翌朝、藍曦臣は優しかった。
江澄を気遣って、「もう少し眠ってください」と牀榻を明け渡し、彼自身は卯の刻だからと身支度を整えて、外へと出ていった。
江澄はその隙に自分の客室へと戻り、供人をまとめ上げて金鱗台を去った。
きっと藍曦臣は酔っていたに違いない。酒精を金丹で消すといっても、多少の影響はあったのだろう。牀榻で、なにもかもを間違えた江澄を見て、彼はきっと冷静になったのだ。だからこそ、何もないままに朝を迎えることになったのだ。
沢蕪君とはじまるものがあるはずがなかった。
ところが、それから三日も経たないうちに文があった。
上等な紙には美しい手跡が映える。
白檀が香った。
——体調はいかがでしょう。清談会も終わり、繁忙も落ち着きましたので、あなたに会いに行きたいと思っています。ご都合をお聞かせください。
用件もなく、ただそれだけが認められている。
江澄は首をひねった。姑蘇藍氏の宗主がやってくるだけの案件があっただろうか。
ともかくも、と返事を出す。
——そちらのご都合で構いません。ところで、先にご用件をおうかがいしてもよろしいでしょうか。
これへの返書は一文だけ。
——二日後の夕方、蓮花塢に到着いたします。
その日、日が落ちる頃になって、藍曦臣は現れた。湖上の舟ではなく、朔月に乗って藍色の空を舞う。
御剣の術でやってくるほどの急ぎであったか。これは一大事と江澄は気を引き締めた。
「ようこそおいでくださいました、藍宗主」
藍曦臣はいつもの微笑を浮かべていなかった。「お世話になります」と応える声もかたい。
「食事を用意させています。ひとまず……」
「いえ」
有無を言わさぬ声だった。
江澄が驚いて藍曦臣を見つめれば、彼は一歩近寄ってきてささやいた。
「内密に、お話が」
背中がぞくりと震えた。耳のすぐそばで響いた低い声に、あの夜を思い出した。
——江澄、と彼はたしかに呼んでいた。その唇が触れていた。
よみがえってくる感触を意識の奥へと押しやって、江澄は踵を返した。「こちらへ」と私邸へ足を向ける。
その背後では太陽がひと筋の光を放ち、湖の向こう側へと沈んでいった。
陽の光を失った室内は暗く、江澄は手早く明かりをともした。
手燭の炎は小刻みに揺れて、落ちた影が震えている。
「それで、お話とは」
江澄は机の向こうに座るようにうながしたが、藍曦臣は首を振った。いぶかしむ間もなく、手を取られた。
「江澄、教えてください」
藍曦臣は眉間にしわを寄せ、ぐいと江澄の手を引く。
「なぜ、あの朝、いなくなってしまったのですか」
江澄にとっては唐突な話題だった。藍宗主から急ぎで話があると思って疑っていなかった。江澄はしげしげと厳しい表情の藍曦臣を見つめ返し、それから慌てて手を払おうとしたが許してはもらえなかった。
「逃げないで。答えてください」
藍曦臣の声に余裕はなかった。彼は痛いほどの力で江澄の手を握りしめていて、いつの間にか指先が冷たくなっている。
江澄はうろたえた。どうして、藍曦臣がわざわざ蓮花塢に来てまで問うてくるのかがわからない。答えた後にどうなるのかも予想がつかない。頭の中ではあの夜のできごとがくりかえしているのに、どのような言葉にしたら正解なのかが選び取れない。
「お願いです、江澄。あなたの気持ちを聞かせてください」
もはや懇願だった。
しかし、それさえも江澄には理解できなかった。
藍曦臣は沈痛な面持ちでうつむくと、そっと江澄の手を離した。
「私とは、もう話したくないほどなのでしょうか」
指先がじんと痛む。
藍曦臣は床に膝をついた。
「あなたには申し訳ないことをいたしました。私が悪いことは承知しています。ですが、あなたをあきらめることはできそうにない」
江澄は呆然と藍曦臣の束髪冠を見つめた。ふしぎと思い出されたのは客室の天蓋だった。隣にずっとあこがれていた人のぬくもりを感じながら、ひたすらに天蓋の飾り彫りをたどって、深い闇の底へと落ちていきそうな自分を引き止めた夜だった。
「どうか、私にもう一度機会をください。あなたを愛している」
「うそだ」
藍曦臣がぱっと顔を上げた。
黒髪が幾筋か頬に張り付いている。
「どうして」
「あなたがやめたんだろう。俺が失敗したから」
「失敗、というのはどういう」
「言えるものか! 朝も、すぐにいなくなったじゃないか」
「待ってください、江澄。話を……」
藍曦臣は立ち上がって手を伸ばした。しかし、江澄はその手を勢いよく払い、乾いた音が響いた。
「来るな! あなたは、俺のことなんか好きでもなんでもないんだ。そうに決まってる……、なにも、しないまま、なんて、ほかに考えられない……」
江澄は顔を見られたくなくて藍曦臣に背を向けた。
頬を伝い落ちていくものがある。
机の上に置いた明かりが床の上のしずくを照らす。
「江澄……」
藍曦臣の腕が背後からやんわりと抱きしめた。
江澄は体をかたくしたが、逃れようとはしなかった。
「謝っても、謝り切れません。ごめんなさい」
「……謝ってほしいわけじゃない」
「でも、私が悪いことに変わりはありません。江澄、あなたはなにも失敗していません」
「失敗だろう。あなたの相手をできなかった。だから、あなたもやめたんだろう」
江澄は身をかがめた。胃がきりりと痛んだ。
「失敗だというなら、私のほうです。あせるばかりにあなたを傷つけました」
藍曦臣は少しだけ腕に力をこめた。
「あの夜のあなたは健気でした。私のふるまいに耐えようとしてくれた。その気持ちがうれしくて、自分の行いが恥ずかしくなったのです」
「あなたが?」
「ええ、あなたの気持ちをたしかめることさえしていなかった。それに気が付いたので、がまんができたのですよ」
江澄はそろそろと背後を振り返り、「本当か」と尋ねた。藍曦臣が言うことは簡単に信用できる内容ではなかった。まさか、失敗していないと言われるとは。
「本当です。信じてください」
どうすれば信じられるだろう。
藍曦臣の腕の中で、江澄はゆっくりと体の向きを変えた。目の前にきた肩に頭をのせると、力いっぱい抱きしめられた。
この人は姑蘇藍氏の宗主である。
うそはつかない。
だけど、このまま信じることはできない。
「証しが、ほしい」
「どのようなものでしょう」
「あなたの言葉が本当なら」
江澄は万が一にも顔を見られないようにと、顔を肩に押し付けた。
「……あのときの、続きを」
「江澄」
藍曦臣の手が両肩をつかんで、体を引き離す。
「それは、あなた……」
「いいから。大丈夫だ。信じたいんだ」
江澄は、今度は視線をそらさなかった。不安げに眉尻を下げているのはむしろ藍曦臣のほうだった。
「俺も、あなたが好きだ」
だから、と続けようとした言葉はみごとにさえぎられた。
藍曦臣の口づけを受けながら、江澄はその背にしっかりとしがみついていた。
影を映していた灯が消える。
月はまだ天の下にある。