夕方になって江澄は目を覚ました。
藍曦臣が古琴を弾き続けていたことに気が付くと、彼は申し訳なさそうにするでもなく笑顔を浮かべた。
「本当だ、いてくれたのだな」
「ええ、約束いたしましたので」
「うれしい」
藍曦臣が牀榻に腰かけると、彼はすぐに腕を伸ばして抱きついてきた。やはり体が細い。背中をなでるとよくわかる。
「今日はなにをしたんですか」
「いつもどおりだ。仕事が片付かなくてな」
「起きている間はずっと仕事ですか?」
「そうだな。最近は仕事しかしていない」
「夜狩りにも行っていないのですね」
「そういえば、行っていないな」
藍曦臣は少し体を離して、両手で江澄の頬を包んだ。
「私が来るまで、夢の中ではなにをしていました?」
藍曦臣は確信していた。江澄は夢とうつつを取り違えている。彼にとって現実は夢の中にあり、夢は現実なのだ。
江澄はふしぎそうに眉根を寄せつつも、「仕事だ」と答えた。
「夢でも仕事が多かったな。だから、ものすごく疲れていたんだ。全然休んだ気がしなくて、夜狩に行く気にもなれなくて」
「そうでしたか」
「でも、あなたが来てからいいことばかりだな。ちゃんと休めるし……、ああ、でも」
江澄は藍曦臣の手に頬を擦りつけながら、眉根を下げた。
「本当は、現実であなたに会いたい」
「阿澄」
「文を、出してみたんだが、返事がないし、もう本当に会えないかもしれない」
藍曦臣はたまらずに江澄をきつく抱きしめた。
どうやら江澄は彼の現実の中で藍曦臣をあきらめることなく、関係の修復を図っていたらしい。
「抱いてくれ、藍渙。あなたにこうして会えるうちに、あなたを覚えておきたい」
江澄は藍曦臣の髪をかき分け、あらわになった耳に唇を寄せた。
藍曦臣も今度はそれをとどめず、江澄の体を押し倒した。彼にとっては夢でも、己にとっては現実である。こんなふうに肌を重ねて、あとで江澄は傷つかないだろうか。だが、求めてくれる本心は間違いでないと信じたい。
藍曦臣は江澄の首元に顔を埋め、その肌に吸いついた。
安学逸は元々、向家の門下であった。十五の歳に自ら志して江家に移り、失われた蓮花塢の書物について、集積と修復を行ってきた。
向家は今こそほどほどに大きな世家ではあるが、かつては江家の翼下にあった。武を得意とせず、呪術の研究と開発に重きを置いていた。五代前に遡れば、江家宗主の妹が嫁いでくる近さである。
その彼が、夜半に前庭に出ていた。庭は夜狩から帰ったばかりの一団でにわかににぎわっている。
安学逸はその中にいたひとりの仙子の腕をつかんだ。
「ようやくつかまえたぞ、向陽紗」
「学兄! 学兄こそ! やっと会えた!」
向陽紗は飛び上がって笑顔になった。
安学逸が向門下にあったころ、彼女は十歳にも満たない子どもであった。よく子どもの相手をした安学逸を慕って、しょっちゅう後をついて歩いていた。
しかし、安学逸のほうは厳しい顔をくずさない。
「ふざけるな。お前、宗主になにをした」
「なにって? なに? 江宗主になにかあったの?」
「ここのところ表にお出ででない」
「え! そうなの!」
「しらばっくれるつもりか」
「そんなこと言われても! 私だって三日も夜狩に出てたんだ。今帰ったところだし、なにかできるわけがないよ」
安学逸はそれでも引き下がらずに、向陽紗の腕を引いた。
「向家には呪織があるだろう」
向家の編み出した術式の中に呪織というものがある。通常は札に書く呪紋を布に織るという術であったが、おそろしく手間がかかる。機織りの間霊力を流し続ける必要があり、さらには裁断すると効力を失うという、まったく実践的ではない術であった。
しかし、逆手を取れば、手間さえかければいいのである。しかも、周知されていない術となれば警戒されることもない。
これほど貴人に害をなすのに適当な術はないと思えた。
しかし、向陽紗は首をかしげた。
「呪織?」
初めて聞いたと言わんばかりの表情に、安学逸も怪訝な顔になる。
「まさか、知らないのか」
「うん、聞いたことない。なんだ、それ」
安学逸は思わず口元を手で隠した。
杞憂か、と一瞬安堵したものの、あれは運び手を選ばない。向陽紗が正体を知らずとも、呪織が江宗主のそばに運び込まれた可能性はある。
「向家から贈物があっただろう」
「ああ、うん。なんか、いっぱいあった」
「内訳を覚えているか」
「覚えてるわけないよ! ほとんど返しちゃったし」
「ならば受け取ったものは?」
「えーと……、興味ないから聞かなかった」
がっくりと肩を落とす安学逸に、向陽紗は慌てて記憶をたどった。
たしか、あのとき取りまとめていたのは誰だったか。
受け取ることにした物品を采配していたのもたしか同じ人だったはず。
「秀師兄!」
唐突に叫んだ向陽紗は、安学逸の両肩をつかんでゆすった。
「学兄! 秀師兄なら詳しく知ってる!」
二人は顔を見合わせると、急いで試剣堂へと向かった。
夜狩の報告を受けるため、師兄の誰かひとりはいるはずだった。