うちの奥さんが世界で一番可愛い! ヌヴィレットは日々の業務を終えて、席から立ち上がる。エントランスを抜けて外に出れば、夜間警備員達が彼に敬礼をする。
「お疲れ様です!最高審判官殿!」
「ああ、今晩は君達か。留守を頼む」
「お任せ下さい!良い夜を!」
「ああ、君達も」
短い挨拶を済ませ、ヌヴィレットは歩き出す。巡水船乗り場に着いてから今日の運行が終わっている事に気付いて僅かに表情を曇らせる。さて、どうやって帰ったものか……。暫し考え込んだ後、ヌヴィレットはその場を離れる。人気のない場所まで行くと彼はゆっくりと浮き上がる。人の目には見えない高さまで来た所でスピードを速めれば、眼下に見えていたフォンテーヌ廷がぐんぐんと遠ざかる。彼はエリニュス山林地区に建つ一軒家に降り立つと懐から鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ドアノブに手を掛けて回して中へと入る。
「おかえり、ヌヴィレット!」
パタパタと駆けて来る軽い足音に心が軽くなる。近頃、流行りの稲妻スタイルに倣い靴を脱ぐ。
「ただいま、フリーナど……の……?」
振り返ったヌヴィレットは妻であるフリーナの姿を見て固まる。
「どうかしたかい?あ、さては疲れたのかい?今日も1日お疲れ様!」
プクプク獣のスリッパを履いた彼女はこれまた揃いのエプロンを着けて、ヌヴィレットの前に立つと精一杯に背伸びをする。彼が屈んでやればその手が頭を撫でる。
「さ、ご飯にしようか!」
こちらに背を向けたフリーナを抱きしめて、肩に顔を埋めると甘やかな香りを楽しむ。
「擽ったいよ、ヌヴィレット……今日は随分と甘えたさんだね……ふふ、小さい子みたいだ」
フリーナはくすくすと笑うとヌヴィレットの頭をぽんぽんと優しく叩いた。彼はふと、パレ・メルモニアの職員が昼間話していたことを思い出す。
うちの奥さんが世界で一番可愛い!と新婚の男性職員は、最近流行りのこれまた稲妻から持ち込まれた概念、愛妻弁当を前に叫んだ。ヌヴィレットの手前、周りの者達が彼の大声を咎めた。ヌヴィレットとしては、もうちょっと話を聞いてみてもよかった気がしていた。
ああ、やはり聞いておくべきだったと後悔しながらヌヴィレットは抱きしめる力を強くする。
「ちょっと痛いってば!もう少し優しく抱きしめてくれ!」
「ああ、すまない」
少しだけ力を弱めたまま、彼はフリーナを抱き締めるのを止めない。
「はあ……もう気の済むまでそうしていたらいいよ」
彼女は諦めたようにそう言うと、くるりと振り向きヌヴィレットを優しく抱きしめて頭を撫でる。
「龍っていうより大型犬みたいだね」
「……わん」
「そうじゃない」
君も大分疲れてるねえ、と言うと労るようにぽんぽんとその背を優しく叩いた。先週は君の方が忙しかっただろう、と言えば、まあね、と返された。
最高審判官のヌヴィレットが多忙なのはいつものことだが、先週までのフリーナは監督をしていた影映の撮影が終盤を迎えていて、玄関で寝落ちているということも珍しくなかった。なんなら、先週の一週間はフォンテーヌ廷のアパートメントに泊まり込んでいたため、ヌヴィレットが誰もいない家に帰ってくることも珍しくなかった。……寂しくなかったと言えば嘘になる。明かりの灯った家に帰るのがこんなに嬉しいものだとは思ってもいなかったのだから。
「そろそろ終わり!ご飯冷めるよ!」
パッと離れるとフリーナは素早い動きでダイニングへと入っていった。人1人分の温度がなくなり、寒くなったヌヴィレットはそれを追うようにダイニングへと入る。完璧にディナーの用意がされたテーブルを眺めながら椅子に座り、水元素で手を清める。タイミング良く、フリーナがスープが波々入った鍋を運んできた。熱々の鍋を持つ手に嵌まるミトンはプクプク獣の脚を模した物であった。
「使いにくくないのか?」
「何が……ってこれのことかい?まあ、確かに使いにくいかな。でも、可愛いだろう?」
フリーナは鍋を置くとミトンのままヌヴィレットの頬を両手で挟んだ。
「これ、普段はポケットになってて便利なんだ。意外と厚い生地でできているだろ?」
ぽふぽふと気の抜けた音がヌヴィレットの鼓膜を揺らす。
「……確かに」
フリーナはエプロンにミトンをチャックで着けるとエプロンを外して椅子に座り、スープに口をつける。
「ん〜!流石は僕だね!ほら、君も食べたまえ、冷めてしまうよ」
ヌヴィレットも促されるまま、スープを口へ運ぶ。
「……確かに、美味だ」
「フフ、そうだろう!そうだろう!」
得意気な顔をしてフリーナはヌヴィレットに笑いかける。彼は不意に昼間の事を思い出した。
「なるほど……これが『うちの奥さんが世界一可愛い』というやつか」
「ぶふっ……!ゲホッゲホッ……!ねえ、キミ、本当に大丈夫かい?労働のし過ぎでついにおかしくなったんじゃないだろうね?」
フリーナはスープで濡れた口元を拭う。
「……フリーナ。行儀が悪いぞ」
「誰のせいでこうなったと思ってるんだ!!」
「まだ寝ないのか?」
ヌヴィレットが入浴を済ませてリビングに入れば、テーブルにいくつかの脚本を広げているフリーナがいた。時々、その手が赤いペンで修整を入れているのを見るかぎり、仕事のようだ。ヌヴィレットは眉根を寄せる。いくら仕事熱心とはいえ、人間である彼女は寝なければ疲労が溜まる。未だ、呪われていた頃の癖が抜けないのかフリーナは時々この様な無理をする。寧ろ、呪いが解けて肩の荷が降りてからの方が夜更かしをすることが増えた。それも人間らしいと思って見逃していたが、流石に目を逸らすわけにもいかない問題になっていた。何より、明日は久々にお互いの休みが合うのだ。
「……」
「うわあ!何するんだ!」
「今日の業務は終了だ、フリーナ殿」
フリーナを担ぎ上げるとヌヴィレットは手の一振りでマシナリー製の照明を落として部屋を出る。そのまま寝室に入るとベッドの上にフリーナを下ろし、抱きしめて横になる。
「もう、強引だなぁ……」
「君の健康を考えたまでだ……貧血気味らしいな?」
「うわ!見たのかいプライバシーの侵害だ!」
「勘違いしないで頂きたい。私は最高審判官としてこの国の全ての書類に目を通す義務があり、その中で妻である君の健康診断の結果に目を通したとて、それは職務の一部であり、個人的な」
「ああもういい!わかった!わかったから寝室では堅苦しい話をしないでくれ!」
同じベッドで向かい合って雑談を交わす。ヌヴィレットは自身の腕に頭を預ける妻の頬を撫でた。
「うぅん……なんだい?今日は随分とスキンシップが激しいね」
言われて、少し考える。――ああ、なるほど。
「……この数ヶ月、君と話す機会がなくて寂しかった。……こう言えば君は私のことを無碍には扱わないだろう?」
「キミ、随分と図々しくなったね……」
「君が私を図々しくしたからな」
フリーナが溜息を吐く。次いで、仕方のない奴だなぁ…と言うとヌヴィレットの頭を撫でた。
「ほら、ヌヴィレット。僕は『世界で一番可愛い奥さん』なんだろう?そんな奥さんに愛を誓ってはくれないのかい?」
からかうように言われて、ヌヴィレットは目をぱちぱちと瞬かせた後、合点がいった様に微笑んだ。
「ああ……世界一可愛い私の奥さんに、永遠の愛を誓う口付けを――」