非時香果(ときじくのかくのこのみ)/(6)【黑限】 朝食の後で、無限を老君の元へ連れてきた。迎えの諦聽は当然居ないが、小舟が独りでに小黒と無限を老君山まで運んでくれる。老君の閑居である老君閣の薄明とも薄暮ともつかぬ淡い青い光の中で、不思議と視界は奪われない。片や胡座のまま、片や宝貝でそれぞれ宙に浮く少年の姿の神々に、無限が緊張した面持ちで拱手した。背筋を伸ばしたままの折り目正しい礼から、跪いて額ずく。
「太上老君並びに哪吒太子に申し上げます。私(わたくし)は名を無限と申します。ご尊顔を拝する栄を賜りましてまことに恐悦の至り」
「いいよ無限、そんなの。大丈夫、この人たち気楽だから」
途中で遮り、無限の脇の下に手を入れて抱き上げた。
「お、なんだよ。せっかく気分良かったのに」
「だよね。動画撮っておけばよかったな」
「いいな、それ。じゃあもう一回最初っからやってもらうか」
「ちょっとさあ、マジ小っちゃい子相手に大人げなさすぎなんだけど、2人とも。つーか、哪吒はなんで居んの」
「なんでとはご挨拶だな。心配して来たんだろ」
戸惑う無限の視線を横顔に感じつつ、苛立ちをそのまま声に出す。老君が、悪びれる風もなく朗らかに笑った。
「はは、ごめんごめん。冗談だよ。初めまして、無限。話は聞いてるよ。小さいのに大変だね。不自由はない?」
「はい、小黒が親切にしてくれます」
「それなら良かった。ごめんね、私がなんとかしてあげられればいいんだけど、時間を超えるなんて危ないことだからね。小黒が捕まえた術者の傷が癒えるまで少し我慢してもらえるかな」
「はい」
「それで、代わりに黑咻を行かせるんだっけ?」
「うん。それでさ、紙と筆借りられる? 無限が手紙書くから」
「ここにあるからご自由にどうぞ。別にかまわないけど、自分の持ってるだろう?」
老君の手の一振りで、四宝の調った文机が部屋の真ん中に現れた。
「持ってるけど、置いてるのがマンションと師父の霊域なんだよね」
「ああ」
文机の前に胡座をかいた無限が墨を手に取り、躊躇いがちに老君を振り向く。
「この墨、使ってもいいのでしょうか。とても良い墨です」
「使っていいし、持って帰ってもいいよ。いくらもあるし、墨を磨って文字を書くのももう稀だ」
笑った老君が、スマートフォンを取り出して無限に示す。
「おっと」
その液晶がふわりと明るくなって、着信を告げた。
「諦聽だ」
呟いたのは、小黒に聞かせたのだろう。時差のある日本ではすでに昼に近い。日本の神々に目通りが叶って、無限を元に戻す方法を聞き出せたのだろうか。有能な執行人として精神を律する訓練は出来ているが、それでも胸がざわつく。場所を変えるかと思った老君は、そのまま通話ボタンを押した。
「ご苦労様、どうだった?」
何も知らない無限は老君の電話を気にする風もなく丁寧に墨を磨り、文机の横に座した小黒は無限の手元を見る振りで通話に耳をそばだてる。文机を挟んだ向かいへふわりと哪吒がやってきたのは、無言の気遣いだ。
「……うん。うん。……うん……。そうか、なるほどね。ここに小黒が居るんだ。代わるから話してやってくれるかな。小黒」
スマートフォンを差し出されたが、断る。
「潘靖館長を通せって言われてる」
「ああ。漏れがないように状況を把握したいんだろう。私から言っておくからいいよ」
「ありがと」
老君の許可があれば、否やはない。礼を言ってスマートフォンを受け取り、壁に沿って部屋を囲む巨大な書棚の隙間から、隣接の小部屋へ移った。いつになく生真面目な老君の声と表情が気にはなるが、いずれにせよ聞かないわけにもいかない。
「ふーん。チビなのに立派な字書くな」
「恐れ入ります」
「そんなしゃっちょこ張んなくたっていいぜ」
笑う哪吒と無限の会話を背中に聞きながら、スマートフォンを耳に当てて声を潜めた。
「諦聽?」
「小黒か。無限は相変わらずか?」
「うん。なにか分かった?」
「そうだな。分かったとも言い難いが、そのまま放っておいていいらしい」
「は?」
短く、突っ慳貪な声が出る。放っておけと、諦聽はそう言っただろうか。
「なんて?」
「無限は仙で、元々が不老長生だろ。そこに霊果を大量に食べたせいで今は一時的に副作用のようなものが起きているが、消化されきってしまえば元に戻るらしい」
「消化って、ほんとに? そんなんで 適当なこと言ってんじゃないの」
「不服なら、診ていただくか?」
「誰に?」
「こちらで医薬を司っておられる方に無限の画像をお見せしたら、興味を持たれたようだ。そっちまで行ってもいいと仰ってる」
「なに、興味って」
「見た目だろ。『これはこれは、目も眩むような』ってスマホに見入られて」
「あー、そうなんだ、わかった! いやいや、うちの食いしんぼな人のためにわざわざ来ていただくなんて畏れ多いし! しばらく様子見ね! 了解! 今ゆっくり話せないからまた! 老君に代わるっ」
遮って保留し、大股に部屋を横切って、老君へスマートフォンを差し出した。
「ありがと、分かった」
「それなら良かった」
にこにこと笑っている老君は諦聽からどこまで話を聞いているのか、あるいは千里眼か。
「私だよ。用は済んだのかな。新しい買い物を頼みたいんだ」
揶揄われているような釈然としない気分だが、はるばる日本まで出かけていったからには子供の使いでもないだろう。
『っていうか、消化っていつするんだよ……今は普通の人間の身体だから普通に消化するのかな。トイレも行ってるし』
仙である無限は食物の持つ気を取り入れるばかりで、体内に入る物質としての食材はそのまま全て取り込まれて、いわゆる消化はしない。
『……んだから、霊果の気が消えるまでって意味かな。ますますいつになるかわかんないじゃん』
それでも、元に戻らないわけではないと前向きに解釈すべきだろうか。
『師父を護るのだけ集中すればよくなったわけだし』
文を書き終えたのか筆を置いた無限の前へ、ゆっくりと歩み寄る。乾くのを待って広げられたままの料紙を、しゃがんで覗きこんだ。
「えっ」
薄墨で書き連ねられた、あまりに端正な楷書に瞠目する。
「立派な字書くよな。さすが」
「恐れ入ります」
哪吒の素直な称賛に、無限の目元が薄く色づいた。
「へえー、すごい。ちっちゃいのに字上手いんだ」
「お前はこの位の頃は字なんか書けなかったろ」
「まあね、師父の教育方針だったからね」
幼かった当時は読み書きを教えてくれない理由を考えたこともあったが、無限を疑いはせず、実際に師の想いと判断は正しかったと、そう思う。しかし、無限が小黒を振り仰いだ。
「小黒は八つで読み書きが出来なかったのか?」
「うん。俺のお師匠さまの教育方針」
「……そうか。きっと小黒のお師匠さまのお考えがあるのだろうが……八つで読み書きができないのは困っただろう」
「ああ、うん、まあ」
「ははっ」
深刻そうな表情の無限に濁した返事で苦笑するしかない隣で、哪吒が面白そうに大笑いする。
「なに笑ってるんだい? 私にも無限の字を見せてくれないか」
諦聽との通話を終えた老君がふわふわと漂ってきて、無限の文を覗きこんだ。
「なるほど、これは見事だ」
「恐れ入ります」
「将来が楽しみだね」
「父母のように、なれたらと」
含羞んで答えながら、小さい手で丁寧に文を折り畳んでいく。尾を振って呼び出した黑咻が、小黒の頭の上へ着地した。
「ショッ」
「黑咻、おつかい。無限のお父さんとお母さんに手紙持っていって」
「ハイン!」
嬉しげに答えた黑咻が文机へ飛び降り、無限の結んだ文をしっかりと咥えた。指先で黑咻の頭を撫でながら、無限が小黒へ、問う眼差しを向ける。
「でも、どうやって?」
「私が説明しようか。これは藍玉盤といって、一度行ったことのある場所ならどこへでも行ける宝貝なんだ。黑咻は小黒の分身だからね。小黒の行った場所なら黑咻も行ける。君を巻き込んでしまった時点へ跳ばせばいい」
瑠璃に似た石で造られた、掌ほどの薄い円盤を老君が取り出す。心得た様子で、黑咻が飛び乗った。誂えたように収まりのいい大きさだ。
「これに、乗っていくのですか」
「うん。小さくて軽いから、この子なら問題ない」
当然ながら本当に450年前に送るわけではなく、行き先は龍游の館の館長執務室だ。昨夜のうちに、潘靖に連絡を取って頼んでおいた。
「こんな小さいのに一人で大丈夫なのか? 宝貝だって持ち歩けないし、隠しておいても誰かに盗られてしまうかも」
眉を顰めて見上げてくる無限に、笑顔を返した。
「優しいね、無限。大丈夫だよ。黑咻、変化」
「ハイン」
楽しげに笑う黑咻の身体が、小黒の言葉に応えてむくむくと膨らんでいく。
「え」
「ね? ほら」
「ショ!」
幼い小黒の姿へ変じた黑咻が嬉しげに笑い、無限の膝へ懐いた。
「無限の時代に着いたらこの姿に変化するから」
「黑咻……小黒?」
黑咻の頭を撫でながら、無限が小黒を降り仰ぐ。
「この子、小さい時の小黒?」
「うん、わかる?」
「耳と尻尾が……それに……」
口を噤んでしばし見つめ、にこにこと見上げている黑咻を無限がそのまま抱きしめた。
「ショ」
「やっぱり駄目だ、行かなくていい」
「えっ、なんで」
「もし帰ってこられなくなったら可哀想だ。大丈夫だ、母さまも父さまも乳母やも、私は強いって知ってるから。帰るまできっと待っててくださる」
庇うように黑咻を抱えこんだ無限の眼差しは青みを増して、どこまでも真摯だ。
『やっぱ師父だな』
この優しさが嬉しく懐かしく、胸が引き絞られる。
「大丈夫だよ、無限。私が保証する。黑咻はちゃんとここへ戻すよ」
取りなしたのは、老君だ。
「でも」
「帰ってくると信じていても、我が子がどこへ消えたかわからないなんて君の父上と母上は夜も眠れない。安心させてあげよう」
「……小さな子を危険にさらせば、父母に叱られます」
「見た目は小さいけど、黑咻は分身だから歳は小黒と一緒だよ。幾つだっけ、小黒?」
「25だけど、無限の数え方だと27かな」
「ほらね? 黑咻は君より20才も年上だ」
「それは」
「シ、ショ!」
『あっ、バカ』
師匠との呼びかけに一瞬慌てたが、無限にはわかるまい。黑咻が飛びすさって無限から離れ、腰を落として構えたと見るや、前方へ向かって鋭く拳を突き出した。
「ヘイ! ショ、ショッ!」
気合いをかけて手刀で空を裂き、振り向きざまの肘打ち、見事なバランスを保っての連続の蹴りから大きく身を翻しての回し蹴り、そして猫の身ごなしでしなやかに着地する。ころころと幼児らしい見かけからは想像もできない、技の速さと鋭さとしなやかさだ。
「ショ!」
最初の構えに戻って演武を終えると、無限へ向かって爛漫と笑った。
「はは」
黑咻を抱き上げ、言葉もない様子の無限の元へ連れていく。
「ね? 強いから大丈夫だってさ。転送できるのも知ってるだろ。ちっちゃい見かけしてる俺って思ってくれればいいから」
「……」
無限が親身に黑咻を案じてくれるほどに後ろめたさが増すが、小黒も無限の憂いを一つでも払ってやりたい。
「わかった。見くびってすまなかった、黑咻。私の文を届けてくれるか?」
「ヘイシュ!」
帯の間から取り出した無限の文を、嬉しげにかざす。
「うん、それ。ありがとう、よろしく頼む」
「ハイン」
小黒の掌の上で元の姿に戻った黑咻に、無限が拱手して一礼をした。
「さ、じゃあいいかな。小黒」
「うん」
小黒が老君から受け取った藍玉盤に、黑咻が跳び乗る。
「じゃあまた、後でな」
「ン!」
無限の文を咥えた黑咻が咽喉を鳴らして答えると同時に、その姿が藍玉盤ごと消えた。
「あ」
無限が小さく声を出して一歩踏み出し、顎の長さの髪の先が揺れる。
「よし。じゃあ用は済んだし、帰ろっか」
「黑咻は? 待たないのか?」
「うん。時間かかるだろうし、ちゃんと俺のとこに帰ってくるから」
「そう急がずとも一服していったらどうだい。お茶くらい出すよ」
ふわふわと漂ってきた老君へ笑顔を返しながら、無限を抱き上げた。
「長居すると、おじいちゃんたちが無限で暇つぶし始めそうだからな。でもまた来るかも」
「小黒、あれも」
「ん?」
無限が、文机に積まれた書籍の束を指す。
「老君大人にいただいた」
「本?」
「足りないものはないか訊いたら、四書五経が欲しいって言うからね。暇潰しに私が写したやつ」
「ありがとうございます、大切にします」
「どういたしまして」
渡した書籍を大切に抱きしめ、礼を言う無限の含羞んだ微笑と赤い頬に胸がざわつく。
『いやいや、なにジェラってんの俺。ちっちゃすぎ』
我ながら、無限への執着と独占欲の強さが羞ずかしい。
「良かったね、無限。じゃあ、お二方ともありがとうございました」
無限を抱いたままで、器用に拱手する。
「ありがとうございました」
真似るように、小黒に抱かれている無限が続けて拱手した。
「はは」
老君と哪吒が同時に笑った懐かしげな眼差しは、幼い頃の小黒と無限を思い出したのだろう。
老君閣を辞し、龍游へと戻る。
本物は無限の霊域に在って取り出せないが、よく似た赤い電動のスクーターを買った。のんびりと低速で進む後ろで、無限が左右を見回している。逸風の薬が効いているのか眠る気配はないが、念のためにコートの下で無限の腰に尻尾を巻き付け、万一の際は安全に転送させるよう黑咻たちにも言い含めてある。
「面白い?」
「うん。田や畑の周りまで、道が石造りなのだな。すごい」
「そうだね。舗装してないと車輪の乗り物が走りにくいから」
いつか月を見上げながら無限と走った道に似た、田と畑の連なる風景だ。今日も穏やかな秋晴れの空に、無数の红蜻蜓が群れ飛んでいる。
「でも鶏も山羊もいない。牛も」
「動物は別の場所で飼ってるんだよ。もっと田舎だと違うけど。行ってみる?」
「そこなら小黒に抱っこされなくていいのか?」
「俺の抱っこ、そんなにヤなの」
「私は自分の足で歩けるし、そんなに抱かれてばかりいたら足が萎える」
「まだ1日じゃん。でもそう言うと思ったから、今日は山行こうと思ってさ。あそこなら、まあ」
「山はいいな。好きだ」
「そうなんだ?」
「うん。鹿や猪を獲って帰るとみなが喜んでくれるし、鍛練にもなる」
「は? 鹿? 猪? 兔じゃなくて?」
「兔を獲ることもあるが、鹿か猪が多いな」
「マジ? えっ、ひとりで?」
「鹿は一人で獲るけど、猪は乳母やにも手伝ってもらう。早く一人で獲れるようになりたい」
「なにそれ、ワイルド~」
見た目と中身のギャップはこの頃からかと声をたてて笑ってしまったが、妖精ならともかく、人の子としてはやはり尋常ではない。
龍游市が公園として管理している里山の手前の駐車場にスクーターを停め、なだらかに続く山道を無限と登りはじめた。長袖のTシャツに薄手のモッズコートを羽織り、足下はジーンズにスニーカー、片や無限も厚手のフーディにステンカラーのコート、タータンチェックのウールのボトムに革のアンクルブーツと、低山とはいえ遭難しに行くつもりかと叱られそうな軽装だ。左右に迫る鬱蒼とした木立の色は街中の街路樹や公園のそれより深く、さして登らずとも空気はひんやりと冷たい。冬支度も早いのか、落葉は驟雨に似て止めどない。
「きれいだな。葉が落ちる音、好きだ」
「わかる。鈴が鳴ってるみたいだもんね」
「うん」
小黒の無限ともいつか交わした言葉に、無自覚のほろ苦い笑みが浮かぶ。
「どっちだ?」
「左かな。右に行くと真っ直ぐ頂上で、左は沢沿いに滝に出る」
20分ほども登って出会った分岐で、左を示した。錦繍の葉叢から琥珀色の陽光が注ぐ下を、瀬音を聴きながら歩を進めていく。髪の間から出てきたふたりの黑咻も、無限の頭の上に鎮座して、周囲を見回しながら楽しげだ。
「好きな方に行っていいよ。慣れてるんだろ、山歩き」
「うん」
それなりに遠慮していたのか、頷くと同時に道を逸れて、沢へ続く20メートルほどもある斜面へ入りこんだ。笹の藪には獣道すらないが、一抱えほどもある手近の木に取りついたと見るや、コートに革のブーツのままでするすると登っていく。
「おお、お猿」
見上げるうちに樹冠近くへ辿り着き、子供の体重も支えられそうにない細い枝にしゃがんで、勢いをつけるでもなくふわりと隣の木へ飛び移った。
「なる」
思わず笑みをこぼし、念のために人影がないのを確認してから猫の姿へ戻る。無限が最初に取りついた木を駆け上がり、樹冠を移動していく小さな背中を追った。木から木へ軽やかに移動する華奢な姿は、ともすれば艶やかな彩りに呑まれてしまいそうで、目が離せない。
木立の向こうが明るくなるにつれて、流れの音が次第に音量を増す。飛沫(しぶき)を上げて変幻自在に在り方を変える、澄んだ流れのほとりがゴールだ。その身の丈よりも大きな岩に着地した無限の肩へ、小黒もまた最後の一枝を蹴ってふわりと降りた。息を切らすでもない無限の白い頬に、水面に乱反射する秋の光が眩く映る。
「もう軽功使えるんだ? すごいね、無限」
「まだあまり長くも遠くも跳べないが、このくらいなら」
いずれ仙になって思うままに飛翔できると、そう言ったらどんな顔をするのだろう。猫の姿のままで足元へ座って、無限を見上げた。なにかを探すように首を巡らせ、無限が小黒に聞かせるでもなく独りごちる。
「ここは山なのに、精霊が居ないんだな」
「森がどんどん少なくなってるし、川も形を変えてるし、地面はどこもかしこも舗装されてるし、自然に人の手がたくさん入って霊力が弱くなってるんだよ。俺も無限の頃に行った時は街中でも霊力が強くて驚いた」
「……そうなのか。街でも洛竹たちの他は妖精も見かけなかった」
「全然居ないわけじゃないけどね。今は、人間(じんかん)では妖精ってことは隠して暮さないといけない決まりになってるし、もしすれ違っても無限はわからないよ」
それを教えてくれたのは、他の誰でもない目の前の無限だ。しかし、陽光の粒と碧とが入り交じる貴石の眸が、物言いたげに小黒を見つめてくる。
「小黒は嫌じゃないのか、隠すの」
「どうかな、俺は最初からこうだし人間の友だちもたくさん居るし、嫌とか嫌じゃないとかは考えたことないかな」
なにより、この世界にたった一人の大切な人が人間だ。
「ショ!」
会話の切れ目を待っていたようなタイミングで、無限の頭の上へ黑咻が顕れた。藍玉盤で遣いに出した一体だ。人型に戻って、黑咻の耳と耳の間を撫でる。
「おかえり。おつかれ」
「黑咻?」
「ヘイショ」
無限の頭から飛び降りながら、黑咻が幼い姿の小黒に変化した。にこにこと無限を見上げて、折りたたまれた文を懐から取り出す。
「私に?」
「ハイン」
「ありがとう」
受け取って文を開いた無限の巴旦杏の形の大きな目が、なお大きく見開かれる。
「父さまのお筆跡(て)だ」
「えっ、無限のお父さんの字?」
「うん」
無限が忙しなく視線を上下させて文字を追うが、黑咻を行かせた先は龍游の館だ。筆跡を真似られる者が居るにせよ、無限自身ならともかく無限の父親の書では手本がない。この世の大抵の無理はどうにかしてしまう妖精の会館とはいえ、どうやったのだろうか。
「なんだって?」
困惑を隠して、無言のままの無限に尋ねた。
「未来(のちのよ)に居るのはわかったって。帰ってくるのを待ってると」
「それだけ?」
「……昨日は皆ですごく探したって。心配だけど、私が強いと知ってるから、帰りを待ってるって」
「そっか」
文に視線を落とす振りで髪の影に隠した無限の目が、真っ赤に潤んでいる。こんな時、無限はどうしてくれただろう。
「無限」
穏やかに呼びかけ、ふわりと抱き上げる。小黒の片手で掴めてしまえるほどの頭に手を添え、肩口へ顔を埋めさせた。
散々に山を駆け回り、街に戻ってたっぷりと昼食を取る。食事の途中から欠伸をしていた無限はホテルへ戻る途中で眠ってしまったが、状況的にも単純に疲れたのだろう。
『やっぱ子供』
整った容姿や聡明で落ち着いたその態度、山で見せたしなやかで鋭い身ごなしは「子供」の括りからはほど遠いが、大人を信頼して眠る姿も寝顔もあどけない。
『そっか、信用されてんじゃん俺』
その事実を噛みしめながら、ホテルへ戻って無限をベッドへ寝かせる。起さないように気遣いつつコートとブーツを脱がせ、自分が無限にこうしてもらっていた日々が懐かしい。
「よく遊んだもんな」
呟いて絹の手触りの髪を撫で、昨日よりも血色良く見える頬に指先で触れた。無限の髪の中から出てきた小さな黑咻たちが枕元に陣取るのを確かめてから、リビングへ戻る。コートも脱がずにソファへどかりと座り、スマートフォンを取り出した。呼び出した番号は潘靖だ。2回のコールで訊き馴染んだ声が出る。
「俺です、小黒。今って大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「今日は頼み聞いてくれてありがと。お父さんの字だって、師父が手紙大事に持ってる。あれ、どうやったの?」
「うん? 無限さまの父君のお筆跡(て)か?」
「うん」
「首都の博物院でちょうど展示されててな。書を能くする者に真似させた」
「博物院?」
「能筆家でおられたからな。無限さまの父君の書が博物館や美術館に残ってる。公的な書類や私的な手紙や、作品として書かれたものや」
「へ? うそ、師父に博物館とか美術館とかよく連れてかれたけど知んないよ。見たことない」
「遺っている数が少ないし、常設展示しているところはないからな。タイミングが合わなかったんだろう。無限さまの書もどこかにあるぞ」
「は??? えっ、なにそれ 知んないって、見てない!!!」
「無限さまのお筆跡ならいつも見てるだろうに」
「そーゆー問題じゃない」
潘靖は笑うが、無限の書が人の世の宝の一つとして恭しく飾られているところを見てみたいのは当然だろう。
「無限さまの様子は如何だ」
「今は寝てるけど元気だよ。あ、寝てんのは遊び疲れたせい。逸風の薬は効いてる」
「そうか、それなら良かった」
「うん。諦聽から報告いった?」
「ああ、聞いてる。任務は心配しなくていいから、無限さまが元に戻れるまでのんびりしていてくれ」
「ん」
無限が子供の姿に戻ってから、まだわずかに1日半だ。無限や妖精たちの永い生の中では瞬きの間ですらなく、異国の古き神も「戻る」と断じたのなら、今は待つより他に術もない。
「じゃあ、また連絡します」
「無限さまをよろしくな」
「言われなくっても。じゃあ」
通話を切って深くソファにもたれかかり、スマートフォンを投げ出した。
自身の生が未だ浅いためか、人の間で人の時間で育ったためか、皆のように鷹揚に構えてはいられない。
「はあ~」
ため息を吐いて、投げたスマートフォンをもう一度手に取った。ホーム画面は、頬を寄せて笑う無限と小黒のセルフィーだ。
「師父……」
目の前に居ながら、届かぬことがもどかしい。
ソファからゆっくりと立ち上がって、再び寝室を覗く。胸の上と頭の上で真面目に無限を見ている黑咻たちが小黒に気づいて、小さな耳を動かした。
「しー」
口の前に指を立て、足音を立てずにベッドサイドまで行く。
猫の姿に戻り、無限の顔の横で丸くなった。