反応せずに続けた。
    『あ、赤井捜査官、そこにいますよね?』
    「ああ。今、隣で運転している」
    『じゃあ伝えてもらえますか? 降谷さんを護ってくださってありがとうございますって……』
    「――だそうですよ、赤井」
    『え?』
    「君たちの会話はすべて聞こえている」
    『ええっ』
     降谷がスピーカーフォンに切り替えているとは思っていなかったのだろう。公安内の会話を外部の人間に聞かせることなど、本来あってはならないことだ。しかし降谷は、この場において秘密はなしだと態度で示そうとしている。
     風見は驚くような声を上げはしたものの、降谷の行動を咎めるようなことは言わなかった。降谷の行動には、いつも確かな理由があることをわかっているからだろう。降谷がスマートフォンをこちらに向けてくるので、赤井は身体を少し降谷に寄せて口を開いた。
    「こちらこそ、君たちの協力に感謝する」
     降谷が無事に帰還できたのは、直接助けに入った自分だけの力ではない。風見のような降谷の部下たちがいたからこそ、成し遂げられたものだ。
    『は、はい!』
     敬礼でもしていそうな風見の声が聞こえてくる。降谷はひとつ小さく笑って、そしてすぐに声を切り替えた。
    「ところで風見、例のデータだが……」
     そこから先は、倉庫内で組織の人間から入手したデータについてどう取り扱うか、降谷が風見に指示を出していた。データは今、降谷の懐の中。病院で治療を終えたらすぐ警察庁に戻ると、降谷は風見に告げている。
     たとえ軽傷だったとしても、降谷にとっては生死を彷徨ったといっても過言ではない日だ。今日くらいは早く家に帰って休んでほしいと思ったが、降谷がこのままおとなしく家に帰るとはとても思えない。それならばせめて、彼が無理しないよう傍で見守ろうと赤井は心に決める。
     降谷は不思議な男だ。自分の力など必要としないほど、彼は強い。だが、赤井にとってはどうにも放っておけない男だった。赤井にそう思わせるのは、昔も今も降谷だけ。そして、この先もずっと続く予感がある。三十を過ぎたというのに、初めて知る気持ちがいくつもあった。それは、降谷への愛を自覚してからさらに、増えつつある。
     病院に到着するのと同時に、降谷が通話を終える。ひとりで病院の入口へと向かおうとする彼を引き留めて、赤井は降谷の隣に並んだ。
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