【曦澄】地獄の沙汰も犬次第中から漏れ聞こえてくる声に、言葉に、藍曦臣は思わず動きを止めた。指先が硬直する。微かに震えてもいるだろうか。
「ははっ、可愛いな、おまえは」
可愛い? 可愛いと言いましたか、今。
室内から聞こえてくるのは、紛うことなき江宗主の声。藍曦臣が聞き間違えることなど、決して有り得ない声だ。
「なんだ? おねだりか?」
「どうした? 何をして欲しいんだ? おまえは」
ああ、なんて甘やかな声を出すのだろう。
こんな声を藍曦臣は知らない。
「こんなに尻を揺らして。おまえは待ても出来ないんのか? ん?」
お尻?! お尻と言いましたか、今?!
藍曦臣は思わず目を剥いた。
人前で臀部を揺らす?! いったい中で一体何をしているのです、恥知らずな!
ぶるぶると藍曦臣の手の震えが酷くなっていく。
まさか、これはもしや、密会の現場だろうか。
「どうした? これが欲しいんだろう? ならば、俺の言うことが聞けるよな? ん?」
な、なんて卑猥な……。
藍曦臣は息を飲んだ。
こんな、こんな不埒な真似を、まさか彼がしているだなんて。
江宗主が閉関修行に入ったと耳にした。
そう、閉関修行だ。なのに、扉の向こうから聞こえてくるのは、修行とは程遠い、甘く艶やかな声である。
あの日、弟が他家に対して礼を失した振る舞いをしたと知り、藍氏として在るまじきことであると、宗主として直ちに詫びねばとこうして藍曦臣は取るものも取りあえず尋ねてきた。
だが、中から漏れ聞こえてくるのは、愉しげな声。
これは、いったいどういうことなのか。
まさか、人を遠ざけ、ひとりになったのをいいことに、口にするのも憚られるような愉しみに興じているというのか。
彼が、まさか。
許せない。
瞬間的にカッとなり、藍曦臣は訪いを告げるのも忘れ、やおら扉に手をかけると、力任せに引き開いた。
「中でいったい何をしているのです!!」
キャウン!
アン! ワンワンッ!
突然の闖入者に、江宗主、江晩吟は目を見開き。
彼の膝に群がっていた毛玉たちも一生に驚きの鳴き声をあげた。
「い、犬……?」
✱✱✱
「藍宗主。断りもなく入ってくるとは、貴方まで礼儀を忘れたか」
それとも、藍氏には俺になぞ払う礼儀はないとでも。
冷たい眼差しと棘を帯びた言葉。藍曦臣は己の誤解と失態を丁重に詫びた。
「お恥ずかしい……私の短慮でした。失礼をお詫びいたします……」
深々と頭を下げる藍曦臣の前で、江晩吟は不機嫌そうに渋面を浮かべた。迷惑そうな顔を隠しもせず。
だが、そんな彼の周りをころころの子犬たちが楽しそうに転げ回ってはじゃれていくのであった。
「あ、あの……この子たちは……?」
「知らん。捨てられたか、親を亡くしたか、どちらかだろう。腹を空かせて迷い込んできたから食わせてやったら居着かれた」
フンッとぶっきらぼうに言い放つ。
ぞんざいな物言いだったが、けれど、子犬たちはすっかり彼に懐いているようだった。
ふりふりと小さなしっぽを振りながら、江晩吟の手を舐めたり、衣を引っ張ったりしてじゃれている。
江晩吟は叱ることなく、犬たちの好きなようにさせていた。
「お元気そうで、安心いたしました」
「さぞや腑抜けた修行だと思われたことだろうな」
「いえ、そんなことは……」
この子らにかける貴方の声の甘さに驚かされはしましたがとは、藍曦臣は言わなかった。
江晩吟の、藍曦臣に向ける態度は硬かったが、子犬たちに向ける眼差しは優しい。穏やかささえある。
あの日、少なからず辛い思いをしただろう彼が己の心を慰めるのを、どうして自分が咎められようか。
「可愛い子たちですね」
「ああ」
それにとても良く懐いている。こんなに懐かれてはさぞや可愛かろう。先ほどの声もわかるような気がしてきた藍曦臣だった。
「……以前」
「はい?」
「昔の話だがな。私は犬を三匹飼っていた。事情があり手放すことになったが。こいつらを見ているとあの頃を思い出す」
頭数もちょうど同じだしな。
懐かしむような眼差しに、藍曦臣は言葉を飲み込んだ。
彼もまた、かつてを懐かしみ、恋しく思っているのだろうか。心を過去に置いているのかと、そう憂いたとき。
「それに、藍先生が仰った」
「はい? 叔父上が、なにか?」
「あれは犬が大の苦手でな。やつを近寄らせたくないのであれば、うってつけの魔除けであると」
実際、追い払ってくれた。清々したぞ。いい気味だ。
ニヤリと笑う江晩吟に、藍曦臣は唖然とした。
「……はぁ」
まさか、自分より先に叔父がこの庵を訪れていたとは。そして彼とそのような企てをしていたとは。
「私は随分出遅れてしまっていたようだ」
「貴方が扉を引き壊した時は、何をしに来たのと思ったがな」
咄嗟のことで力加減を誤り外してしまった扉に目をやり、江晩吟が呆れたようなため息をつく。
「私はこの通りだ。煩わしさから離れて気分も悪くない。気遣いは無用だ」
「そう、ですか」
「そう長く離れるつもりもない。冗長なのは性に合わんからな」
「はい」
「戻った暁には、藍氏には非礼の落とし前をつけてもらおう。楽しみに待っているがいい」
「返す言葉もございません。沙汰を慎んでお待ちいたします」
冷ややかな眼差しと言葉とは裏腹に、彼の意図はこちらを気遣ってのものだろう。いや、仙門百家の平穏か。
今、藍氏と江氏の関係がどうなるのか、臆測が憶測を呼んでいる。特に藍氏への風当たりが思っていたより厳しい。
だが、それもそうだろう。祠堂に宗主の許しも得ずに踏み入るなど、断じて許される所業ではない。
常ならば江晩吟を謗ることの多い世家たちまで藍氏に難色を示した。それほどまでに無礼な振る舞いだ。藍氏への信頼が揺らいでいると、叔父上も懸念している。
暫くは針の筵に座ることになるが、それが罰ならば甘んじて受けるしかない。
キュウン。キャウン。
「うん? お前たちどうした?」
それまで庵の隅の方の臭いを嗅いでいた子犬たちが、江晩吟の衣の裾を引っ張りながら、甘えた声で鳴きだした。
まるで、難しい話はもうやめようよ、それより遊ぼうよと誘いかけるように、つぶら瞳で見つめている。
「わかったわかった。全くかなわんな」
江晩吟が棒切れを手に立ち上がる。外で遊ぶようだ。
「その子らが貴方の心を癒しているのですね」
「それだけじゃない。最高の魔除けだ。何せ一番遠ざけて欲しい奴らを追い払ってくれる」
番犬として実に有能だ。江晩吟は満足げだ。
「……私は」
「うん?」
「私は犬を恐れません。またここを訪れても良いでしょうか。貴方を訪ねても?」
「俺は閉関しているんだが」
「足繁くは致しません。その、たまにお顔を窺いに参りたいのです」
「……貴方も物好きだな」
呆れたようなため息で、ふいと顔を逸らされた。
けれど、拒絶の言葉はなかったから。きっと許して下さったのだと藍曦臣は捉えることにした。