春先に側にいる【春先に側にいる】
暦の上ではもう春である。
夕方、斎藤茂吉は補修室……別名医務室……で一息ついて伸びをした。寒暖差が激しいものの、徐々に寒さは薄らいでいる。
「とはいうものの、冬鬱から春鬱への切り替わりがある」
冬は日も余りささず寒い。これにより心身の不調を訴える者もいる。これが春になり収まってきたかと想えば今度は春の温かさで、
心身の不調が出てくるの者もいる。冬に心身を崩していたものは徐々に元気となり、春に心身を崩すものは元気をなくしていく。
「今日の分の仕事は終わったのか」
「島田君。体調の方は」
「元気だから、いちいち俺に体調のことを聴くな」
「すまない。心配だったんだ」
「斎藤さんはお医者さんだものね」
部屋のドアが開く。そこにはマグカップと白い皿に乗ったクロワッサンを持ってきた島田清次郎がいた。
茂吉からすると大事で、非常に心配をしている文豪である。日常の話もするようにはしているが問診にもなりやすいため、
そこを清次郎に怒られていた。清次郎の背後から顔をのぞかせていたのは小川未明である。
清次郎は持ってきた盆を茂吉の机の上に置いた。
「これは……クロワッサンだな」
「俺と小川が買い物に行ったパン屋で買ったクロワッサンだ」
「スタッフさん達が集まって新しいパン屋をするっていうところ、見に行ってた」
「ありがたい。食べる暇もなかったから」
未明と清次郎はたまに一緒に行動をする。外で行動をするときは清次郎が兄で未明が弟となってきょうだいとして
振る舞うこともあるという。実際のところ生年で換算すると未明は清次郎よりも年上だ。茂吉と同じ生年なのである。
去年の十二月ごろに清次郎と未明はたまに行っていたパン屋の倒産騒動に巻き込まれていた。その騒動も落ち着きはしているらしい。
マグカップに入っていたのはホットミルクのようだった。一口飲んでみるとミルクの甘さの他に別の甘さもあった。
「蜂蜜だな」
「アンタの師匠がこれを持って行けと言っていたからな」
「師匠は、どちらに」
「中里さんと吉井さんとお出かけしてた」
マグカップの中のホットミルクには蜂蜜が入っていた。蜂蜜ホットミルクである。
茂吉の師匠である伊藤佐千夫は外見が十代の少年だ。少女にも見ようとすれば見えるかもしれない。佐千夫は中里介山と吉井勇と
出かけたようだった。この三人と佐千夫はとても仲がいい。
「島田君も小川君もありがとう」
「休めるときには休め。花粉症もあるし風邪もある」
「季節の変わり目は大変だよね」
茂吉は休みながらクロワッサンとホットミルクを食べ、飲む。体の方は気を付けておかなければならないとはなった。
次の日の早朝、頭痛がする中、文豪宿舎の茂吉は階段を下りていた。そのまま外に出る。頭が痛かった。
風邪をひいてしまったらしい。気が緩んだのもあるかもしれない。
『にゃああ』
『にゃあ』
「スミと……メインクーンの……」
体が熱っぽい。季節の変わり目で寒暖差が激しいのもあるし、このところはとても忙しかった。茂吉が声のする方を見下ろすと
真っ黒い毛長の黒雌猫のスミと明るい茶色い毛をしたメインクーンの猫がいた。スミもメインクーンも図書館で世話をしている図書館猫だ。
メインクーンは独特の高い声をしている。メインクーンはゆっくりと成長する猫で、体躯が成長するにしたがって大きくなる。
スミの方が駆け出していき、メインクーンの方が茂吉を見上げていた。
身体を摺り寄せてくる。
「君の飼い主は……ボードレール君は……」
「スミが呼んでいたのだが」
「露伴先生……」
この図書館にメインクーンは二匹いて今は文豪たちで面倒を見ていたが当初はシャルル・ボードレールが面倒を見ていた。
撫でようとすると幸田露伴の声がした。スミが連れてきてくれたらしい。
露伴先生と呼んだ矢先に眩暈がした。
そこから先のことは朧気である。露伴の手が額に当てられて、吉川英治の声も聞こえていた。
察するに露伴と吉川の手によって部屋に戻されたらしい。
「この温度差だし、君は働きすぎていた。暫くゆっくりと休むといい」
「すみません。ドイルさん」
「礼ならば幸田殿や吉川殿や猫達に……ポー殿がちゅーるをあげすぎないように止めておかねば」
「……露伴先生たちに」
「猫にだ。猫」
コナン・ドイルが茂吉の検診をしてくれた。ドイルも内科医だ。茂吉はベッドに寝かされていた。
検診を終えたドイルは茂吉に点滴を打ってくれた。安静にしていろと言うのはドイルや周囲の心遣いだろう。
エドガー・アラン・ポーの名が出てきていた。ポーは猫好きだ。
ちゅーるというのはどろりとした猫用のおやつでありこれが嫌いな猫が殆どいないとされているものだ。
ドイルが部屋から出る。
(倒れてしまうとは……)
情けないと想いそうになりながらも、体調管理はしようとしていても時々できなくなってしまう。
この季節なのだから仕方がないとは茂吉も言うようにはしている。ただ、楽しかったので一晩中飲み明かしたら風邪を引いた
なら体調管理をしっかりしろとは怒るが。
メガネは外されていた。出来ることと言えば、眠ることぐらいだ。
茂吉は暫く眠ることにする。寝て起きたとき、昼を過ぎていた。
「入るぞ」
目を開けてぼんやりとしているとドアがノックされ、聞き覚えのある声がした。
「島田君……」
ドアを開けて、清次郎が部屋に入ってきた。昨日のように手には盆を持っていたが、盆に載っていたのはホットミルクと
クロワッサンではなく土鍋と切った林檎と水だった。
「体調を崩して倒れたと聞いたから、飯を持ってきたぞ」
「図書館の方は」
「滞りなく動いている。アンタもアンタで休んでおくんだな」
茂吉の前に土鍋が差し出される。開けてみれば中に入っていたのは暖かなうどんだった。ねぎと卵と梅が入っている。
「うどん、か」
「料理長が作った。鰻を入れておけばいいと俺が進言したのだが病人にはやめておけと却下された」
「私の好物を……気持ちは受け取っておくよ。体調が回復したら、一緒に食べようか」
「お、おう……」
柔らかく言えば清次郎が戸惑いながらも大きく何度も頷いていた。
料理長は帝国図書館が対侵蝕者の前線基地として動き出したころからいる人物で美味しいご飯で文豪たちを助けてくれている人だ。
うどんは料理長が作ってくれたらしい。小皿の上には不器用ながらに切られたうさぎのりんごが置かれていた。
茂吉は疑問に思う。料理長は料理の達人なのでうさぎりんごだって簡単に作ってくれるはずなのに。
「このりんごは島田君が剥いてくれたのか。ウサギのようだが……」
「……秋声に習ったんだ。看病と言えばこの形のりんごのようだからな! 動けるか?」
不格好だがりんごの赤い皮がうさぎの耳を形作っている。
「テーブルまでは移動が出来る」
茂吉の部屋は和洋折衷だ。和風をベースにしている区画もあれば洋風をベースにしているところもある。
メガネをかけてテーブルの方へと移動した。
おかゆよりも先に茂吉は林檎を手に取った。咀嚼する。
「美味いりんごだろう」
「そうだな。島田君がきちんとりんごを剥いてくれたから美味しかったよ」
「……お前はヒトをすぐに褒めすぎる。お前に褒められるともぞうぞする」
「もぞうぞ」
照れているということだろうかとなる。変わった擬音だとなった。
「急ぎつつもそこまで急がずによくなるんだな!」
清次郎が言い切っていた。心配をしてくれているのだろうとなる。体調が治ったら真っ先に清次郎と鰻屋に行こうと想いながら、
「ああ。よくなろう」
彼の言葉に、答えた。
「りんごを剥くにはどうしたらいいんだ?」
茂吉のところに清次郎が昼食を持っていくよりも前、徳田秋声は清次郎に聞かれた。
本日の秋声は待機でのんびりと和柄ポーチでも作ろうとしていた時だった。
「斎藤さんに持っていくのかい?」
「……りんごなら何とかなりそうだ。うどんは料理長が作っているみたいだし」
「練習すればできるよ」
「司書はりんご食べる? で俺が頷いたら、白い皿に乗ったそのままのりんごを持ってきた。剥けと想った俺がつついた瞬間
りんごが割れて、綺麗に切られていて透けた赤い皮が、俺はあのレベルに到達できるのか」
「いいかい。あの子は刃物の扱いに関しては異常に上手いから参考にしちゃいけないよ!?」
「かっこいいりんごを剥きたい」
「うさぎにしようか……」
彼等を転生させた特務司書の少女に関しては刃物の扱いについては異常すぎるのでそれについては触れないでおく。
秋声は清次郎にりんごの剥き方を教えることにした。
【Fin】