第6回お題「自覚」 桜の花が散りはじめ、地面が薄桃で彩られる頃。
現場で赤井と顔を合わせるなり、降谷は開口一番にこう言ってきた。
「ここに来る直前、煙草を吸ってきたでしょう」
降谷に会う前、あるいは一緒に行動している最中にも煙草を吸うことは頻繁にあるのだが、なぜか今日に限って降谷は言及してきた。
煙草の銘柄も変えていないので匂いも変わっていないはずだが、いつになく降谷は顔を顰めている。そこまでひどく匂うのだろうか。
「ああ。……匂うか?」
問うと、降谷は軽く鼻をつまみながら言った。
「先日、組織の薬品庫に行ったあたりからなんだか変なんですよね。匂いに敏感になったというか……」
組織の薬品庫に行ったのは、一週間ほど前のことだ。ただ匂いに過敏になっているだけなのか。それとも、降谷の身体に何か異変でも起きているのか。
「敏感、とは……どの程度のレベルのものだ?」
「逃走した犯人を、匂いで追うことができるレベルにはなっていますよ」
それはもう人間の域ではない。匂いに敏感になっている、と言えるレベルはとっくに超えているのではないか。まるで警察犬のような嗅覚である。
「君がそうなった原因に心当たりは?」
「薬品庫で、妙な匂いを嗅いだんですよね。もしかするとそれが原因かも……」
「まずは一度、医者に診てもらったほうがいい」
「そうですね……そうしてみます」
「何かあったら、すぐに連絡してくれ。薬品庫にあった薬はすべて、こちらでも解析中だ。君のその症状に関係する薬が見つかったら報告する」
「わかりました」
とりあえず話がついて、降谷が持ち場へと戻っていく。降谷が去ったあと、赤井は自分の匂いを嗅いでみた。いつもと変わらぬ煙草の匂いがした。
翌日。FBIのメンバーが集まっている警察庁の一室へ降谷がやってきた。
「今日、病院で色々検査してもらったんですが、今の僕は、犬と同等の嗅覚を持っているそうです」
昨日、まるで警察犬のような嗅覚だと思ったが、まさか本当にそうなっていたとは。
「それは……生活に支障はないのか?」
「匂いがきついモノのそばにいるのは、正直しんどいです」
そう言いながら、降谷は少しだけ後退った。匂いがきついもの――それはまさしく、今、自分が纏っている煙草の匂いだろう。
休憩室で煙草を吸って帰って来たばかりなので、匂いもまだはっきりと残っている。今の自分から放たれる煙草の匂いは、降谷にとっては逃げたくなるレベルのものに違いない。
降谷から距離を置かれるのは、正直堪える。
降谷の嗅覚が正常に戻るまで禁煙しよう。そして、薬品庫にあったすべての薬の解析を急がせなければと赤井は思う。
今は嗅覚の異常だけで済んでいるが、今後、身体の他の機能に影響が出ないとも限らない。
しばらくは降谷の様子を見守る必要があるだろう。そのためには、降谷に逃げられないよう、自分の身体から極力匂いを消さなければならない。
効果があるのかはよくわからないが、すぐそばにあったファブリーズを手に取り、赤井は全身に吹きかけた。
一週間後。薬品庫にあったすべての薬の解析が終了した。
すぐに降谷と連絡を取り、赤井は降谷のいる部屋へ急ぎ足で向かった。
警察庁の上層部には情報が伝わっているようで、降谷は今、二重扉のある個室が与えられている。外からの匂いがほとんど入ってこないので、集中して作業できるようになったと降谷は喜んでいた。
禁煙をはじめたことで、赤井も快く入室させてもらえるようになった。日に日に降谷との物理的な距離が近づいているのは、日が経つごとに自分から煙草の匂いが消えていっているからだろう。
ドアをノックすると、「どうぞ」と降谷の声。声音に変わりがないことに少し安心する。
しかし、赤井が部屋に入ってすぐ、降谷は窓際まで後退し、怪訝そうな顔をして言った。
「……もしかして、女性と会ってきました?」
「ああ。さっきまで薬品庫の調査チームと打ち合わせをしていたからな。……何か匂うか?」
「香水の匂いがします……」
降谷が軽く自身の鼻をつまんで言う。
「ああ……すまない。エミリーが隣に座っていたから、匂いがうつったんだろう」
エミリーは薬品庫にある薬を解析していたFBIのメンバーのひとりだ。打ち合わせは複数人で行われていたが、隣に座っていたのが女性であるエミリーだった。香水は少し香る程度だったが、今の降谷にとっては耐えがたいものに違いない。
「……」
余程この匂いがつらいのか。降谷が泣きそうな顔をしてこちらを見ている。このまま話を続けるのは無理だろうと赤井は思った。
「シャワーを浴びてくるよ。確か場所は……仮眠室の隣だったかな」
「ええ、そうです」
「少し待っていてくれないか」
こくりと頷く降谷を見届けて、赤井は急いでシャワー室へと向かった。
シャワーを浴びて再び降谷の部屋に戻って来ると、先程とは打って変わって、吸い寄せられるように降谷が自分に近寄って来た。
「おかえりなさい」
そう告げてすぐ、驚くべきことに降谷は自分の胸に顔を埋めてきた。ここまで距離を詰められるのは初めてで、赤井は動揺する。
降谷はくんくんと匂いを嗅いでいるようだった。
やめさせるべきかどうか悩んだが、部屋には自分たちしかいないので、そのままにしておくことにする。
この部屋に来た本来の目的を果たさなければと自分に言い聞かせて、赤井は構わず続けた。
「薬品庫から発見された試薬に、嗅覚を一時的に増強する成分が含まれていたらしい。効果は二~三週間。副作用として“犬のような行動”をする可能性もあるようだが、人体への影響はないそうだ。もうしばらくすれば、元に戻れる」
「…………」
降谷が何も反応しないので、赤井は名を呼んだ。
「……降谷君?」
「あなたの匂い、いい匂いですね……」
自分の報告を聞いていたのかどうかすらあやしい。
降谷はなんともいえない幸せそうな顔をして、自分の匂いを嗅ぎ続けていた。おそらく無意識だろうが、匂いを嗅ぐだけではなく、自分の胸にすりすりと顔を擦り寄せてもいる。
果たして、この子は自覚しているのだろうか。
もしも、降谷に“犬のような行動をする”副作用が現れているのだとしたら――降谷のこの行動は、赤井に自身の匂いをつけたい、あるいは、赤井の匂いをつけられたい、という本能から来るものだということに。
そしてその本能は、嫌いな相手にはけっして向けられないものだ。むしろ、それは――。
「――君は、俺のことが好きなのか?」
赤井が子どもに問いかけるように優しい声で言うと、降谷は我に返ったように顔を上げる。
そして一目散に部屋の隅へと駆けていき、降谷は自分に背中を向けて叫んだ。
「わ、わかりません」