Heartfelt Memories(旧題:記憶は心の底に)⑦―降谷Side 4月―
四月に入り、赤井と降谷は中学二年生になった。
先月催された卒業式は、感動的な式として幕を下ろした。特に赤井の演奏した『旅立ちの日に』は、イントロ部分から会場にいた多くの人々の涙を誘った。
会場は中学校の体育館。ピアノもスタインウェイなどの高級ブランドではなく、どこにでもあるタイプのグランドピアノ。
特別なものは何ひとつないのに、すべてが特別に感じられる一時だった。
優しくも切ない旋律にはじまり、躍動感溢れる音の波が広がってゆく。力強い音の奔流に、ピアノの音色が体の奥にまで響き渡るような心地がした。
演奏の技術だけではない、どこかミステリアスな雰囲気が興味を煽るのか、保護者が座っている体育館の後ろ側でも、「ピアノを弾いてる男の子は、何年何組の子?」と噂になっていたと聞いた。
降谷はとても誇らしい気持ちになった。
この学校で赤井は有名人だが、これまで直接アプローチをしてくる女子生徒は限られていた。ところが、卒業式をきっかけにして、赤井が校内で声をかけられる頻度がこれまで以上に増えてしまった。なかには休憩時間などに追いかけてくる生徒もいるようで、赤井は困っているようだった。
下校時間になると、まるでどこかに逃避行でもするかのように、赤井は降谷の腕を掴んで、「さぁ帰ろう」と促してくる。降谷は急いで机の上を整理し、クラスメイトたちの視線を浴びながら下校する。そんなことを繰り返した。
四月五日、金曜日。
明日は土曜日で休みのため、週末の食事の買い物も兼ねて、赤井とショッピングモールまで足を伸ばした。
もうすぐ記念日の十日がやってくる。今月は阿笠博士の家でバーベキューパーティをすることが決まっていた。コナンの同級生たちも誘うと聞いているので賑やかになりそうだ。
バーベキューの道具は阿笠博士が持っていると言っていたので、準備は当日に博士たちと一緒に買い出しに行くだけ。
十日がくるのを心待ちにしながら、降谷は個人的に赤井に何かプレゼントをしたいと考えていた。先月は赤井に夕食をプレゼントしてもらったので、そのお返しと日頃の感謝の気持ちも込めて、赤井に何かしてあげたいと思ったのだ。
しかし、赤井が何をほしがっているのか、あるいは何をしてほしいと思っているのか、降谷にはよくわからなかった。
直接きいてみようかと考えたこともあるが、せっかくならばサプライズでプレゼントをしたい。そんなことを考えながら日々が過ぎ、いつしか記念日まであと五日となっていた。決断力はあるほうだと自負しているが、赤井のことになるとどうしても思い悩んでしまう。
ショッピングモールには、ありとあらゆるジャンルの店がある。そこからヒントを得たいという気持ちもあり、降谷は必死に周囲を見渡した。
食料品コーナーへ行く前に、専門店が並ぶフロアをぶらぶらと歩く。店に並んでいるのは春物がメインだが、冬物のセールをしている店もあった。なかには半額を謳っているコーナーもある。赤井は値引きに興味はなさそうだが、男性物の冬物グッズにちらりと目を向けるのがわかった。
「何か気になるものでもあるんですか?」
「気になる、というほどのものではないが……」
赤井の視線の先には、黒色のニット帽がある。成年男性向けの商品だが、体格の良い赤井にはちょうど良いサイズだろう。
「冬用なので今年はもう無理だけど、来年用に買うのもいいんじゃないですか?」
何気なく来年の話をしてしまい、降谷は言ってしまったあとで後悔した。赤井といつまで一緒にいられるかもわからない自分が、未来のことを口にするのはおかしい気がしたからだ。しかし赤井は、ただの日常会話として受け取ったようだった。
「ああ、いや、別に買いたいわけじゃないんだ。ただ、昔これと似たようなものをかぶったことがあったような気がしてな……」
「ニット帽、持ってたんですか?」
「それが、思い出せないんだよ。誰からか一時的にかりたのかもしれん」
「そう、ですか……。でも、あなたに似合いそうですね、ニット帽」
「そうかな」
降谷は黒色のニット帽を手に取り、赤井の頭と同じ高さまで掲げてみた。実際にかぶってみなければわからないだろうが、赤井にとてもよく似合いそうである。
そこで降谷は、はたと気がついた。赤井にニット帽をプレゼントするのはどうだろう。これから先の季節でも使えるものであれば、来年まで仕舞っておく必要もない。
降谷は他の色のニット帽も手に取って確かめた。赤井にはどの色が似合うだろうか。赤井は明るい色よりも落ち着いた色を好むかもしれない。ブラウンやグレーも手にとってみるが、黒色が一番しっくりくると降谷は思った。
ふと店の奥のいる高校生のグループがこちらを見ている気配を感じて、降谷は顔を上げ、赤井に目で合図をした。先月、中学を卒業した自分たちの先輩かもしれない。赤井もすでに気づいていたのか、静かに頷いて、すたすたと店の外へと歩いてゆく。
その後ろ姿を見ながら、降谷は想像のなかで赤井にニット帽をかぶせてみた。想像するだけで、なぜか胸がどきどきと高鳴る心地がした。
その後も、ショッピングモールを一通り歩き回り、食料品の買い物を終え、二人は帰路に着いた。
夕食を終えたあと、降谷はスマホでニット帽について検索をした。コットンやリネンであれば、春や夏でも着用できるようだ。既製品も様々な種類があったが、手作りのものをプレゼントしたかったので、参考として見るだけに留めた。
とはいえ、手作りであることを伝えるのは憚られる。クラスの女子たちが度々口にしていることだが、手作りのものは“重い”と思われることがあるらしい。これは、“手作りには気持ちが込められすぎて扱いに困る”というような意味が込められているのだと聞いた。
あくまで既製品ということにしてしまおうかとも思うが、この場合、既製品に見劣りしないよう編み込む必要がある。
ある種のプレッシャーを感じながら、降谷はニット帽の編み方をネットで調べることにした。図と説明文のあるサイト、編み方の動画も複数見つけたので、初心者の自分でもどうにかなるかもしれない。
一筋の光が見えてきて、必要な道具や糸など、今度は買い物に必要な具体的な情報を降谷は見ていくことにした。
翌朝、マスタングのプラモデルに降谷は声を吹き込み、家を出た。
『赤井、おはようございます。朝食はテーブルの上に置いてあります。僕はもう食べたので、起きたら好きなときに食べてくださいね。僕は少し買い物に出かけてきます』
開店とほぼ同時刻に手芸店へ行き、必要なものを買い揃えてから、家の近くにあるスーパーへ立ち寄った。万が一、どこに何を買いに行ったのか赤井にきかれたときのために、証拠を作っておく必要がある。たまたま目に入ったヨーグルトを二つ手にとって、降谷はレジに並んだ。
家に帰ると赤井はすでに起きていて、ピアノの置いてある部屋にいるようだった。
卒業式が終わったあとも、赤井は時折ピアノと向かい合っていた。何度かドア越しに聞きに行ったりもしたが、練習というよりは楽しむために弾いているようだった。
おしゃれなバーで演奏されているような曲だったり、有名な映画の主題歌だったり、赤井が弾く曲のジャンルは様々だ。
ドア越しではなく、すぐそばで聞いてみたい気持ちもあるが、赤井がピアノの部屋にいてくれるのは今の降谷にとっては都合がいい。
タイムリミットまであと四日。
急いでヨーグルトを冷蔵庫にしまい、降谷は自室へと駆けこんだ。
十日の朝。降谷は編み上がったニット帽を見て、安堵の息を吐いた。
赤井に気づかれたくなかったので、夜にそれぞれの部屋に戻ってから、こそこそとニット帽を編み続けた。失敗して編みなおしをすることもあったので、十日に間に合うのだろうかと不安に思うときもあったが、睡眠時間を削ることによって、どうにか間に合わせることができた。
あとは最後の仕上げだ。三十センチほどの余り糸を残してカットし、編み目を閉じて、糸がほどけないよう固定する。最後に余分な糸をカットすれば完成だ。あらかじめ用意しておいた包装紙に包み、リボンをかける。
「できた……」
感動のあまり、包装紙ごと降谷はニット帽をそっと抱き締めた。
窓の外からはスズメの鳴き声。時計を見れば、八時を指している。バーベキューの時間まで、降谷は少しだけ仮眠をとることにした。
ずっと視界のなかに入れておきたくて、添い寝するように、降谷は包装紙に包まれたニット帽を隣に置く。目を閉じるとすぐに、しばらく疎遠となっていた睡魔に呑み込まれていった。
「……ん、……くん、……零君」
すぐそばで赤井の声がする。まだまだ眠いので、「あともう少しだけ寝かせて」と赤井にお願いしようとして、降谷は思い留まった。自分の部屋で寝ていたはずなのに、どうして赤井の声が聞こえるのだろう。降谷はゆっくりと目を開いた。
「あ、かい……?」
すぐ目の前に赤井の顔がある。赤井の目が自分だけを見つめていた。もしこの場にクラスの女子がいたら羨ましがられるかもしれない。そんなことをぼんやりとした頭で考えていると、赤井の顔がさらに近づいてきた。
「そろそろ待ち合わせの時間だ。起きれるか?」
寝ぼけていた頭がようやく覚醒し、降谷は飛び起きる。
「すみません! 今、何時ですか」
「十時五十五分だな。なかなか君が起きてこないから、具合でも悪いのかと心配したよ。勝手に部屋に入ってすまない」
「いえ! 起こしてくれて、ありがとうございます!」
待ち合わせは十一時半。待ち合わせ場所は隣の家なので、身支度を整える時間は十分にある。準備の時間も考えて、余裕をもって起こしてくれたのだろう。
ベッドから降りようとして、ふと赤井の視線がベッドの端に向けられていることに気づいた。赤井が何を見ているのかすぐに思い至り、降谷は青ざめる。
「……零君、これは?」
「えっと、これは……」
「随分と大事そうに抱えて眠っていたが、誰かからの贈り物かな?」
眠っている間の記憶はないが、まさか抱きかかえて眠っていたとは。自分がプレゼントされた側だと誤解されても仕方のない状況だ。
今は秘密にしておくべきかとも考えたが、赤井の表情が穏やかではないので、降谷は正直に言うことにした。いくら上手な嘘をついても、赤井を誤魔化すことはできないだろうという予感もあった。
夜まで秘密にしようと思っていたので、プレゼントの存在を知らせるのが随分と早まってしまったが、赤井に誤解されたままでいるよりはずっと良い。
降谷はおそるおそる告げた。
「実はこれ……あなたへのプレゼントなんです」
赤井の眉間に寄っていた皺がやわらいでゆく。驚きのためか、赤井は大きく目を見開いた。
「……俺に?」
「……はい」
包装紙に少し皺の寄ったプレゼントを、降谷は両手で赤井に手渡した。赤井はまだどこか信じられないような表情をして、それに手を伸ばす。壊れ物でも扱うかのように、赤井は慎重に降谷からのプレゼントを受け取った。
「開けてもいいかな?」
「もちろんです!」
リボンが解かれ、包装紙の中から黒色のニット帽があらわれる。赤井はニット帽を優しく手に取り、じっと眺めた。もし編み目のおかしいところがあったらどうしよう。心配で胸がどきどきする。赤井はニット帽を撫でまわしながら言った。
「俺のために、わざわざ作ってくれたのか?」
「え」
なぜ、自分が作ったことがこうも簡単に見抜かれてしまうのだろう。
何度も見返したはずだが、やはりどこか編み目のおかしいところがあったのかもしれない。赤井に渡す前に第三者に見てもらうべきだっただろうか。ぐるぐる考えていると、赤井にしては珍しく、どこか言いにくそうに言った。
「さっきから気になってはいたんだが、君の上着に黒色の糸がついている」
「あっ……」
最後に切り落とした糸が、何かの拍子でニット素材の上着に絡みついてしまったのだろう。
「それに、ラベルが見当たらない」
衣服の品質や素材、洗濯方法などが示されたラベルのことを言っているのだろう。多くの既製品にはラベルでの表示が義務付けられている。
手作りの形跡を消すことはできても、さすがにラベルまでは用意できない。既製品のように作るのはやはり難しかったようだ。
既製品だと嘘を吐いたわけではないものの、手作りを渡すことへの抵抗感に、降谷は押しつぶされそうになる。
「ごめんなさい。あなたの言う通り、手作りなんです」
正直にそう告げると、赤井は驚いたような顔をして言った。
「なぜ君が謝るんだ?」
「手作りのものって重いって言われたりするでしょ?」
クラスの女子が話していたことを、赤井に簡単に話す。赤井は顎に手をやり、視線を宙へ投げかけた。
「それは……相手によるんじゃないか?」
「相手……」
赤井の視線がこちらに戻ってくる。真剣な目でまっすぐと自分を見つめてくる赤井に、降谷は緊張した。
「意中以外の相手からなら、君の言うように“重い”と感じる人間もいるかもしれないが、俺は“君”に作ってもらえて嬉しいよ」
「……それなら、よかったです」
まるで赤井の意中の相手が自分であるかのような言い方に一瞬違和感を覚えるが、赤井は精一杯、自分の手作りが嬉しいことを伝えてくれようとしているのだろう。赤井にとって自分は特別なのだと改めて教えられたような気がして、どこか照れくさい気持ちになる。
「ありがとう、零君」
礼を言う赤井に、降谷はこくりと頷いた。
赤井ともっとゆっくり話をしたかったが、待ち合わせの時間が近づいている。
「……僕、急いで準備しますね」
「ああ」
赤井はニット帽を頭にかぶって降谷の部屋を出て行こうとする。
「……もしかして、かぶって行くんですか?」
「もちろん、そのつもりだよ」
赤井が微笑んで言う。赤井の笑みに胸がどきどきするが、赤井の頭を覆うニット帽に少しの違和感を覚えて、降谷は言った。
「少し、屈んでもらえますか」
「ああ」
赤井が腰を屈める。降谷はニット帽に両手を伸ばした。ニット帽と赤井の頭の間にゆとりがあり、少しだぼついているような気がした。
「少し大きいかも……」
自分の記憶を頼りにしながら、赤井の頭にぴったりだと思えるサイズで編んだはずだが、やはりきちんと頭のサイズを測らせてもらったほうがよかったのかもしれない。縫い糸で調整したほうが良いだろうかと考えていると、気にするなとでも言うような口調で赤井は言った。
「俺は今、成長期だから、きっとすぐにこのニット帽にふさわしい男になるよ」
「ふっ……なんですか、それ……」
まるでこのニット帽のために大きくなるのだと言われているようで、降谷は笑ってしまう。
実際、赤井の身長はどんどん伸びていた。すっと背を伸ばした赤井に並んで立つと、自分との身長差がまた少し開いたように見える。赤井はどんどん大人になってゆく。このまま、赤井に置いて行かれたらどうしよう。ほんの少しだけそんなさみしい気持ちにもなった。
阿笠博士の家の前へ行き、博士、コナンと合流して、車に乗って大きなスーパーへ行く。材料を揃えて博士の家に戻ると、すでにバーベキューの準備が整っていた。博士の家に住んでいる灰原という女の子以外に、三人の子どもたちがいる。自分たちが買い物に行っている間に、四人で準備を進めてくれていたらしい。簡単に自己紹介を終えると、子どもたちは人見知りをすることもなく、自分たちを受け入れてくれた。
「その帽子、素敵だね!」
歩美という名前の女の子が、赤井に言った。自分の作ったニット帽の感想を言われて、降谷はどきりとする。どう反応すればよいのかもわからないので、降谷は赤井たちから視線を逸らし、片面の焼けた肉をひっくり返した。
赤井がどこか誇らしげな口調で言った。
「ああ、これは俺の大切な人が作ってくれたんだよ」
「手作り すごーいっ!」
「もしかして、彼女さんとか?」
今度は光彦という名前の男の子が、赤井に問いかける。その隣にいる、元太という名前の男の子は、焼かれていく肉に夢中だ。
赤井はこたえず、こちらを向いた。つられるように顔を向けると、赤井と視線が合い、なぜか顔が熱くなる。ぶわりと恥ずかしさに似た感情が湧いてきて、降谷は赤井から再び視線を逸らした。すると今度は、隣で紙皿を用意していたコナンが、小さな声で言った。
「あのニット帽、もしかして零兄ちゃんからのプレゼント?」
「……どうしてわかったんだい?」
小さな声で問い返す。コナンは何もかもお見通しだといわんばかりに、満面の笑みを浮かべて言った。
「だって……秀一兄ちゃんがあんなに嬉しそうな顔をするのは、零兄ちゃんが関わっているときだけだから」
「……そうなの?」
「そうだよ!」
あまりにも自信満々そうにコナンが言うので、降谷は驚いた。しかし、同時に嬉しくもあった。
赤井はプレゼントを喜んでくれている、そのことがコナンの言葉からも証明されたような気がして、降谷は安堵の笑みを零した。