その年、清談会は金鱗台で開かれた。
各世家の宗主たちが集まり、交流を深める中、江澄はひとり杯をかたむける。視線の先にあるのは沢蕪君の姿である。
藍家宗主は二人の宗主とその娘に囲まれて、にこやかに話を交わしている。その手には杯があるが、彼が金丹で酒精を消していることは知っていた。
いまや四大世家の宗主で妻帯している者はいない。金家宗主は若年に過ぎ、見合いに失敗続きの江家宗主と、そも見合いに応じない聶家宗主となれば、己の娘を売り込む先は自然としぼられる。沢蕪君と称される彼の人には気後れしそうなものではあるが、閉閑を経て、彼はふしぎと気安くなっていた。
江澄は盃を重ねた。
人に囲まれる沢蕪君をながめていても具合が悪くなるだけであるとわかっていたが、ちらちらと様子をうかがうことをやめられない。
酒を一口飲むたびに、やりきれない気持ちが咽喉を通って腹の中に落ちる。
沢蕪君が閉閑に入る間、江澄は何度となく雲深不知処を訪れた。
世間のように彼を放っておくことができなかった。
「なあ、江澄。そんなに沢蕪君が好きなのか」
魏無羨の声が耳朶によみがえる。江澄はうるさいと蠅を払うように手を振ったが、声はこびりついたまま消えていかない。
あの男の、あの一言さえなければ。
これほどに厄介な感情を、身の内に抱えていることなど知らないままであったに違いない。
若い娘の白い手が、沢蕪君の腕にすがる。
彼はまったくほほえみをくずさずに、娘の手をそっと外す。
江澄は見ていられなくなって席を立った。
夜も深まり、宴から去る人の姿もちらほらと見える。この時機であれば見とがめられることはないだろう。
江澄にとっては自家同然の金鱗台である。
西の空に傾いていく月の光をしるべにして、江澄は中庭をそぞろ歩いた。
金凌が幼いころは、この庭でよく遊んだ。そこには斂芳尊もいたし、沢蕪君もいた。
穏やかな時を過ごしたかつての記憶を追うように足を運ぶ。
「お待ちください、江宗主」
「……偉宗主」
背後から声をかけてきたのは最近宗主になったばかりの若い男だった。背が高く、顔も整っていて、仙子には評判の男である。小さな世家の宗主ながら、しょっちゅう夜狩に出て、人民に頼りにされていると聞く。
「なにをなさっておいでですか」
「散歩だ」
「もうお戻りに?」
「そのつもりだが」
問題はないだろうと視線を投げると、彼は「私もご一緒します」と江澄の隣に並んだ。
江澄は隣の男の顔をにらみ上げた。
「なぜだ」
「あなたをおひとりにしたくない」
「意味が分からん。ばかにしているのか」
「そんなつもりは……、ただ、ひどく酔っていらっしゃるようですし」
「雲夢の者はそうそうつぶれん」
しかし、偉宗主も引き下がらず、ぶしつけにも江澄の腕をつかんだ。
「あなたが心配なんです。宴の間も、ご不快なご様子でしたし」
「機嫌が悪いとわかっているなら近寄るな。離せ」
「どうして、そのように……」
江澄は手を払ったが、偉宗主は離さなかった。そればかりか、もう片方の腕をもつかまれた。にらみつけた顔はひるむことなく、江澄を見つめている。
「江宗主は不要だとおっしゃっていますよ」
やわらかな響きの声だった。しかし、有無を言わせぬ圧力をまとっていた。
「沢蕪君」
「偉宗主、ほら、その手をお放しなさい」
「これは、その……」
「江宗主のお望みではないでしょう」
「……失礼いたしました」
偉宗主は今度はすんなりと手を離し、さっと拱手をすると庭の奥へと去っていく。
江澄はそれを呆然と見送り、首を傾げた。結局、あの男が何をしたかったのかはわからずじまいだ。
「江宗主はお戻りになる途中でしたか」
「ああ……、懐かしくて、散歩をしていた」
「では、お付き合いいたしましょう」
江澄は沢蕪君とふたり並んで歩き出した。
月は山の端にかかり、次第に闇が濃くなっていく。
「あなたは、もういいのか」
「なにがでしょう」
「宴を辞して、構わなかったのか」
「ええ、亥の刻は過ぎておりますし」
「だいぶ前に過ぎたな。あなたならば、その時点で辞去してもよかったのではないか」
「そうなのですが」
沢蕪君がふと足を止めた。江澄も立ち止まり、闇にかすむ男を振り返った。
「どうした」
「いえ、どうしても、気になる方がいたもので」
突然の言葉だった。
それは鋭利な刃物となって江澄の胸に突き立ち、一瞬、呼吸を奪った。
「あ、なたに、そのような方がいたとは驚きだ」
周りを囲んでいた娘の内の誰かだろうか。それとも、ほかの宗主の娘だろうか。誰だってかまわない。早くここからいなくなりたい。
「その方はもういいのか。俺にかかずらっていないで、戻ったらどうだ」
「いえ、その方はもうあちらにはいませんから」
「そうか……、いや、どちらにしても、俺をかまう必要はないだろう。まだ、俺は歩くから、あなたは戻られてはいかがか」
江澄が一歩下がると、なぜか沢蕪君も一歩近寄る。
二歩、三歩、と同じことをくり返して、そのたびに距離が狭まる。
「なぜ、こちらへ来る」
「どうして、遠ざかろうとするのです」
「俺は、散歩を……」
「あなたは、私があなたを追って来たとは考えないのですか」
「は?」
江澄が立ち止まると、沢蕪君は目の前にいた。月がかげった闇の中でも、輪郭が分かるくらいの距離だった。
「宴の間、ずっとあなたの視線を感じていました」
「気のせいだ」
「私が、気になる方がいると言ったとたんに、青ざめて」
「こんな暗さで見えるものか」
「理由が知りたい」
気が付けば両手を取られていた。ぎゅっと握った手は熱く、江澄は逃れることも忘れた。
じっと見つめてくる瞳は、今までにない近さで江澄の顔を映している。
「教えてください、江宗主」
心臓がろっ骨をでたらめに叩いている。
露見してはいけない醜悪な汚泥が、さらされようとしている。
江澄は腕を引いたが、沢蕪君はしっかりと握ったままで、離れるどころかぐいと引き寄せられた。
「もし、私が、あなたと同じ気持ちだと言ったら、教えてくれますか」
「なにを……」
「あなたが、偉宗主と寄り添っているところを見たときの私は、きっとさきほどのあなたと同じ顔をしていたことでしょう」
とうとう、沢蕪君との距離はなくなった。
江澄は白い袖の内側にいて、背中にはあたたかな手のひらがあった。
「今日まで、自信がなくて、伝えられませんでした」
耳のすぐそばで聞こえる声は、たしかに沢蕪君のものである。
白檀の香が、鼻腔を満たす。
「でも、私の思い上がりではありませんよね」
美しい娘の手を除けていた沢蕪君のその手が、江澄の頬をなでていく。
江澄はおそるおそる白い衣の端を握った。
息のかかる距離で、沢蕪君がささやく。
江澄にだけ聞こえる声だった。
月でさえ、闇に隔てられた夜のことだった。