水無月に一日位置茂島21~25.27~30『祝祭が始まる……』
「楽しそうなようで怖く聞こえるのはなんでなんだ」
島田清次郎の隣に黒くて大きなテディベアが浮いている。『くま』が呟いた言葉を清次郎は聴いて顔をしかめた。六月二十一日は夏至だ。
一年の中で一番日が長い。帝国図書館は分館と文豪宿舎の方の電気は消えていた。その代わりにキャンドルが灯っている。キャンドルナイトだ。
元はエコのためとかでどこかで始まったイベントらしいが面白そうだと童話組がやりたいと言い出したのだ。武官と文豪宿舎ならば万が一があってもなんとかなると許可が出た。
「北欧ではずっと太陽が出ているのだそうだ」
斎藤茂吉が言う。
清次郎は医務室に来ていた。医務室もキャンドルナイトであり、ガラスの器に入ったろうそくの灯がともっている。
「眩しいな」
「商店街の方でもキャンドルナイトという名の祭りをしているのだそうだ」
出店も出ている、と聞いて清次郎は眉をあげる。
「夏祭りも有りそうだろう」
「祭りが好きなんだろう。行かないか?」
「お前がそういうなら行ってやる」
今年は梅雨にしては雨が少ないとは聞いている。雨が少なくてよかったと清次郎は感じていた。キャンドルナイトが出来ているし、茂吉とも出かけられる。
「出かけよう。君といると私が楽しい」
「さらりと言うな」
「本音だ」
――この医者は性質が悪い。
何度も想っていることを、清次郎はまた思う。
「……帰られないな」
「雨脚が弱まるのを待ってからタクシーですねぇ」
島田清次郎と山田美妙は超高速でパンチングをしているような雨音を聴きながらおにぎり屋の座敷で休んでいた。
清次郎の荷物にはラッピングされた大きな袋がある。中身は羊のぬいぐるみだ。他にもう一つ、包みがある。今日は坪内逍遥の誕生日であり、明日は露風の誕生日だ。
元々は小川未明が二人に準備したプレゼントであった。彼が引き取りに行く予定だったのだが本日、未明は体調を崩してしまった。
無理もない。
温度差が酷いのだ。キャンドルナイトで他の童話組と騒いでいた未明は次の日熱を出した。
プレゼントのことを気にしていたので兄貴分……実際は未明の方が年上なのだが……の清次郎が引き取りに行ったのだ。
帝国図書館がある町の隣町に来ていた。ぬいぐるみを予約した店に行けばそこに山田美妙がいて悩んでいたので声をかけてプレゼントのことを察して
、話して羊のぬいぐるみを購入した。清次郎も割り勘にしておいた。縁ということでプレゼント代を入れておいたのだ。
この町については知っているので清次郎はパン屋でパンを購入したり、行きつけのおにぎり屋で食事をとったりして帰ろうとしたら豪雨に見舞われた。
「タクシー代が……そんなにないだろう」
「最終手段、図書館前に着いたら守衛さんにお金を借りましょう。プレゼントが濡れてしまいます」
昨日は晴れていたのに今日は雨だ。
清次郎の手持ちはそんなにない。土産も買ったらタクシーを使う金があるような、ないようなといったかんじだ。
「以外だな。坪内逍遙にプレゼントを買うなんて」
「僕の誕生日の時貰いましたので返さないでいるわけにはいきませんよ」
――確か互いに酷評していたのだったか?
文豪はスキャンダルを起こす者は起こしている。逍遥も未明も近代文学の黎明期の文豪だ。文豪たちは人数が多すぎるが、逍遥については
そこそこに知識はある。未明が尊敬しているし、聞いたことはあるからだ。
「戯曲とか書いているんだったか? 俺も書いたことがあるぞ」
「あの人は書いていますねぇ。招待されたりもしましたけど。こっそり見に行きましたが……ま、あの人も色々ありましたからね」
店内にいるのは店員と清次郎と美妙だけだ。この雨で彼等が来た時、店内には店員は誰もいなかった。
(文芸協会関係だったか……? 確か……)
資料整頓をしている『くま』から聞いたことがあるが坪内逍遥が島村抱月と共に起こした文芸協会でいくつかの劇を上演したのだが主演女優の松井須磨子と
抱月の恋愛スキャンダルが起き内部分裂の危機を迎えて、須磨子は退団し、抱月は辞任した。二人は芸術座という新しい劇団を立ち上げた。
文芸協会の方は解散したが、その時の負債は逍遥が払ったと聞いている。
「どうしました?」
「……文芸協会とか芸術座とかだったか? って、聞いたことはある」
「そうですよ。流行しましたからね。『復活』」
「かっこいいタイトルだよな。『復活』。『生ける屍』とかタイトルだけ聞いているとホラー物に聞こえる」
「中身はあれ、主人公が最後にピストル自殺するんですけどねぇ」
ちなみに両方ともトルストイの作品である。ここで会話をしてもいいのかとなるのだが暇であるし、恐らくは誤魔化されるだろうといった様子だ。
その手の対策はいくつもうってあるとは聞いた。
「俺も戯曲はまた挑戦してみたいものだ。アンタも何か書いているんだろう」
「いくつか。執筆環境があるのはいいですし、いろんな出会いもありますから。何とか図書館にも馴染……馴染めていますし?」
「自信を持って馴染めていると言え」
話していると店の戸が開いた。
「帰るぞ。美妙」
「島田君。迎えに来た」
二葉亭四迷と斎藤茂吉であった。
「……何故分かった。手品か?」
「小川君が話していたのと美妙君に関しては裏門の守衛さんがぬいぐるみの店を教えたと言っていたのでもしかしたらと」
「志賀さんが車を出してくれた。乗って戻るぞ。逍遥さんの誕生会は夜だが、雨はもっと酷くなるそうだ」
「プレゼントが濡れてしまいますし、迎え。助かりますよ。タクシーで帰って支払いは図書館に帰ったらしようと想って」
「迎えに来てよかった」
「長谷川君も何か食べません? おにぎり美味しかったです」
「……持って帰るか」
四迷が呟いた。二人は戻ることにする。美妙がおにぎりをすすめたら四迷が選んで買っていた。
「迎えに来てくれたんだな」
「来たかったからな。小川君が渡そうとしていたプレゼントは」
「しっかり引き取ってきた。アイツの体調は」
「暫くは安静にしていないといけない」
「土産におにぎりを作ってもらったのだが」
おかゆを作りましょうか? とおにぎりやの店員が聞いてきた。いつも来てくれるし特別だと言ってくれている
「作ってもらえるなら作ってもらおうか」
「アンタにもお土産のうなぎおにぎりがあるぞ」
「帰ったら貰うよ。ありがとう」
(迎えに来てくれる奴だ)
茂吉は清次郎を迎えに来てくれる。当たり前のようで、当然とはならずに茂吉が当たり前にしてくれること。
大事だと噛みしめながら清次郎は忘れないようにお土産一式を持つ。茂吉もいくつか持ってくれた。
「……湿度め、俺を攻撃してくるとはいい度胸だ」
『ぐったりしているな』
帝国図書館分館のソファーで島田清次郎が寝ていると黒くて大きなテディベアの姿をした『くま』が彼の顔を覗き込んで額をぺしぺししてきた。
本日も雨である。
「今日は三木露風の誕生日だそうだが」
『北原白秋とお前と江戸川乱歩とフィッツジェラルドとかでラップ対決』
「……ラップにこだわっていないか?」
ラップというのは聞いたことがあるが文学と言うか音楽というかとにかく韻を踏んで言葉を言えばいいらしい。
『雨で利用客も少ないし湿気で本に影響も出るし』
「まだ梅雨は続くか」
『明けてない』
清次郎は天井を眺めた。
「梅雨……ここまで俺を苦しめるとは」
「島田君。苦しいのか?」
斎藤茂吉が来る。心配そうにしていた。
「温度も湿度がきついんだ。ここで回復させている」
「料理長が温かいそうめんを準備してくれている。それと三木君の誕生パーティは夜だ」
「……誕生日、今月は少ない方だな」
『二月と十月辺りだな多いの』
パーティは出る出ないは自由だが御馳走が出るので来るものは来ている。
「お前は……短歌を作っているのか? 梅雨でも」
「作っているが」
「……梅雨だから卵不味いって短歌作ってなかったか?」
記憶をたどってみると確かそんな短歌を作っていた記憶がある。
「にはとりの卵の黄身の乱ゆくさみだれごろのあぢきなきかな……だな」
「……海外勢が卵かけご飯に嫌な顔をしていたが」
『そもそも生卵を食うのは日本ぐらいだからな?』
たまごで思い出すことを話す。梅雨のせいで卵が不味いみたいな短歌であるが、
「だし巻き卵もおいしいぞ」
「……食べたくなってきた」
清次郎は起き上がる。
「食べに行こうか。そろそろお昼だ」
「アンタとは毎日顔を合わせている気がする」
ふと気づいたことを清次郎が呟けば、
「顔を合わせるようにしているからな。私として、君に会いたいんだ」
茂吉が優しく微笑んだ。『くま』が二人に空中からピコピコハンマーを降らせようとしていた。
雨。曇天。梅雨。湿気。
島田清次郎は斎藤茂吉の歌集を読みながら物思いにふけっている。赤くて分厚い本だ。これは清次郎の私物である。
清次郎の部屋は和洋折衷だ。眠るときにはベッドを使うが部屋には畳も敷いてある。部屋での読書を終えると彼は廊下に出た。文豪宿舎から食堂へと行く。本は持ったままだ。
「島田さん」
「調理長……美味いものを頼む」
「おまかせでいいですか」
「それで」
食堂を切り盛りしている料理長は清次郎よりも古参だ。おまかせで料理を完全に任せてしまうが美味しいものを作ってもらえるだろうとは思う。
「その本は」
「斎藤の歌集を集めたものだ。――アイツにはどんな風に世界が見えているんだろうな」
「どんな……?」
「畳がしけっていたとか、卵が不味いとかで梅雨を感じる男だ。沢山短歌を作っているし他にも作っている」
「詩人の皆さんはそういうところがありますね」
「俺も詩を作ったりしているんだが、短歌は苦手だ!」
堂々と清次郎は言った。料理長が料理を作りに行く。清次郎は待つことにした。
静寂。曇天。梅雨。湿気。
「島田君にはどんな風に世界が見えているのだろう」
「どんな風にと言うと」
茂吉は食堂に行く。おまかせとするとナポリタンにしておきますねと言われた。茂吉が持っているのは清次郎の本だ。
「わたしには信仰がない。
わたしは昨日昇天した風船である。
誰れがわたしの行方を知つてゐよう
私は故郷を持たないのだ
私は太陽に接近する。
失はれた人生への熱意――
失はれた生への標的――
でも太陽に接近する私の赤い風船は
なんと明るいペシミストではないか。」
茂吉は詩を読んだ。清次郎が生前考えた最後の詩だ。
「変わった詩ですね……島田さんもあなたがどんな風に世界を見ているのか気にしていましたよ。些細なことで季節を感じているからと」
「そうか……お互いに気にしていたのだな」
料理長の言葉を聞いた茂吉は気を抜いたように微笑んだ。
どんな世界を見ているのか互いには分かりづらいけれど、知りたいと、願っている。
もうそろそろ梅雨が明けるのだと島田清次郎は聴いた。開けたら開けたで酷暑が待っていそうだとも。
「このかき氷もアイスも美味いな」
「でしょ? ブックカフェで出そうと想ってね」
本日の食堂は料理長が休みであり、調理を担当するのは河東碧梧桐であった。カレー禁止のルールで食堂が止まる日は文豪たちが交代交代で料理をするということに改めて決定されていた。
気が付いたものが料理をしてまとめておいておくというスタイルでは食事が志賀直哉の手によってカレーになってしまうからだ。
碧梧桐が出してきたのはマンゴーのかき氷と苺のアイスクリームだった。
「島田君。食事中か」
「ああ。アンタは」
「私も今食事をとろうと想っていたんだ」
「アイスがうまいぞ。かき氷も」
「美味しそうだ」
碧梧桐が食事の準備に取り掛かる。茂吉とよく食事をしていることが多いと清次郎は気づく。
(顔を見ないと落ち着かない……?)
自問自答をしてみるが分からない。
「島田君?」
「アンタは俺を見ると落ち着くか?」
茂吉は考え込み、
「そうだな……落ち着く。元気なら嬉しい」
「そうか」
清次郎はひとまず納得した。
今年は梅雨が明けたら一気に酷暑が来そうだという。
「水分補給。塩分補給、しっかり睡眠。たいそかったら言って速攻で休めか」
「重要だな。私も気を付けよう。皆、気を付けるだろうが倒れてしまうときは倒れてしまう」
梅雨明けはいつだ? と島田清次郎は聴いたら、少女の姿をした『くま』は明日と答えた。速い。
斎藤茂吉が自分も気を付けると言っていた。茂吉にしろ医務室組が倒れると大変である。他の文豪たちが倒れる以上に大変だ。
「去年の梅雨はもっと長かったような……」
「今年も暑くなりそうだ」
「水鉄砲で遊んだりしたら怒られそうだ」
「水辺の事故にも気を付けてほしい」
保護者だ、となる。本日はしとしと雨だ。これが明日には終わるらしい。
「北海道辺りは梅雨になりそうだが」
「あちこちの梅雨も終わるだろうな」
梅雨の思い出と考えるがじめじめしていたとか、それぐらいでしかないようでいて、
「アンタが横にいてくれるな」
「どうしたんだ?」
「去年よりもアンタが横にいてくれる気がする」
「だとしたら、そうなのだろう」
茂吉が肯定した。清次郎は何か手伝うことはないか? と問う。茂吉が考え込んでいた。
本日はパフェの日だという。
「パフェ。食べる。食べます」
「ハワード。はしゃいでいるな」
「私が奢ってやろう。未明の快気祝いだ」
「いただきます」
「ありがとう」
純喫茶にて童話組四人、ラヴクラフト、ポー、直木三十五がテーブルを二つ取りつつパフェを注文していた。斎藤茂吉はやや離れたテーブルにいる。
「元気な奴等だ。……元気になってよかったが」
「そうだね。島田君もパフェを頼むかい?」
「……そうする」
パフェでも食べないかとなり、茂吉と清次郎が純喫茶に入ると彼等もいた。パフェはフルーツパフェとチョコパフェなどがある。量はかなりあった。
「私はコーヒーパフェにしておこう」
「俺はフルーツパフェだ……アンタと出かけてばかりだな」
「嫌かい?」
「……嫌じゃない」
注文を取ってもらう。飲み物も頼む。みんな楽しそうだ。
「梅雨が終わるのが早いが紫陽花はまだ咲いている。……病監の窓の下びに紫陽花が咲き、折をり風は吹きに行きにけり」
「……かっこいい短歌だが病室か」
「すまない」
「謝らなくていい。お前は医者だし、病院はお前にとってなじみが深いからな」
短歌を呟いた。清次郎はかつてのこともあり病院や病室を嫌うが茂吉のことを受け入れたのかそういってくれる。
「パフェは時間がかかるそうだ」
「待ってもいい。みんなパフェだからな」
ドアベルが聞こえる。見慣れた文豪たちが来た。今度は新思潮メンバーだ。
「……私たちに独占されそうだな。純喫茶」
「ああ……」
パフェの日。みんなパフェを食べに来ている。
帝国図書館では定期的に朗読会が開かれる。
「星の王子様か」
「今日は作者の誕生日らしい」
六月二十九日、サン=テグジュペリの誕生日、本日の朗読会は星の王子様だそうだ。斎藤茂吉と島田清次郎はこれから有碍書の浄化である。他のメンバーは久米正雄と坪内逍遥だ。お知らせのところにはられたポスターには星の王子様と書かれている。
「俺の地上もどこかで読んでくれないか。俺が読めばいいか」
「きちんと許可を取らないといけないし、作品についてはアレンジを加えないといけないようだ」
「……アレンジか」
「長いのだと、うまく調整しないといけないようだ」
朗読にもコツがあるようだ。そうか、と清次郎は神妙な顔つきになっている。
「島田君。未明君がとても世話になっているね」
「来ました。浄化当番ですね。よろしくお願いします」
「弟分を世話するのは当然のことだ」
「小川君の方が兄だと言っていましたが」
逍遥の言葉に清次郎は胸を張る。茂吉は想うが清次郎も図書館になじんできた。初めてあったころよりもだ。たまに茂吉は寂しくなるが、
「斎藤君が頑張ってくれているから、島田君も馴染んできているのだろう」
「そうですかね」
「アンタはよく……気を使ってくれている。俺も使ってるぞ。たまに」
「使っていたんですね」
「……コイツ、言うときははっきりと言う奴だな」
逍遥がそんな茂吉に気が付いて声をかけてきた。清次郎も言ってくれている。久米の言葉に清次郎は引いていた。
「そういってもらえると嬉しいです」
ある意味で、寂しいということは、幸せなことであるのだろうとは感じた。
六月三十日。
今年も残り半分となってしまった。早い、島田清次郎は暑さで目を覚ます。そろそろ冷房をかけ寝ないときつい時期だ。
『おはようございます。皆さん。夢野久作です。本日は大祓ですが誰とは言いませんが某岩野さんがうちにも茅の輪置こうぜ!
待てよ七夕が近いなら竹林とか笹とかおいてテキトーにわっかにして置いておけば両得だなとか言ってきたので簀巻きにしつつ本日の知らせですが』
「七夕も確かに近いな……」
七月七日は七夕で帝国図書館は七月七日と八月七日に七夕を行う。これは旧暦の八月七日が今の七月七日になるからだし、
今も一部の地域ではそう祝われている。
今日は大祓である。
岩野泡鳴が簀巻きになっているのは慣れてしまっているし、毎度のことなので特に何も言わない。
『戻り梅雨もあるようなので皆さん体調の方を……』
崩しやすい時期だなとなりながらも清次郎は起きて、麦茶を飲み干した。斎藤茂吉が心配をしておいてくれたものである。
睡眠中に水分は失われてしまう。それで熱中症にもなってしまうのだ。水分と塩分の補給は大事だ。今年の梅雨はあっけなく終わってしまったが、
場合によっては戻ってくるらしい。気まぐれすぎる。
清次郎にしては早くに目覚めてしまったので、時間つぶしに散歩にでも行こうと想った。食堂はまだあいていない。
「おはよう。島田君」
「……おはよう……」
「散歩か?」
「ああ……中庭でも散歩しようかとなっている。外でもいいが、茅の輪でもくぐってこようかと」
斎藤茂吉と会う。茅の輪でもくぐってこようかというのは気まぐれだ。かつては、住んでいた場所では、近くに神社があった。
茂吉が懐をあさる。
「そうだ、これを。露伴先生が作った氷室饅頭だ。今年の試作品だそうだ」
「……ふっ、俺は氷室饅頭にはうるさ……美味いな」
ピンク色の酒まんじゅうがでてきた。これは氷室饅頭だ。幸田露伴が作ってくれたらしい。氷室饅頭は加賀、金沢の方をメインに
出ている饅頭だ。金沢では七月一日に氷室開きという昔の天然冷蔵庫の中に大きな氷を入れておいて、
この時期になったら出して江戸、東京まで運ぶという風習があり、それに関連付けてこの時に氷室饅頭を食べると無病息災になると
言われている。まんじゅうを食べながら清次郎と茂吉は外に出た。氷室饅頭は美味しい。
皮もいいが餡もほどよい。
「向日葵が咲いたな」
「外の向日葵畑、今年も俺が手伝ったのだぞ」
「偉い」
「もっと褒めろ」
中庭の一角に向日葵畑が出来ていた。清次郎は今年も外のご近所さんの向日葵畑を手伝った。清次郎が胸を張っている。
黄金色の向日葵が咲いていた。この向日葵は早咲きだ。
「今年も残り半分だな」
「ああ。早い」
月日の速さを話していると茂吉がふいに清次郎の方に視線を向けた。
「残り半分も、私と共にいてくれないか? 島田君」
唐突すぎて、驚いてしまったのだけれども。
氷室饅頭をのどに詰まらせかけながら、清次郎は飲みこんで、彼の目を見て、
「半分とは言わずにいられるだけいてやる」
「ならば一生」
「お前がそういうならいてやる」
朝の光。
咲き誇る向日葵。
突発的な問いは突発的に返される。答えはこれからも、二人で一緒にいると、言うこと。
半年とは言わずに、ずっと。ずっと。
「今日は恋人の日と聞いたのだがそうなのか?」
雨が降る外。
帝国図書館分館にて斎藤茂吉が真顔で『くま』に聞いてきた。
『Sant'Antonio di Padova……パドヴァとポルトガルとブラジルの守護聖人だが死んだ前日が記念日になっている』
「守護聖人……ですか」
カウンターテーブルの上で足をぶらつかせていた『くま』が怪訝そうな顔をしつつもいう。読書をしていた松岡譲が呟いた。
『失せ物、結婚、縁結び、花嫁、不妊症に悩む人々、愛、老人、動物の聖人だ』
「とてもてんこ盛りですね」
『ブラジルのサンパウロだと恋人通しが写真立てに写真を入れて交換し合う』
「ここは日本だな」
『日本のバレンタインみたいなものでフォトフレームを売ろうと言う日だ』
解説はしてくれていた。茂吉は考え込む。
「島田君に写真をくれと言ったらくれるだろうか」
『パシャ?』