狐の牽制 稲荷崎高校はどんな学校かと問われれば、スポーツが盛んな学校だと誰もが口を揃えて言うだろう。
その中でもバレー部はインターハイや春高の常連で、吹奏楽部と並んで学校の顔と評されている。おまけに一昨年入学してきた双子——宮ツインズがいることでも有名だ。バレー部専用の体育館からは女子の黄色い声が聞こえてくることも多かった。
スポーツの名門と謳われる学校に通っていながら何処にも属さず、家に帰ればすぐにゲームの電源を入れるような自分とは、住む世界が違う。
そんな中でも、北だけは唯一気軽に話が出来る相手だった。それも教室の中だけでの話で、深く関わることなんか滅多にない。
そう思っていた、のに。どうして自分は今、彼と帰路を共にしているのか。しかも、声を掛けてきたのは向こうからだ。同じ委員会であることは知っていたが、帰りがけに声を掛けられたのは初めてだった。
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蛇に睨まれた蛙というのは、今の自分のような状態を指すのだろうか。自分よりも頭一つ半は背の高い男に見下ろされながら、冷や汗が伝う。
隣を歩いていた彼の名前が後ろから叫ばれ、なにかと思ったらその声の主が猛スピードで此方に向かってきたのだ。
そして、今に至る。
「えーっと……双子の……片方、やんな……? あれ、ちゃうかったっけ……?」
「や、合うてるで。治、同じクラスの茂木くんや。挨拶せえ」
「……」
「あ、……茂木、です」
「はあ、どうも」
息を切らしながらものすごい勢いで走ってきた、宮ツインズの片割れ——治、と呼ばれた彼は此方をちらりと一瞥し、興味なさげに視線を戻した。
十分ほど経っただろうか。定期考査やら進路やらの他愛もない話をしているうちに家の近くの交差点まで来たので、ほなここで、と声を掛ける。
「茂木くん家そっちなんか、気ぃ付けてな」
「おん、北くんもな。また明日」
「今日はえらい邪魔してもて、すんません」
ほな、俺らあっちなんで、と吐き捨てるように言い放ち、見下ろしてくる男に呆然とした。
俺ら、と邪魔、がやけに強調されている。刺々しい言い方やなぁ、と茂木は思う。まるで此方が邪魔者であったと言わんばかりの物言いだ。
含みのある言い方に気付いた北が、治が肩に掛けているエナメルバッグのストラップ部分を力強く下に引いた。引いたまま北がぎろりと睨み付けると、僅かに丸まった背がびくりと伸びて、不貞腐れたように下を向く。
北が今しがた引いたものはバッグのショルダー部分だったはずなのに、なんだか猛獣を操る手綱のように見えて、茂木は笑ってしまいそうになるのを必死に堪えた。
「すまんな、ろくに挨拶も出来へん後輩で」
「や……ええよ、気にせんで」
北から後輩と呼ばれた男は黙ったまま、不満そうに眉を寄せていた。北が発した後輩、の言葉がはっきりと強調された気がするのは気のせいだろうか。
「ちゃんと躾けとくわ。おい治、行くで」
「……っす」
北に引き摺られるようにして小さくなっていく治が茂木を振り返り、小さく頭を下げた。
茂木はどんどんと遠ざかっていく二人を見ながら、不思議に思った。一つ年下の彼が自分に対して、なぜあんなにも敵意剥き出しだったのか、分からない。
二人が此方を振り返ることはない。もう自分のことなど頭にないのだろう。
それにしても、なんであんなに突っかかってきたんかなぁ。そう思いながら眺めていると、怠そうに歩いていた後輩が北の腰にがっちりと腕を巻き付けた。すかさず北が何かを言ったらしく、しょんぼりとした様子で身体を離す瞬間までばっちりと見てしまった。項垂れて縮こまった背中を見て、なんとなく合点がいった。
「……北くん、とんでもないもんに懐かれとんなぁ」
ぼんやりとした茂木の声は、夕方の空に溶けて消えていった。
□
「——後輩やのうて彼氏やろ」
北のクラスメイトである茂木と別れて少ししてから、治がもう限界だと言わんばかりに口を開いた。不機嫌丸出しの顔で睨みつけてくる。
「ろくに挨拶も出来ん奴は後輩で十分や」
治の拗ねたような、怒ったような物言いに北が顔色を変えることなく言い返すと、その隣で治が小さく呻き、ぼそぼそと言葉を紡いだ。
「やて、今日は部活もあらへんし、ゆっくり北さんと帰れると思て走ってきたら知らん奴とおったから……俺と北さんの時間邪魔すんなやって、思うて……」
「それはお前の都合やろ。悪態ついてええ理由にはならん。言い訳すんな」
「……すんません……あの、怒ってはります……よね……?」
北からの返事はない。北は礼儀を大事にする人だ。ただのクラスメイト、加えてあまり話さないような相手であっても礼儀を欠くことはしないのだろう。分かっているのに、やってしまった。
「お前、ええ加減大人んなれよ」
ようやく北の声がして、それが指摘であってもほっとした。この感じなら多分、いつも通りで大丈夫だろう。北と付き合って三か月。そのくらいの判別は出来るようになった。
「北さんのことで? 無理や、譲れへんもん」
「ちゃうわ、色々。四月なったら俺おらんのやぞ」
「……留年しましょ、俺と一緒に卒業してください」
「あほか」
ふは、と空気が抜ける音がして、耳心地の良い声がした。北の居ない来年なんて考えたくもない。この人は、どう思っているのだろう。考えると切なくなった。
少しでも長く捕まえておきたくて、北の手を掴む。力を込めて握ると、意外にも握り返してきた。
「手、怒らんの」
「跳ね除けた方よかったか」
慌てて首を横に振ると、北がまた笑った。必死か、なんて言いながら心底楽しそうに笑っている。仕返しに指を絡めてやったら、なんとこれもすんなりと受け入れてくれた。
「なんか……今日の北さん、よう分からん」
「いつもは分かっとるつもりなんか。せやったらこんな手ぇ掛かってへんはずなんやけど。おかしいなぁ」
「うぐ……」
「はは、冗談やって。んな顔すなや」
言って、北は一つ先の交差点を曲がった。もう一つ後の交差点を過ぎたところにいつもの分かれ道があるから、このルートでは遠回りになる。それは北も分かっているはずだ。
だとしたら、もしかしなくても——そういうこと、だろう。
あーあ。北さん、やっぱり留年してくれへんかな。あと半年もしないうちに居なくなるなんて、想像がつかない。想像なんか、したくもない。
ゆったりと続くこの景色をいつまでも堪能していたくて、治は歩くスピードを少しずつ緩めた。