2. 結果として祖母の思惑に乗ってしまったカリードだが最後の一線は越えなかった。どこかに冷静な部分はまだ残っていて、だからローレンツの不運をそこで終わりにしてやれたのかもしれない。あれならまだ戯れで済ませられる。
ローレンツは今、カリードの目の前で身支度を整えている。先程己が汚した彼の白い身体は見れば見るほどサーキの理想からは程遠い。そしてこちらで苦海に身を落とす前はどんな格好をしていたのか分からないが少なくとも奴隷商人が彼に与えた服は何だか似合っていなかった。
「何か持たされたか?」
「今身につけている物以外は何も」
フォドラ語で話しかけてやるとローレンツもフォドラ語で答えた。奴隷は給金を支払われるが主人の許可なしに物品を所有することが許されていない。身体一つ以外は全てが仮初めに過ぎないので給金を払っていたとしても食事も服も小物も主人が用意してやる必要がある。そして奴隷商人の中には買い上げた側の手間を省くため販売価格に着替えや小物の代金を上乗せして予め用意する者もいるがローレンツを扱っていた商人はそうではなかったようだ。
後宮には外に行くことを禁じられた者たちのためにほぼ毎日商人がやってくる。たとえその日にやってきた商人が欲しいものを持っていなくとも伝えておけば数日後には連れ立ってやってくるので男性用の服や小物に強い商人を連れてきてほしいと依頼せねばならない。人が一人増えただけでするべきことが湧いて出てくる。
身請けされたサーキはとにかく豪華な上着や宝石で飾り立てられるものだがカリードには仕送りをしてくれる母方の親戚がいない。それでも今は個人的な召使を抱えていないので王子に支給される金子を多少は貯め込むこともできた。サーキを与えられたのはカリードに貯金を取り崩させる目的もあったのだろう。
対照的なのが昨年祖母から某太守の娘を充てがわれ後宮から出て行ったシャハドだ。彼の生母はパルミラの南にある属国の姫でパルミラ中に流通する砂糖はその属国の砂糖黍から出来ている。そんなわけで彼は非常に羽振りが良かった。王都近郊に構えた館も大きいらしいがカリードは招かれる理由がないので行ったことがない。
ローレンツはしゃがみ込んでサンダルの革帯を留めている。下を向いているので真っ直ぐな紫の髪が下りていて表情はよく見えない。
「そのうち一緒に商人のところへ行こう。俺にはなんだっけ……母親の家族」
「外戚のことだろうか」
「外戚か。外戚がいないから何でも買い放題とはいかんが二年ぶりの買い物を楽しめよ」
カリードがそういうとローレンツは顔を上げた。
「パルミラ人に慈悲の心があるとは知らなかった」
白い顔に浮かんでいるのは戸惑いで売り飛ばされて早々に身体を弄ばれた彼からすれば意外だったのだろう。
「俺を他の連中と一緒くたにしないでくれ。ついでに言っておくと俺と二人きりの時は今みたいなフォドラ語で話せ。尊敬語や丁寧語はよく分からない」
同じくカリードも己の口をついて出た言葉に戸惑いが隠せない。幼い頃から今に至るまで心のどこかには皆と同じでありたい、同化したいと言う思いがあったのに今、自分は彼らと自分を同類扱いするなとローレンツに言ったのだ。同類扱いされたことなどないのに。
「確かに失言だったかもしれないな」
紫色の瞳が素早く部屋を見回し視線はカリードの顔に戻ってくる。その瞳に久しぶりにフォドラ語で会話できた喜びはもう浮かんでいない。
「どうするのだ。平手打ちでもくれてやるのかい?」
瞳からは光が消え失せ二年間ローレンツがどんな暮らしをしていたのかよくわかった。カリードの頭に一瞬血が昇ったがそれはローレンツのせいではない。歪みを抱える自国の社会制度のせいだ。確かに他の王子や王女それに父の愛姫たちの部屋には鞭や棒それに短弓が置いてある。罰を与えると言って奴隷や召使たちを脅すためだ。この広大な後宮の中でその手のものがない部屋は二部屋しかない。カリードの母ティアナの部屋とここだ。
奴隷は主体性をとりあげられる。だが主体性のない人生を歩むのはカリードも同じだ。飼い殺されて腐っていくことに変わりはない。先程ローレンツは自分の評価は自分で決めるべきと言った。
「絶対にそんなことはしない」
紫の瞳に光が戻り瞬きに合わせて涙が一粒白い頰の上を滑っていく。
「見苦しいところを見せて申し訳ない」
「安心しただけだろう」
そういうとカリードは褐色の指でそっと涙を拭ってやった。再びローレンツの顔に戸惑いが浮かぶ。確かにこう言う時はそっと使っていない手巾を差し出した方がさまになる。
「手巾はあれに使っちまってな」
カリードは先程ローレンツに運ばせた小さな籠を指差した。籠に何も敷かずに灰を詰めると隙間からこぼれ落ちてしまう。
「一体何が入っているのだ?それと君、手巾くらい余計に用意しておきたまえよ。いつ必要になるか分からないのだから」
確かに自分にサーキが与えられその涙を拭うことになるとは考えもしなかった。昨晩見た夢より現実の方が遥かに起伏に富んでいる。
「部屋のどこかにはあるんだよ。後で探すのを手伝ってくれ。それよりもまずは母さんのところだな……」
本来ならばローレンツを伴ってすぐに母の元へ挨拶に行くべきだったがカリードが余計なことを治たせいで出遅れていた。
服の乱れを整えたローレンツは小さな籠の中身を知らない。サーキとは名ばかりで実際は侍者兼護衛兼相談役を務めることになる筈だ、とナルデールから言われているからには主人に荷物を持たせるわけにいかないのだがカリードが籠を手放さない。
二人連れ立ってカリードの母の部屋へ向かっている道すがらローレンツたちは大ぶりな紅玉を大胆にあしらった宝剣を腰から下げている王子に声をかけられた。背後に控える召使たちも宝剣と同じく母親の実家から贈られたものなのだろう。
「よお、カリード!その真っ白なのっぽがおばあさまから下賜されたサーキか?」
奴隷商人は女官長と顔見知りなのか彼女が若い娘ではなくローレンツを買うと知って焦っていた。相応しい場所に相応しい者を充てがわねば揉め事が起きるのだという。危惧していた通りのことが起きている。
「そうだ。急いでいるからその話は後にしてくれ」
カリードは面倒臭そうに返事をしたが当然、相手は食い下がってくる。継承者争いの候補のうち一人が脱落したも同然なので追い風に乗って更に痛めつけに来たのだ。
「ああ、早く挨拶させないとな。ところで味はどうだった?」
濃い茶色の瞳が無遠慮にローレンツの身体を舐め回していく。大柄で年上のローレンツはサーキの理想からは程遠い。そんな外れを掴まされたことを確認する視線には優位に立てた加虐的な喜びで満ちている。褐色の手が伸ばされ軽く抱きしめられた。気安い仲であれば挨拶に過ぎないが悪意があるとなれば目を閉じ息を止めて堪えるしかない。
「筋張っていて不味そうだが」
フォドラとパルミラは全く文化が違う。サーキは飾り立てられ詩で魅力を讃えられる存在だがその裏には放置され行き場のない怒りを抱えた正妻の姿と家の存続のためだけに生きよと命じられた男性たちの反抗心が潜んでいる。男性たちの無意識に潜む家制度への反抗心を損なわせるべくサーキという存在が生まれたのかもしれない。サーキが相手ならば子供は生まれず正妻は体面上、優位を保つことができる。制度を運用するのは人なので勿論例外はあり生涯仲睦まじく添い遂げる者たちもいる。だが主神ソティスの名においてセイロス教会が両者の愛を祝福するフォドラにおける同性婚とは大きく違うと言えるだろう。
「ああ、そうかい。報告書の代わりにこれをくれてやるよ!」
下品な言葉が鼓膜を叩くとカリードは躊躇なく籠の中身を一掴み異母兄だか異母弟の顔に叩きつけた。あれは目の中に入ったらひとたまりもない。一体、何を何のために持ち歩いているのか不思議だったがこれでローレンツも中身をようやく知ることができた。顔に灰を叩きつけられた王子は呻きながらしゃがみ込み目の痛みを堪えている。後ろに控えていた召使のうち一人は跪いて手巾で主人の目元を拭きもう一人は慌ててどこかに目を洗う水を取りに行った。召使ですら手巾を持ち歩いているというのに手元に手巾がないとは何たることか。
「カリード殿下、もうおやめ下さい!仮にも貴方の兄君ではありませんか!」
「確かに二ヶ月だけ早く生まれたな」
見下ろす緑の瞳が冷たく光っている。混血で後ろ盾のない王子は図太くなって生きていくしかない。
「行くぞ」
騒ぎを聞きつけた者たちの作る輪を壊しながらカリードとローレンツは再び長い廊下を歩き始めた。どんな立場なのか忘れさせまいと視線が刺さってくる。いくつか角を曲がり階段を上っていった先にローレンツが挨拶すべき人の部屋はあった。
先程ローレンツは二人きりの時はフォドラ語で構わないと言われたがカリードにフォドラ語を教えた彼の母に何語で話しかければ良いのか分からない。監視役の召使がいるかもしれないからだ。
ローレンツの疑問に気づいたカリードが唇の前で指を立てる。やはり監視役の召使がいるのだろう。ローレンツが無言で頷くとカリードは備え付けられた金具を手に取って扉を叩いた。内側から扉が開く。室内は昼間だというのに窓掛が下されている。
「具合は?」
中から出てきた召使が無言で小さく首を横に振る。体調不良であるならば日を改めるべきと思ったがどうやらそうはいかないらしい。カリードは自分の眉間を指で揉むと大きなため息をついた。床に膝をつき頭から顔にかけて包帯を巻き寝台に横たわる母親の手を握る。
「母さん、目を開けられるか?」
「クロード……」
「母さん、カリードだよ。ああ、舌でも痺れてるのかな……無理はしなくていい。辛いなら寝てていいんだ」
監視の目を気にしているのか語りかけの言葉はやはりパルミラ語だったしフォドラ語の名前で呼ばれた瞬間に否定していた。だがどうやら彼はクロードというらしい。薄暗い部屋には大量の花が飾られている。目を開けられずとも花の香りは楽しめるからだ。
「……母さん。今朝、そろそろ成人だからとばあさんからサーキを渡されたよ。名前はローレンツって言うんだ。顔を見たらびっくりするぜ。ほら、ローレンツ、お前も声をかけてくれ」
息子の声に反応してクロード、と呼んでいたのだし声をかけるなら母語であるフォドラ語の方が効果があるのではないだろうか。ローレンツはそう考えたがクロードに従ってパルミラ語で声をかけた。
事故なのか病気なのか。しばらくの間、褐色の手は白い母の手を握っていたがきりがないと思ったのかそっと手放した。もし二年前にローレンツがパルミラとの国交交渉に成功していれば大使館を経由してセイロス教会から手練れの修道士をクロードの母の元へ派遣できたかもしれない。
カリードが何の説明もせずに母の部屋へ連れてきてしまったせいかローレンツは言葉を失っている。
そのまま部屋に戻る気にもなれず外の空気を吸いに行こう、と言って庭の四阿屋に彼を連れていった。長椅子二脚に挟まれて四角い机が置いてある。いつ誰が使うかなど定かではないのにどちらも召使によって綺麗に磨かれていた。四阿屋を三方から囲う生垣には庭師たちの努力の成果が咲き誇り辺りは芳しい香りに満ちている。パルミラは花の品種改良が盛んで大ぶりで芳しく鮮やかな花が多い。
「実に見事だな」
どうやらローレンツは花を愛でることが好きらしい。そんなことも知らないうちに彼の身体を弄んでしまった。赤い薔薇をじっくりと眺めた後で顔を寄せて目を閉じ香りを楽しんでいる。白い肌に赤い花びらの色が映えて美しい。
「少し話を聞いてくれないか?」
背もたれに小さな陶器製の薄板を貼って飾り立てた長椅子を指差した。夏になれば熱くてこの椅子の背もたれは使えなくなるだろう。ローレンツはそっとカリードの隣に座ってくれた。立っている時は握り拳ふたつ分はあった身長の差が座ると握り拳ひとつに減る。それだけ彼の手足は長いのだ。
「元は強くて豪快でな。少し前に狩猟中の事故にあってからはあんな状態だ。だがあれでも随分と良くなっている。時間はかかるだろうがきっと元気になるはずだ」
流石に思うところがあったのかローレンツがそっと手を添えてくる。乾いていて温かい手だった。カリードは自分の手が思っていたよりはるかに冷えていたことに初めて気づいた。
「治癒魔法は試したのか?僕もライブなら使えるのだが」
「解呪が終わってからでないと意味がない。今、俺付きの召使がいないのもそう言うわけだ」
ローレンツの顔が悔しそうに歪む。王主催の大規模な狩猟で獲物は皆食べてしまうことになっていた。だから肉を汚染から守るため毒矢は使用されていない。父は狩猟をする際には必ずカリードの母ティアナを伴っていた。だから飛竜に騎乗していた母を射た矢は王である父を狙ったのかもしれない。
「とりあえず顔見せが終わってよかったよ」
母が意識不明であるので当事者間では成立していないが他人へ見せるために顔見せをしたのだ。監視役の召使は静かに全ての動向を把握している。カリード王子は母后に与えられたサーキを伴って生母の元に挨拶に訪れた、と見做されることが大事だ。
「クロード」
「なんだ?」
母と同じ抑揚で呼ばれたのでつい、返事をしてしまった。カリードは族譜に記されることのない名も与えられている。母と二人きりの時しか呼ばれない名だ。父にはそう呼ばれたことがない。母は父にすら教えていない可能性もある。
「君はクロードというのか」
「そうだ。俺はフォドラ語の名前も持ってる」
事故にあって以来、初めて母の口から意味のある単語が出た。生死の境を彷徨っている時には後から覚えた外国語など出てこないのだろう。咄嗟に誤魔化したが監視役がどう判断するか不安だった。
「クロード、同胞に会わせてくれて感謝する」
ローレンツが何故急にそんなことを言い出したのかクロードにはよくわからなかった。この時、彼が何を考えていたのかは後に明かされることになる。
「同胞、そうか。確かにお前から見れば母さんは同胞に当たるな……」
全くフォドラに帰りたがらないので忘れがちだがクロードの母ティアナはローレンツと同じくフォドラ生まれのフォドラ育ちだ。
「僕にできることがあるなら何でも協力する」
フォドラ育ちの者は皆こんな風に懐が深いのだろうか。母も自分たちにきつく当たる裕福な他の妃たちのことを怖がりだと評していたしローレンツも苦海に身を落としていながら思いやりの心を見せる。
「そうだな、取り敢えず厨房に行って食い物を取ってきてくれるか?」
「ここに?それとも部屋に?」
空の様子を見るに今日は雨が降りそうにないしここで遅めの昼食を取るのは良い考えかもしれない。
「厨房の場所は分かるか?」
「ああ、大丈夫だ。ここには数日前に連れてこられたからな」
後宮は王と王の父母、王の子を産むために集められた女たち、まだ成人していない王子それに結婚していない王女と彼らの生活を支える使用人たちが暮らす巨大な居住空間だ。皆が食べる野菜の畑まで備えている。そこで働く使用人たちは細かく身分が分けられており下働きの者たちは入れない区画や通れない通路も多い。仕事中に尊き王の血を引く者たちが通りかかると彼らは床に平伏する。だがローレンツはサーキだ。賤むべき奴隷でありながら同時に王族の肌に触れることを許されている。遠回りをせずにこの四阿屋まで戻ってくることができるはずだ。
巨大な厨房は早朝に火が入り深夜に火が落とされる。時間帯によってあたりを漂う匂いが変化していく。朝一番に近寄れば一日分の麺麭を焼く匂いがするだろう。ローレンツがクロードと自分の食事を取りに行った時はすでに夕食の仕込みが始まっていた。出汁を取っているのか牛骨と根菜が鍋でぐつぐつと煮えている。数千人分の食事を全て賄っている厨房に暇な時間帯など存在しないから仕方ないのだが何度も呼びかけを無視され二人分の麺麭と乾酪それに汁物が入った小さな鍋を手に入れるまで随分と時間がかかってしまった。ローレンツが大きな銀色の盆に全てを載せて四阿屋に向かって歩いていると先程の揉めごとがもう伝わっているのか遠巻きに様子を伺ってくる。
盆の上に載せてあるのは厨房の者がいつまで経っても無視し続けるので用意されていたものの中から勝手に掠め取ってきたものだ。本国にいた頃と比べればその凋落ぶりに眩暈を起こしそうになる。だが今はなりふりなど構っていられない。クロードの母が健康を取り戻すまでクロードも自分もよく食べて眠り健康でいる必要がある。今更取り返しにこられても困るのでローレンツは足の長さを存分に活かし冷たい視線を背中に受けつつ足早にクロードの元へと向かった。
四阿屋で思案に耽るクロードの横顔はやはりどこか固い。意識の残らない母、険悪な兄弟関係から発生する悩みごとが尽きないのだろう。
「申し訳ない。厨房の者がなかなか用意してくれなかったので時間がかかってしまった」
銀色の盆を机の上に置きローレンツが声をかけると顔から固さが抜けた。気のおけない者が来て安心したからではない。不機嫌そうな顔を見られまいと演技を再開したからだ。
「俺の名前を出したからだろうな。結局どうしたんだ?」
口の端を上げ面白そうに装っているがクロードはローレンツの手腕を問うている。ローレンツは白い指を耳にあてた。
「厨房の中の話し声をよく聞いただけだ。少し時間帯がずれているだろう?これは夕食用に用意されていたものなんだ」
継承位が高い王子や裕福な外戚のいる王女は毎日ちょっとした晩餐会を開いているらしく昼食を作り終えた料理人たちはすぐに豪華で手間のかかる夕食の支度へ取り掛かっていた。常温でも平気な乾酪や麺麭それに食べる時に目の前で温める汁物ならば少し前から用意しておけばいい。数時間後に皿の数が足りないとどやされる者が出る可能性は高いがローレンツの言葉を無視したつけはそう言う形で支払って貰う。
「試すようなことをして申し訳なかった」
「柄が悪いと僕のことを叱るか?」
惨めな立場に落ちたものだがそれでも人間は生きていかねばならない。強かろうと弱かろうと貴族であろうと奴隷であろうと生きるべきなのだ。
死は毎日、お前を救ってやる、名誉を保てと甘い声でローレンツを誘う。だがローレンツと引き換えに解放された隊商の娘が泣きながらあんたたちが若様をどんな目に合わせようと絶対に若様を辱めることなんか出来ない、と盗賊に向かって叫んだ。心の中に溜まった憤り全てを搾り出したようなあの声が、セイロス教の聖句が死の甘い声を打ち消す。
-あなたが自分のことをどう思おうとあなたは我が目に尊く重んじられる者である-
ローレンツはそれまで修身の一環としてセイロス教を利用しているに過ぎなかった。恵まれた者ならばともかくそうではない者を相手に高い理想を掲げても結局は達成出来ないのだから無意味ではないか、とすら思っていた。だが過酷な自然環境の下で育ち教育など受けたこともない幼い娘の口から似たような言葉が出てくるのならばそれは真実ではないかと信じられるようになっていた。
「そんなことする訳ないだろう?」
クロードは腕を伸ばしローレンツの肩を掴んだ。見開かれた緑の瞳に何故か焦りが見える。王の血を引きパルミラ社会の上層に属していながら彼は違和感を覚えているらしい。ローレンツがパルミラ社会の常識に迎合したような態度をとるたび必死で否定してくる。彼はその必死さに気がついているのだろうか。
「皿は吟味できたが乗せられたものを味見して選んだわけでない。口に合うと良いのだが」
「味は置いといて良い皿を取ってきたもんだ。分かるか?これはあいつの皿だよ」
それまでローレンツに見せていた焦りを上書きするかのようにクロードは人の悪い笑みを浮かべた。
「ああ、二ヶ月歳上の!少し気の毒な気がしてきたな。しかし何故そんなことがわかるのだ?」
「いい窯が沢山ある地方の太守の孫なんだよ。絵付けしてある柄を見ればすぐにわかる」
殴り合いは想定していても灰で目潰しをされるとは考えていなかった筈だ。目の痛みは取れたのだろうか。一瞬だけそんなことを考えたが数年ぶりにきちんと布で裏漉ししてある豆のスープを飲んだ瞬間、ローレンツの脳裏からそんな考えは消え失せてしまった。