唇にやわらかく触れるものを感じて、江澄は思わず胸を押し返した。
いきなりで驚いた。まだ、動揺がおさまらないのに、さらに混乱がかぶさってくる。
しかし、「なぜ?」とのぞき込んでくる瞳に正直なところは言えなかった。
「ここでは……」
口をついて出たごまかしに、藍曦臣はうなずいた。
「そうですね。こちらへ」
手を引かれて外廊を行く。
宴の明かりも遠く、星明かりだけでは足元にも届かない。
江澄は向かう先も知らぬまま、ただ男について歩いた。白い背中とひるがえる抹額だけが進むべき目印である。
藍曦臣は客棟のひとつに入ると、暗いままの室内を迷いのない足取りで進んだ。そこが藍曦臣の客室だと江澄が気がついたときには、再びその腕にからめとられていた。
「えっ」
倒れる、と思わず藍曦臣にしがみつく。
次に見えたのは天蓋だった。
「たくっんんんっ……!」
構える間もなかった。
唇の隙間からぬるりと入り込んできたものがなんなのかなんて、わかりきっている。
江澄は抗議もできず、さきほどのように押し返すこともできずに、目をきつく閉じた。
いきなりすぎる、と文句が浮かぶが、あっという間に息苦しさにのまれて消えた。
藍曦臣の舌はかたまったままの江澄の舌を何度もなでる。
「んん……ふ……」
次第に、ぞくぞくと背中にしびれが這うようになった。そうなるとふしぎなことに自然と体から強張りも解ける。
「あ、んんっ」
唾液が口の端を伝う。
藍曦臣は角度を変えて口を吸いつづけ、離そうとしない。
江澄の思考はだんだんと薄れて、気がつくと完全に藍曦臣にすがっていた。
「江澄……」
「ひっ」
耳朶に息を吹き込まれて、江澄は身をすくめた。
「藍渙と」
「ら、藍渙」
江澄は言われるままに名を唇に乗せた。字で呼んだこともないというのに、恐れ多いと思う余裕すらなかった。
「うれしい」
「んっ」
再び深く口づけられる。
藍曦臣の指がほおをなでて、首すじをなぞり、するりと袷をゆるめていく。
江澄は気づいていた。気づいていたが、どうすればいいかわからなかった。これから自分がどうなるのかもわからない。藍曦臣の望むこと、それだけがわかっていた。
「ふあっ……」
「ああ……、江澄……」
視線を上げると、藍曦臣が目を細めてほほえんでいた。
「夢のようだ」
「……夢、でいい」
「そのように言わないで。夢にするつもりはないよ」
藍曦臣の顔が再び近づき、江澄は反射的に目をつぶった。しかし、唇に触れる感触はなく、耳殻をなまあたたかいものがなでていく。
「っ……!」
藍曦臣は江澄の肩をなだめるようにさすりつつ、肌の上に唇をすべらせる。
勝手に背が跳ねた。
今まで知らなかったしびれるような感覚が表皮を這っていく。
江澄は下唇をかんだ。
やめてくれ、待ってくれ、と転がり出そうになった言葉が、行き場をなくして咽喉の奥で渦を巻く。
本当に夢かもしれないのだ。次はないかもしれないのに、静止をかけられるわけがない。
藍曦臣は首元に顔を埋めて、そこを舐めたり、吸ったりをくり返す。鎖骨から、喉仏をたどり、胸骨に下りたところで彼はようやく顔を上げた。
「江澄、江澄、口を開けて」
「……っは、は」
詰めていた息が解放されて、江澄は何度も短く息を吐いた。のぞきこむ藍曦臣の顔がにじんでいく。
「すみません、無理をさせました」
江澄は首を振った。
声はまだ出せない。
「舞い上がってしまいました。許してください」
許すもなにも、藍曦臣は悪くない。そう思うのにまなじりからはしずくが伝い落ちる。
藍曦臣はそれを拭い取り、いまだ声を出せない江澄の唇に触れた。
「いやなことをしましたね。もうしません。大丈夫ですから」
安心させようとしているのか、彼はいつもの笑顔を作り、体を起こす。
なにも大丈夫ではない。
江澄は慌てて、藍曦臣の衣をつかんだ。
「い、いやじゃない」
「江澄……」
「平気だ、大丈夫だから」
今、この機を逸したら、この人に触れてもらえることはもうないかもしれない。せっかく、なにかの気の迷いで望んでもらえているのに、それをふいにするつもりはない。
しかし、藍曦臣は江澄を見下ろしたまま動かない。
「無理を強いるつもりはありません」
「無理じゃない」
「本当に?」
「ああ」
藍曦臣は「それなら」と身をかがめ、江澄の耳に唇を寄せた。
「力を抜いて」
手のひらが、衣の上から胸をなでていく。
「そう、ゆっくり息を吸って」
江澄は言われたとおりにつとめたが、その間にも藍曦臣の手が脇腹や腰をさするものだから、どうしても体は強張ってしまう。
さらには耳に熱い息を吹きかけられて、江澄は「う」と肩をすくめた。
「ふふ、江澄。ありがとう」
「え?」
目を開けると、また藍曦臣の笑顔があった。
「今日はもう寝ましょう」
「は?」
藍曦臣は江澄の隣に横になると、「おいで」と体を抱き寄せる。
そうして、そのまま本当に寝息を立てはじめた。
江澄は呆然と天蓋を見つめた。
自分が失敗したことだけがわかっていた。