Heartfelt Memories(旧題:記憶は心の底に)⑨―赤井Side 6月―
修学旅行の最後の夜。
赤井は、これまで経験したことのないようなひどい頭痛を覚えるのと同時に、自分が“本当は中学生ではない”ことを思い出した。
いや、正確には、小さな頭痛を伴い何度も思い出しかけたことはあった。
これまで何度か訪れた、記憶違いかと思われた“小さな違和感”が、まさか失くした記憶の断片だったとは思いもよらなかった。
降谷も自分と同じように、何度も小さな違和感に首を傾げていたのを思い出す。
しかし、降谷はまだ記憶を取り戻してはいないようだった。
六月七日、金曜日。朝、目が覚めると家の中に降谷の気配がなかった。
『日直なので、僕は早めに学校に行きます』
RX-7の裏にあるボタンを押すと、降谷の声が聞こえてくる。その声は、自分が良く知るそれよりも幼くて可愛らしい。
降谷の子どもの頃の姿は、もし見ることができたとしても写真の中だけのはずだった。それがまさか自分の目の前で動き、喋っているとは。赤井が記憶を取り戻したとき、はじめは夢でも見ているのかと思った。
しかし、身体が縮んだあと、降谷と過ごしてきた日々の記憶が自分の中には確かに残っていて、夢ではなく現実であることは疑いようがなかった。
赤井はまず現状把握に努めることにした。“自分が記憶を取り戻したこと”は誰にも告げず、自分であることに気づかれないようFBIの情報にアクセスした。
降谷も自分も、公安やFBIのデータベースからは存在自体を抹消されていた。これが意味するところは、今の自分たちは、公安あるいはFBIとして表立った行動ができないということでもある。
影で自分たちの様子を窺っている人間がいるのかもしれない。そう思い周囲の様子に注意を向けていると、学校にいる間に何度か遠くから視線を感じることがあった。だが、家にいる間は誰かの視線を感じたりすることはない。部屋中を調べても外部の人間が置いて行ったような盗聴器や監視カメラの類は出てこなかった。最低限、自分たちのプライベートは守られているということだろう。
しばらくは、ただの中学生として、今まで通り過ごすことを赤井は選んだ。
記憶を取り戻す前の自分はどうだったか。自分のこれまでの言動を振り返りながら、中学生のフリをしなくてはならないのはなかなか堪えた。
素の自分を出したところで降谷を混乱させるだけ。そう自分に言い聞かせながら、沖矢昴のときのように別人を演じるような心持ちで、赤井は演技をし続けた。
その甲斐あって、自分の中身が三十を過ぎた男に変わっていることは、降谷もまだ気づいていない。しかし、修学旅行の最後の夜から、少しずつ降谷の様子が変わっていったような気がしていた。避けられているわけではないが、どこかよそよそしい気がするのだ。
その様子には既視感のようなものがあった。自分の告白を受け入れる前。気持ちは決まっているように見えるのに、なかなか首を縦に振らなかった頃の降谷とよく似ている。
今がそのときと同じ状況であるかどうかはわからない。だが、記憶を失くしてもなお、自分を受け入れてくれたら嬉しいと赤井は思った。
記憶を失っても、降谷にもう一度恋をした自分のように。
降谷との二度目の出逢いは、瓦礫の中だった。意識が途絶えゆく中で、きらきらと輝く天使のような存在が目に映った。必死に手を伸ばし、その天使の手を握り締めたことをとてもよく覚えている。次に目を醒ましたときには見知らぬ病院の病室にいて、隣のベッドにはその天使が眠っていた。
いったい自分の身に何が起こったのか。そのときの赤井は何も思い出すことができなかった。
医師や看護師の言葉から、ここが日本であるということはすぐにわかった。だが、イギリスにいたはずの自分が、なぜ日本に来ているのか。日本に移動してきた記憶もなく、病院に連れて行かれるような病気や怪我を負った記憶もない。しかし、鎮痛剤が効いてはいるのだろうが、身体は痛みと熱を持っている。自分が病院にいるべき人間であることは間違いなさそうだった。
それから病院で治療を受け、しだいに隣のベッドで眠っている天使とも会話をするようになり、退院する前日にコナンと出会った。
コナンは小学一年生と自分たちよりも幼いが、中学生として日常生活が送れるように自分たちを導いてくれた。不思議な少年だと思った。
そして、この家に住み始めて半年以上が経過し、自分だけが先に記憶を取り戻した。
記憶を取り戻してすぐ、鏡で自分の姿を見たときの衝撃を、赤井はしばらく忘れられそうにない。
なぜ身体が縮んでしまったのか。記憶に残っているのは、必要なデータを手に入れて外に脱出しようとしたとき、毒ガスのようなものが天井から噴き出してきたところまでだ。すぐに手で鼻と口を覆い、降谷と一緒に出口へと向かったことは覚えている。しかし、建物の外に出たときの記憶はない。
ガスが身体に入ってから病院へ向かうまでの間に、記憶を失い、身体も縮んでしまったのだろう。だが、まだ答え合わせはまだできていない。降谷が記憶を取り戻すことができれば、この日の記憶を二人で照らし合わせながら答えを導き出せるかもしれない。
ふと時計を見れば、いつも家を出る時間になっていた。素早く身支度をし、降谷が用意してくれていた朝食を急いで食べて、家を出る。外はどんよりと曇っていた。
六月九日には運動会が催されることもあって、授業も座学の科目はなく、運動会の予行練習がメインとなっている。あまり本気は出さないように、けれど降谷にかっこ悪いと思われたくはないので、必ず一位にはなるよう力を加減しながら競技をこなしていった。
予行練習で一位になり、降谷の視線がこちらに注がれるたび、赤井は降谷を見つめ返した。そうすると、まるで“僕は赤井なんて見ていませんよ”と誤魔化すように降谷が視線を逸らす。そんなやり取りですら、今は愛おしく感じた。
放課後。降谷は先に帰ってもいいと言っていたが、赤井は降谷の日直の仕事が終わるまで教室で待っていた。外ではポツリ、ポツリ、と雨が降りはじめている。これくらいであれば傘がなくても帰れるだろうと思っていたが、降谷が日誌を書き終える頃にはどしゃ降りの雨へと変わっていた。
「雨、本格的に降り始めてきちゃいましたね」
「ああ」
傘を差さずに濡れて帰るつもりでいたが、自分の頭上にそっと降谷の傘がかざされた。
「風邪引いちゃいますよ」
「……ありがとう」
背が高い方が傘を差したほうが良いと思い、降谷から傘を受け取って頭上にかざす。降谷が濡れたりしないように近づくと、降谷がびくりと身体を震わせた。普段はまったくそのような素振りを見せないのに、ふとしたときに小動物のように驚き、戸惑いはじめる。ただの友人としての距離に慣れすぎてしまい、一歩踏み込んだ距離にはまだ慣れていないせいもあるのだろう。
記憶を失くしていた自分も、修学旅行の前までは仲の良い友人としての距離を見誤らないよう気をつけていた。その判断はある意味で正しくはあるが、記憶を取り戻した今となっては、もう少し踏み込んでも良かったのではないかとすら思える。
とはいえ、降谷は今、心身ともに中学生だ。降谷を困らせるような真似はしたくない。今は少しずつ、降谷の気持ちが育つのを待つのがいいのだろう。
降谷が雨に濡れないように傘を傾けながら、赤井は静かに歩を進めた。
六月九日、日曜日。登校してホームルームの時間になると、運動会は明日に延期となったことが知らされた。登校中はまだ雨は降っていなかったが、登校時間を過ぎた頃には雷を伴う大雨に変わっており、このまま外で運動会を実施するのは危険という判断になったようだ。
その日は通常通りの授業もできず、体育館で運動会の予行練習をし、午後には下校となった。
明日は降谷と自分にとっての記念日だ。記憶を取り戻すのと同時に、十月十日が何の日であるのかも赤井は思い出した。毎月十日を記念日にしていたのは驚きだったが、降谷との記念日は多ければ多いほど楽しい。
もともと、十日は降谷とトロピカルランドへ行く予定になっていた。予定通り九日に運動会が実施されれば、十日が休みになるはずだったからだ。
しかし、十日が運動会になってしまったため、トロピカルランドへ行くのも延期となった。
トロピカルランドへ行けない代わりに、今月の記念日はどうするか、赤井は降谷と一緒に考えた。下校中二人で話し合い、運動会で腹を空かせるだろう自分たちのために、豪華なお弁当を作っていこうということになった。家に帰る前にスーパーへ立ち寄り、そのあとは寄り道せずまっすぐ家へと帰った。
そして、六月十日になった。
普段よりも二時間以上早く起き、昨日二人で買い出しに行った食材を広げる。二人で手分けして調理をし、ほとんど作り終えたところで、降谷がある方向を凝視し、何かを考えこんでいた。降谷の視線の先には、重箱と弁当箱がおさめられた棚がある。降谷は神妙な面持ちで言った。
「赤井……」
「ん?」
「今日、誰かと一緒に昼食を食べる約束ってしてますか?」
「いや、していないよ」
そうこたえると、降谷は嬉しそうに重箱を手にして言った。
「じゃあ、こっちにしますね!」
「ああ」
降谷以外の人間と食事をするなどあり得ない。君のことしか目に入っていないのに……と告げてしまいたくなったが、赤井はぐっと堪えた。
雲の隙間に陽の光が覗く天気の中で、運動会は開催された。
全校生徒は赤組と白組に二分される。自分たちのクラスは赤組だった。「赤井は赤色のハチマキが似合いますね」と降谷が言ったので、赤組で良かったと赤井は思った。と同時に、なんとしてでも赤組を勝たせたいと思った。
三十を過ぎたFBI捜査官も、好きな子を目の前にしてはただの男に戻ってしまう。赤井はどの競技も、周囲に怪しまれない範囲内で、全力を尽くした。多くの女子たちの歓声も聞こえてきたが、「あかいー、がんばれー」と応援する降谷の声が、一番自分を鼓舞させた。
昼食の時間になり、赤井は降谷と一緒に体育館裏へと向かった。そこには先客の三年生の男女がいた。二人は彼氏彼女の関係なのだろう。身体をぴったりとくっつけあって昼食をとっていた。
その場で立ち止まってしまった降谷の手をとり、赤井は体育館倉庫の裏へと向かった。誰もいないことを確認し、風呂敷をほどいて重箱を開ける。降谷の表情が固まったままなので、赤井は少しだけ心配になった。
「零君?」
「えっ……あぁ、すみません。まさか先客がいるとは思わずビックリしちゃって」
赤井は少しだけ考えて、降谷の前ではなく隣へと移動した。降谷が驚いたように身体を震わせる。可愛らしい反応に心の中で微笑みながら、降谷と近づき過ぎない程度に距離を近づけて、赤井は座り込んだ。
「食べようか」
「は、はい」
二人で作った料理を紙皿の上に取り分けて、箸を進める。運動をしてお腹が空いていたのもあるが、二人で協力して作ったものはどれも美味しかったので、次から次へと口の中へ入っていく。
二人では食べきれないかもしれないと思えるほどの量を作ってしまったが、昼食の時間が終わる頃にはすべて平らげてしまっていた。空になった重箱に降谷が満足そうに微笑むのを見て、本当に可愛らしいなと赤井は思った。
午後も競技が続き、最後の競技である全校リレーが始まる時間となった。各学年男女四名ずつが選出される形となっており、降谷も自分もメンバーの中に入っていた。一年生から順番にバトンが渡されていき、二年生である自分たちはリレーの半ば頃に走ることになる。
赤井は降谷からバトンを受け取って、三年生へと渡す役目を担っていた。二年生にバトンが渡る頃には、白組が赤組を大きく引き離しリードしていた。赤組の勝利は絶望的な状況だ。しかし、降谷の番になって赤組が大きく追い上げた。自分にバトンが渡る頃には、周回遅れほどあった差が、三分の一周程度まで縮まっていた。降谷からバトンを受け取る瞬間、降谷の真剣な目が自分に「勝て」と告げていて、赤井は覚悟を決めた。
周囲から驚きの声が聞こえてくるが、構わず全力で赤井は走った。三年生にバトンを手渡す頃には、白組を完全に抜き切り、赤組が大きくリードしていた。走り終えて所定の位置に戻ろうとすると、目の前に影ができた。降谷が自分を待っていてくれていたのだ。降谷は興奮した声で言った。
「さすが、赤井! これで赤組の勝利は間違いないですよ!」
「ああ、そうだな」
二人並んで、クラスのみんながいる場所へと移動する。隣で歩いていた降谷が、心の声を吐露するような声音で言った。
「それにしても……アラサーの僕達が、まさか運動会で全力でかけっこする日が来るなんて思いもしませんでしたね」
「……零君?」
「あれ? 僕、何を言ってるんだろう……」
降谷はその場に立ち止まり、自身が口にした言葉の意味を考えはじめた。おそらく無意識に出た言葉だったのだろう。降谷はしばらく視線を落としていたが、ふと何か思い立ったように顔を上げる。
ちょうどそのタイミングで、リレーの終了を知らせる競技用のピストルが鳴った。
ピストルの音に、思い出しかけた何かが再び降谷の胸の内に戻ってしまったようで、降谷の視線は迷子のように宙を漂う。
再び視線を落とした降谷の手を、赤井は何も言わずそっと握り、クラスのみんなのもとへと歩きはじめた。女子生徒たちの黄色い声が絶え間なく聞こえてくるが、赤井は降谷の手を握り締めたまま離さなかった。
全校リレーの勝者はもちろん赤組で、運動会は赤組の勝利で幕を閉じた。