江澄はうんざりとして、目の前の二人をながめた。
藍忘機は魏無羨を膝に乗せ、彼の背を支えつつ、匙を片手にしている。机上には果物を盛りつけた器がいくつも並んで、これを用意したのが藍忘機だというだけでもめまいがしそうである。
「んー、冷やした瓜はおいしいな」
「よかった」
「なあ、藍湛。次は西瓜が食べたい」
「うん」
藍忘機が匙で西瓜を運ぶ。魏無羨はそれをぱくりと食べる。
見ているだけで胸やけがしそうだ。
「この暑苦しい中、よくそんなことをやっていられるな」
夏、真っ盛り。しかも、ここ三日ほど日照りが続く中で、信じられない光景である。
「えー? 藍湛とくっついているのは暑くないし?」
「ああ」
藍忘機から、文句があるならさっさと出ていけと言わんばかりの視線を向けられて、江澄は静室に
来たことをものすごく後悔した。
(寒室に戻るか)
今、寒室の主はいない。本当であれば、昼に到着した江澄を出迎えるのは藍曦臣だったはずなのに、昨日、どこぞの世家に呼び出されて出かけていってからまだ戻らないという。
さすがにいつ戻るかわからない人をひとりで待つのは暇すぎて、久しぶりに顔を見ようと静室を訪れたのだが、まさかこんなことになるとは思わなかった。
「うらやましいなら、沢蕪君にやってもらえばいいのに」
「誰がうらやましいか!」
「うらやましくないのか?」
「ない!」
純粋に疑問だとでもいうかのように魏無羨が首をかしげる。それに合わせて藍忘機がそっと顔をそむける。何事かと思えば藍忘機は耳まで赤くなっていて、江澄はいっそうげんなりとした。
「俺が悪かった! 邪魔したな!」
江澄は結局、茶のひとつも飲まずに静室を後にした。
寒室も暑い。
差し込む西日の影となる板の間で寝転がって、江澄は少しだけ袷をくつろげた。
人がいない分だけまだよいほうかもしれないが、だからといってこの暑さがやわらぐわけではない。この中でべったりとひっつき合っていたあの二人はどう考えてもおかしい。
藍曦臣はまだ戻らない。
手を投げ出して、庭を見る。
強い日差しに焼かれ、草木も元気を失っている。
うらやましいわけではない。断固違うと言い切れる。同時に、魏無羨のようにはなれないと思い知る。
あんなふうに正直に心の内をあらわせたなら、もう少し、藍曦臣とも近くなれるだろうか。
にわかに雲深不知処の内がさざめいた。
江澄はがばりと身を起こし、庭に出た。
「江澄!」
遠くから笑顔で手を振っているのは藍曦臣である。帰って来たのだ。
江澄は自分も手を上げようとして、ぴたりと止まった。
藍曦臣の周囲には随伴の者がまだ数人おり、幾人かは江澄のほうを見ている。
江澄は軽く頭を下げて室内に戻った。
こんなとき、魏無羨なら駆け寄って飛びつくくらいのことはするのだろう。そんな恥をさらすことはできないが、やはり手を振るくらいはやってもよかったのかもしれない。
いくばくもしないうちに藍曦臣は寒室へと戻ってきた。
江澄が戸口で出迎えると、彼は目を細めてほほえんだ。
「江澄、遅くなってすみません」
「いや……、大変だったな」
「ええ、まあ、いろいろとありまして」
さすがの藍曦臣も額に汗をかいている。
西日は夕日へと変わり、西の空は次第に赤くなる。
「江澄」
藍曦臣の手が江澄の腕に触れ、軽く引かれる。
一歩、距離が近くなった。
「会いたかったです」
江澄はうつむいたまま顔を上げられない。会いたかったのは同じだ。だが、それを言葉にできない。のどのところでつかえたまま、口まで上がってこないのだ。
「……すみません、暑かったもので、汗をかいていて」
「そうだな。今日もひどく暑かったな」
「水を浴びてきますね。そうしたら、一緒に夕食にしましょう」
藍曦臣の手が離れる。
江澄はその背中を見送りつつ、つかまれた腕に手を添えた。
夕刻といえど、まだこもった暑さは引いて行かない。それなのに、胸に差し込む冷気はいったいどこからきたのだろうか。
夕食の後には冷菓が出た。
藍曦臣のために用意されたのだろう。よく冷えた瓜と西瓜と茘枝まであって、江澄は昼間の光景を思い出した。恥ずかしがりもせず、次をとねだる魏無羨は、正直なところ気持ち悪い。あんなもの見るものではない。もちろん、同じことをやるつもりもない。
「おいしいですね」
「そうだな」
匙で西瓜を食べる。
しかし、と手が止まる。あんなふうに正直なところをためらうことなく口に出せたら。
「江澄、どうしました?」
「あ、いや……」
「お口に合いませんか?」
「そんなことはない。おいしい」
「では、どこか具合でも」
「大丈夫だ。元気だから」
江澄は慌てて瓜に手を伸ばした。これ以上詮索されてはかなわない。
ところが、藍曦臣は江澄の顔を見つめたまま動かない。ぱくぱくと瓜を食べすすめながら、あなたも食べろと言ってようやく彼は匙を手にした。
「やはり、なにかあったでしょう」
「なにもない。本当に」
果物を食べ終えると、藍曦臣は江澄の隣に移動してきて、大真面目な顔で詰め寄った。
なにがそんなに気にかかったのか、江澄はうろたえつつも否定を重ねた。
「……怒っているのですか」
「え?」
「私が、あなたが来るまでに戻れなかったから」
「そんなわけないだろう。宗主というのはそういうものだ」
「では、どうして」
藍曦臣がずいと身を乗り出せば、江澄はずりと後退る。
「今日は私を避けますね」
「そ、そうか?」
「ええ、そうです。理由を知りたい」
ひたと見据える目は、江澄の瞳からあらゆるものを読み取ろうとしている。
江澄の気持ちを探している。
また、ひやりと冷気が差し込んだ。
日は沈んでも、まだよどんだ暑さは消えていないというのに、まるで江澄の胸の奥だけ冬地に入り込んだようだ。
「江澄」
「あ……」
藍曦臣の目に影が差す。
江澄はたまらずに腕を伸ばした。
藍曦臣の首に抱きつき、ぎゅうと力を込める。
「どうしました」
「……抱きしめてくれ」
なにをどうしたのかわからなかったが、言葉が転がり出た。
いつもなら絶対につかえたままなのに。
江澄が自分でも驚いていると、藍曦臣の腕が体を引き寄せて、腕が背中に回った。
熱い体が、ぴたりとくっついている。
「藍渙」
「阿澄」
それでも足りずにめったに口に出さない名で呼ぶと、藍曦臣の腕にさらに力がこもった。
せりあがる言葉は江澄の唇からなおも続けてこぼれ出る。
「あ、会いたかった」
「ええ」
「あなたがいなくて、さみしかっ……!」
最後までは言わせてもらえなかった。
口はふさがれたが、不安はなかった。江澄の心の内はただしく藍曦臣に伝わった。
「んっ……」
藍曦臣は江澄の口の中をあますところなくなめあげて、それからようやく唇を離した。
体が熱い。
目頭も熱い。
江澄は藍曦臣と目を合わせて、同じ熱さを見つけ出した。
この暑さの中で、互いに離れることなど考えていない。
「もう一度」
江澄がつぶやくと、藍曦臣は「もちろん」と言って、再び唇を合わせた。
重なる体温が熱かった。