第3回お題「ウイスキー」 組織壊滅作戦前の最後の休日。赤井に呼ばれて降谷が訪れた場所は、ホテルのスイートルームだった。
赤井とはいわゆる恋人同士である。しかし、周囲に明かすことのできない秘密の関係だった。
恋人として接することができるのは、ふたりきりのときだけ。
次にふたりきりで過ごせるのは、いつになるかわからない。だからこそ、赤井はこうして特別な部屋を用意してくれたのだろう。
降谷は緊張しながら部屋へと入った。ふと、部屋の中心にあるテーブルに、視線が止まる。テーブルの上にはウイスキーのボトルが一本、佇んでいた。
これは? と目で問いかけると、赤井は微笑んで言う。
「作戦を終えたら、君と一緒に飲もうと思ってね。取り寄せたんだよ」
降谷はボトルのラベルを読み上げた。
「フォーギブン――ライとバーボンのブレンドですね」
「ああ」
「僕、飲んだことないんですよ。どんな味がするのかな」
「一般的には甘くてスパイシーな味と言われているようだが、実際にどんな味がするかは飲んでみてのお楽しみだな」
作戦を無事に終えたあと。二人でフォーギブンを酌み交わす日のことを想像して、降谷は微笑んだ。外気で冷えた頬をそっと赤井の掌に包まれて、心地よい温もりに降谷は瞼を下ろす。
フォーギブンに見守られながら。降谷は夢のような一夜を赤井とともに過ごした。
しかし、夢から覚めたあとは、悲しい現実が待っていた。
目の前には、まるで映画のワンシーンのような光景が広がっている。それは降谷にとって、残酷な現実だった。
爆発に巻き込まれ足を負傷した女性を、赤井が抱き上げて救急車へと向かっている。
彼女はFBIに所属している赤井の同僚だ。作戦に参加する者で知らない人間はいないほど、容姿は美しく、周囲からの評判も良い。そして、赤井に片想いをしているという噂もあった。
赤井に伝えたいことでもあるのか、彼女が口を開く。しかし聞き取れないようで、赤井が彼女の唇に耳を寄せていた。赤井はFBIの捜査官のひとりとして、救助作業をしているだけだ。だが、周囲にいる人間は、それだけではないと思っている。
降谷は胸が痛んだ。赤井と自分は同性だ。同性愛にまだまだ理解が乏しい組織の中で生きていくために、自分たちが恋仲であることは誰にも告げていない。いや、告げられなかった。だから、彼女と赤井が特別な関係ではないことを、周囲に伝えることもできない。
自分と恋人であり続ける限り、周囲の目がある表の世界では、赤井は独り身を貫き通さなければならないだろう。
ふたりだけの世界でしか育めない秘密の恋よりも、周囲に祝福される恋の方が、赤井にとっては幸せなのではないか。降谷は静かに、自分へ問いかけてゆく。
降谷の心が決まるのは早かった。
降谷は滲む世界に瞼を下ろして、赤井に背を向けた。
作戦後。降谷は赤井から距離を取った。電話にも出ず、赤井からメッセージが送られてきても、すべて返事をしなかった。毎日何らかの形で連絡が来ていたが、徹底的に避け続けた結果、こちらの意図を察したのか、赤井からの連絡は途絶えた。
着信とメッセージがすべて止まった日。秘密の恋の終わりは、安堵と同時に、絶望的な喪失感をつれてきた。
本当にこれでよかったのだろうか? そう自問自答しながらも、赤井の幸せのためにはこうするしかないのだと、降谷は自分に言い聞かせた。
組織の残党狩りが進む過程で、赤井をはじめとしたFBIのメンバーはアメリカへ戻ることになった。その他の機関のメンバーも、ほぼ同時に帰国が決まった。
赤井が出国する日。ふと、あの日見た“フォーギブン”を降谷は思い出していた。きっともう、あのボトルは赤井の手元にないだろう。そう思いながら、降谷は赤井の連絡先をスマホから削除した。
三年の月日が流れた。
ある冬の日、降谷はアメリカの地に降り立っていた。
工藤新一の頼みで、赤井に書類を届けることになってしまったのだ。郵送で良いじゃないかと降谷は言ったが、「トップシークレットな情報だから、郵便事故にでも遭ったら取り返しがつかないんです!」と、新一は必死に訴えてきた。
断るためには、終わった赤井と自分の関係を新一に話さなければならなくなる。悩みに悩んだ末、新一の頼みを降谷は引き受けることにした。
ちょうど上層部からの命令で溜まりに溜まった有給消化を命じられていたので、アメリカで少し観光でもして帰ればいいかと、降谷は無理やり楽観的に考えることにした。
新一から教わった赤井の住所には、セキュリティが厳重そうなアパートメントが建っていた。白い吐息を零しながらおそるおそるベルを鳴らすと、心の準備が整う間もなくドアが開く。
ドアの向こう側には赤井がいた。後ろ髪を伸ばしているのか、ひとつに束ねている。少し痩せたかもしれない。
震えそうになる声を必死に抑えながら、降谷は笑顔を作った。
「お久しぶりです、赤井」
「……ああ」
「新一君から頼まれて、あなたにこれを……」
預かった封筒を赤井に渡す。赤井の左手の薬指には、何も嵌っていない。ほっとした自分に動揺していると、視界の隅に女性物のヒールがちらりと映った。どくりと降谷の胸が鳴る。“こうなること”を望んでいたはずなのに、自分の感情は複雑に揺れ動いていた。
「ボウヤから聞いているよ。こんな遠くまですまなかったな」
「いえ……じゃあ僕はこれで」
感情を抜き去った声でそう告げ踵を返すと、強い力で腕を掴まれた。懐かしい赤井の手の温もりに、目頭が熱くなる。
「少し休憩して行かないか。空港から直接ここへ来たんだろう?」
降谷は赤井に背を向けたまま言った。
「……ええ。でもやめておきます。彼女が今、家にいるんでしょう?」
「彼女?」
「……あなた、今お付き合いしている人がいるんですよね?」
静寂が訪れた。心臓が大きく脈打っているのがわかる。答えはもうわかりきっているのに、耳を塞ぎたい気持ちで胸が押しつぶされそうだった。
――ああ、自分はまだこんなにも、この男のことを愛しているのか。
降谷は力なく笑った。未練という言葉では生ぬるいほどの感情を、胸の内で滾らせている。
しかし赤井の答えは、降谷の想像とは大きくかけ離れたものだった。
「……俺は今でも独りだよ、降谷君」
「え? じゃあ、このヒールは?」
降谷は振り返り、玄関に置かれたそれを指差す。赤井は驚いたような表情を見せたあと、すぐに穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ああ、これは真純のものだよ。今、大学生は冬休みに入っているからな。先週この家に遊びに来ていたんだが、また来週来る予定だから置いて行ったんだろう」
「そ、そうだったんですね……」
「それより外は寒かっただろう。早く中に入るといい」
赤井は自分の腕を掴んだままだ。勘違いした手前、ここから逃げ出すのも憚られて、降谷はおとなしく家に上がることにした。
「……はい」
とんでもない思い違いをした恥ずかしさに耐えていると、廊下の向こう側にあるドアが開かれる。
すぐに目に入ったのは、部屋の中心――真っ白なテーブルの上にある、一本のボトルだった。
あの日。ホテルのスイートルームの中心に置いてあったように。“フォーギブン”がこの部屋の中心に佇んでいた。部屋の扉を開いてすぐ目に入る場所だ。
降谷の足は、まっすぐに“フォーギブン”へと向かっていた。
ボトルの封は開けられていなかった。
こんな姿で、今もこのボトルが残っているとは、夢にも思っていなかった。
想いが、溢れ出す。震える肩が、熱を帯びた赤井の掌に包まれた。
「君の気持ちは、ずっと変わっていなかったんだな」
まるで答え合わせをするかのように、赤井がそう言った。
「…………ッ」
「君は優しいから、俺を嫌いになったと直接言えず、わざと距離を取るようになったのだと思っていたよ」
三年前。降谷はたとえ嘘であっても、赤井を嫌いになったとは言えなかった。赤井に逢えばきっと決心が鈍る。自分のその弱さを自覚してもいた。だから、逃げ続けることしかできなかった。
しかし赤井にはもう、自分の気持ちを知られてしまっている。これ以上、赤井にも自分にも嘘を吐くことはできない。
三年前に言うべきだった言葉を、声を押し出すようにして降谷は言った。
「ぼ、僕は、あなたは僕以外の女性と幸せになるべきだと思って――」
続きは声にならなかった。
「俺が君以外の人間と一緒になって、幸せになれるはずがない。その証拠に、毎日、毎日、このボトルを見ながらずっと、君を想っていた」
赤井の声は強かで、そして優しかった。自分は赤井を幸せにするどころか、ずっと苦しめていたのに、だ。
自分が思っているよりずっと、赤井は自分のことを愛してくれていた。三年経った今でも、ずっと。
「ごめっ……ごめんなさい、あかい……」
自分が犯した罪は重い。どうすればこの罪を償えるのだろう。罰を受けるどころか、自分は赤井に幸せを与えてもらってばかりいる。
こんなことが、許されていいはずがない。
しかし赤井は、こんな自分でさえも、一心に庇おうとするのだ。
「君が謝る必要はどこにもない」
封筒が床に落ちる音。
赤井に強く抱き締められて、降谷は目を見開いた。
赤井の背中越しに、ボトルに描かれた“Forgiven”の文字が目に入る。
滲みゆく世界を見つめたまま、降谷は堪えきれず涙を零した。