江澄は蓮花塢に戻るなり、ぽいぽいと衣を脱ぎ捨て、蓮花湖に入った。
「宗主⁉︎」
驚く師弟たちには、「雲深不知処で肩が凝った」と言えば何故だか納得してもらえた。
秋の深まりつつある蓮花湖の水はそれなりに冷たい。
江澄はあてもなく湖中を泳ぐ。蓮花塢に着くまで、ずっと体の奥が熱かった。自分が信じられないが、藍曦臣に触れられた熱が溜まったまま逃げていかないのだ。
江澄は湖面に浮いて、空を見上げた。
涼しい風の通る、薄青の澄んだ空だ。
白雲が薄く、たなびいている。
「はあ」
安堵のため息がこぼれた。なんとか体は冷えてくれたが、胸中のうっとおしさはそのままだ。
視線を落とせば袷の合間に傷痕が見える。指先でなぞればでこぼことおもしろくない感触がある。
藍曦臣の、あのきれいな指先がここに触れるのか。
江澄は頭を振って、岸辺へと泳ぎはじめた。
馬鹿な考えだとは分かっている。触れられたところで、藍曦臣に汚れが移るわけではない。厭われるわけでもない。それなのに、体の中心に汚らしいものがあるというだけで、体のあたいが地に落ちる。
「宗主、せめてご準備なさってからにしてくださいよ」
気の利く家僕が拭うものと新しい衣を持って待っていた。
「助かる」
小言を聞き流し、体を拭う。こうして他人の目にさらすことに抵抗はないというのに。
そうしているところに師弟の一人が駆け寄ってきた。
「ところで、お帰り早々申し訳もないことですが、町より陳情が上がっております」
濡れた衣服を家僕に渡して、「なんだ」と問えば、「邪祟かと」と簡潔な返事がある。
「どこの町だ」
「湖西です」
江澄の眉間にしわが寄る。ここのところ、蓮花塢周辺では妖も怪も発生していなかった。江家の尽力により平穏が保たれていたというのにどうしたことか。
「誰を遣りましょう」
「俺が行く」
江澄は即答し、すぐさま家僕に用意を言いつけた。
「適当に三名ほど見つくろえ、今から出るぞ」
「宗主がお出ましになるほどのことでは」
「近いからこそ、俺が行かねばなるまい」
江家の再興は成った、と人は言うが、信頼を失えばすぐに落ちぶれる。一度、壊滅したという事実は、長い時を経ないと癒えない傷である。
江澄は渋い顔の家僕と師弟に見送られ、午後には蓮花塢を出た。
移動の間に師弟から概要は聞き出したが、なんでも遊技を揚げる妓楼での怪事だという。
客の男が最中に首を絞められた、というものからはじまって、突き飛ばされて壁に頭を打ち据えた、背中をかきむしられて血が流れた等、すべて被害は客に出ている。
件の町には夕刻には到着した。江澄はすぐに町の顔役と対面した。
「御宗主自らおいでくださるとは」
「いやはや、ありがたい限りでございます」
顔役に続いて頭を下げたのは妓楼の主人である。五十を超えた老婆ながら、やせぎすの体をしゃっきり伸ばし、よくよく気丈なことがうかがえる。
「概要は聞いた。客を邪祟がたたるというが、死人は出てないんだな?」
「幸いと申し上げてよいのか、そうなんでございますよ。でもねえ、昨晩とうとう首を絞められた客が出まして」
「待て、首を絞められた男が初めではないのか」
「違うございます。初めは肩をつかまれただの、背中を叩かれただの、しようもない訴えばかりで、女たちもあたしも相手にしておりませんでしてね。いつが初めかははっきりしないんでございます」
江澄は主人の話を聞きながら、邪祟が育っていると確信した。このままでは今夜にも死人が出る。
「主人、邪祟は次第に力をつけていくものだ。首を絞めるまでに至っているなら、もうじき殺せるほどの力になろう」
主人と顔役は顔を見合わせて、がっくりと肩を落とした。
「客を死なせちゃ、妓楼を続けるわけにもいきません。どうしたらよろしいので」
「それを今から考えるんだ。主人、被害にあった客について、仔細を聞かせろ」
江澄の質問に、主人はひとつずつ丁寧に答えた。
まず、ひと月の間に異変がなかったか尋ねると、遊妓が一人死んだという。肺を患った女で、患う以前には馴染みの客が三人ほどおり、そのうちの一人とは身請けの約束までしていたそうだ。
ところがこの男、件の遊妓が患ったと聞くや否や、別の妓楼に馴染みを作って縁遠くなった。女は今際になっても恨みを吐いた。
邪祟の元は十中八九、この女である。江澄は見当をつけて、次にどんな客が狙われているかを絞った。
「一晩に二人か三人でございます。まったくのご新規にはおりませんが……、二度目、三度目のお客が多いように存じますねえ。お馴染みの方でも、何人かは怪異にあわれてございます」
相手の女が特別ではないか聞くが、これについてはむしろ居合わせたことのない遊妓のほうが少ない。
「ふむ」
考えこむ江澄に、師弟の一人が手を上げた。
「あの、宗主。それ、もしかして、狙われてるのって浮気の男じゃないでしょうか」
師弟いわく、二、三度目の客にはまだ馴染みがいないから、前回と異なる遊妓と遊ぶ。珍しいことではあるが、馴染みとなった後でも双方の合意があれば、別の遊妓と遊ぶこともなくはない。
「お前、詳しいな」
「面目ないことです。実はこちらに馴染みがおりまして」
独り身の仙師である。特にとがめることはない。
江澄は主人と話して、己がおとりになると決めた。当然師弟たちは反対したが、二人は道侶がいる。馴染みのいる一人については博識であるものの、仙術については少々心許ないところがあった。
「俺しかいないだろう」
「よろしくお頼み申します」
主人は再び頭を下げた。かくして、この晩、妓楼での夜狩となったのである。