藍曦臣と安学逸と師兄の三人は厳しい表情で額を突き合わせていた。
安学逸が昨晩のうちに臥室から見つけ出した呪織は十点にも上った。牀榻の帳子にはじまり、裁断されていて効力は失われていたものの、敷布や箱の貼布、壁掛けの一部にもなっていた。
「上等な織物でしたから、家僕も宗主の房室にと使ったのでしょう」
眉間のしわをもみながら師兄が言った。彼は今朝になって家僕から織物の行方を聞き出して、すべてかきあつめた。幸い、半分は反物のままだった。
「一番大きな呪紋は帳子ですね。これはいったいどのような効果がありますか」
「夢と現実を錯誤させる呪紋です」
「ああ、やはり……」
師兄が両手で顔を覆った。
「呪織が霊力を少しずつ吸い上げて、どんどん寝ている時間が延びます。そのうちに主人は衰弱する」
「まさに江宗主の状況通りですね」
「しかし、妙なことです」
安学逸が首をかしげつつ、藍曦臣と師兄を交互に見た。
「どれも呪紋としては効力の薄い……、宗主ほどの修為があれば、影響を受けないようなものばかりなので」
「たしかに」
今度は藍曦臣に視線が集まる。
言われてみればそのとおりであった。藍曦臣は江澄とともに同じ牀榻で休んでいたのだ。呪紋の効力が藍曦臣に及んでいてもおかしくないのに、今に至っても藍曦臣は正気だった。
「なにか、宗主のお気持ちが異様に落ち込むようなことがあれば呪紋の蓄積に耐えきれない、ということもありますが」
腕を組み、うなる二人とは対照的に、藍曦臣は愕然とした。
早朝の、江澄の嘆きがよみがえる。
彼にとどめを刺したのはまぎれもなく己であった。
江澄は、藍曦臣が道侶を迎えるという噂を聞いて、呪織の効果に落ちたのだ。
「どうしたものでしょう。宗主に戻っていただくにはなにをしたら」
「とりあえず、呪織は取り除きましたので、ご様子を見られてはいかがでしょう。徐々に現実をご認識なさるかと」
その間、江澄は藍曦臣のいない世界を現実として生きるのか。ずっとあんなに苦しむことになるのか。
「私が、江宗主を戻します」
とてもではないが、待てるものではなかった。
江澄は藍曦臣の霊力は受け取っていた。ならば、ここが現実だとわかるだけのものを感じ取ってもらえれば。
「なにか方法がありますか」
「……明日まで、時間をください」
「わかりました。おまかせします」
陽はまだ高く、庭からは修士たちが修行に励む声が聞こえてくる。
藍曦臣は客房に入ると、まず江家の家僕に頭を下げて、明日まで誰も近寄らないようにと願い出た。
慌てふためいたのは家僕のほうである。彼らは「なにもかもおまかせします」と言って、私邸へと引き上げた。
その上で藍曦臣はすべての戸を引き、結界を張った。
臥室は薄闇に閉ざされる。
「阿澄……」
寝入っている江澄の頬をなでると、まぶたがぴくりと動いた。
「阿澄、起きて」
「ん……」
江澄はぼんやりと藍曦臣を見た。
「まだ、いてくれたのか」
「いつまでもいますよ。私はここです」
江澄は弱々しく笑いながら、ふと首をかしげた。藍曦臣の胸を押し返して体を起こし、辺りを見回す。
「なんでまた、客房なんだ?」
「今、あなたの房室は使えないんです」
「なぜだ。なにかあったのか」
「呪術が仕込まれていました。安全が確認できるまではこちらに」
「夢なのに、おかしなことを言う」
藍曦臣は江澄の手を握って、その目をのぞき込んだ。違和感があるのだろう。落ち着きなく、きょろきょろと周囲をうかがっている。
「夢ではありませんよ。これは現実です」
「は?」
「私がここにいるのが現実なんです」
江澄は眉根を寄せて、それから首を振った。
「そんなわけがないだろう。あなたはもう俺には会いにこない」
「いいえ、江澄。私はあなたに会いにきています」
「道侶を迎えると聞いたぞ」
「それはあなたのことです」
「姑蘇藍氏は嘘を禁じていたな。今のうちに撤回しておけ」
「嘘ではありませんし、撤回もいたしません。信じてください」
江澄はそれを鼻で笑った。藍曦臣の手を払って、その拍子によろめいた。
「阿澄っ」
藍曦臣が肩を支えるが、それさえ身をよじっていやがった。
「うるさい。信じられるか。もし本当だとしたら、あなた、雲深不知処はどうしたんだ。もう何日もここにいるだろう」
「それでも、私はここに来ています。雲深不知処は叔父上と忘機が……」
「ふざけるな! 宗主がそんなでどうする!」
「……あなたは私を許さないかもしれません。ですが、あなたを放っておくことはできませんでした」
藍曦臣はいやがる江澄の肩を押さえて、唇を合わせた。もろに噛みつかれて血がにじんだが、かまわずに霊気を送った。
「んっ」
「……わかるでしょう」
江澄は呆然と藍曦臣を見上げている。
半開きの口の端には血がついたままだ。
「もし、今が夢だとしたら、私の気を感じることはできないはずです」
「そうだが、しかし……」
「もう一度、感じて」
藍曦臣が唇を近づけると、今度は江澄も抵抗しなかった。
血の味がする唇をなめてから、舌をすべり込ませる。気を集めて舌に乗せ、江澄の舌に塗りつけるようにしてからめてやる。
「ん、ふ……」
そのまま貪りたくなる気持ちをおさえて、藍曦臣は顔を離した。
江澄はうるんだ瞳を揺らしている。
「ねえ、阿澄。わかるでしょう」
「……わかる」
ところが、江澄はうなずきつつも「変だ」と訴えた。
「あなたの言うことはわかる。でも、おかしい。それでも、ここは夢なんだ」
「そう……」
藍曦臣は江澄の体をそっと倒すと、みぞおちのあたりに手をかざした。金丹の気配はある。しかし、やけに希薄である。
呪織に霊力を吸われすぎたのだ。
「私の気を、あなたに送ります」
「それはさっきやっただろう」
「もっとたくさん送ります。だから、あなたは私の気と自分の気を練り合わせて、金丹を強くして」
江澄は即座に首を振った。
「……無理だ。あなたも知っているだろう。この金丹は俺のものではない」
「できます」
藍曦臣も負けずに断言した。
姑蘇藍氏は嘘を言わない。嘘にしてはならない。
「あなたは三毒を扱えているでしょう。金丹はすでにあなたのものです」
江澄ははっと息を飲み、自分の腹に手を当てた。彼自身も自分の金丹が弱々しいことに気づいただろう。
藍曦臣はその手を上から握りしめた。
「私に手助けをさせてください」
「どうやって」
「あなたの深いところに気を送ります。私の気とあなたの気をよどみなく練るためには、体の中心にちかいほうがいいでしょう」
蔵書閣には双修について些細を記した書物があった。
藍曦臣は知識として取り込んだ内容を頭の中で大急ぎでよみがえらせた。今まで実践したいと思ったことはなかった。その必要もなかった。
だが、片端から書物を読んでおいて、心から良かったと思う。
江澄は見る間に顔を赤くすると、藍曦臣の視線から逃げるように顔を背けた。それから、小さく「頼む」と言った。