花籠小指の爪に、青い小鳥が一羽。
一人の貴婦人と同じくらいの背丈の少年……青年とも言える風貌の男が仲睦まじくカフェ通りを歩いている。
羽飾りの着いた大きな帽子をかぶっているせいで、貴婦人の顏はよく見えないがその足運びは気品溢れるもので身分は想像するに容易い。
ワルツのように軽やかな足取りで街を歩く彼女の姿は紳士たちの目を引き、彼女の纏うドレスはお喋りに花を咲かせる淑女たちの注目を集めた。
長く伸びたラベンダー色の裾には豪奢な刺繍が施され、その下に覗くペチコートは大胆でリズミカルで、けれども繊細にカットされている。
白銀のパンプスは控えめなヒールがついていて、彼女が一歩足を踏み出す度にこつこつと石畳の良い音が響く。
一方青年の方はぎこちなくエスコートをしているようで、まだ華奢な感じのする肩は怒り足はもつれる寸前といった風だった。
そんな微笑ましい様子が目に付いたのか、二人組の男が近寄ってくる。
「ご機嫌麗しゅう、レディ」
「僕は貴方に見蕩れてしまいました、まるで女神様のような方だ」
突然話しかけられた女性は少し驚いたようで、足を止める。
隣にいた青年もそれに倣い、口ひげの男とあごひげの男を見やる。
「どうか、貴方様のお名前を僕に教えてはくれませんか」
「向こうに良いカフェがあるのです、世話役の君も一緒に」
「あら、御機嫌よう……。えぇ、丁度喉が乾いていたところですわ……行ってみようか、クロエ」
貴婦人は絹の手袋に包まれた左手を口元に当てると高貴ささえ感じる笑みを浮かべ、隣にいた青年に尋ねる。
ところが、青年は難色を浮かべると二人組の髭紳士を少し観察したあとに小声で耳打ちした。
「あんたはまたそうやって……ほら、断らないと着いてきちゃうよ」
代わる代わるに話しかける二人の男──紳士的なナリをしているが、下心が見え隠れする彼らは滑稽に見えた。
貴婦人は依然として微笑んでいるが、青年はその下心に気付いたようでそれとなく彼らの間に割って入った。
「あら?」
「ラス……じゃなかった、ラウレッタ。お茶なら向こうの木の影で飲もう?」
「では僕達も一緒に」
勝手にエスコートをしようとしたのか、あごひげの男が恭しく右手を差し出し口ひげの男が肩に手を回そうとする。
尚も食い下がろうとする髭紳士を半ば無理やりラスティカ改めラウレッタから引き剥がして、クロエはどうにか穏便に断る方法を必死で考えた。
確か、先日見た演劇の一場面にこんなセリフがあったはず。
精一杯大人びた表情を作り、焦っているのを悟られないよう落ち着いた声を意識してうろ覚えのセリフを捻り出す。
「か、彼女に気安く触れてもらっては困るな……俺の、あ、愛人なんだから」
突如発せられた愛人という言葉に周りの人々は興味津々といった視線を向け、頬が燃えるように熱くなる。
あれ、もしかして結構恥ずかしいこと言ったかも?
いきなり愛人と呼ばれたラスティカはというと、何故か楽しそうに笑うと二人組の男にごめん遊ばせ、とだけ伝えクロエの腕へ抱きついた。
「ふふ、愛人だって。こっそりと隠れて愛を囁き合う関係なんて、情熱的だな」
「ま、待って。今のは言葉のあやで……!あ、違うよ、ラウレッタのことは大切で目が離せない人だけど……!あれ……!?」
民衆が手を叩く音や口笛を吹く音、その他歓声や冷やかしに囲まれクロエは茹で蛸のように真っ赤になった。
振られた髭紳士達までもが楽しそうに笑い、カフェ通りは混沌とした熱狂に包まれてしまった。
ただ一人、クロエだけは混乱したまま──。
遡ること数日前、二人は中央の国との国境沿いにある未開発の田舎町に逗留していた。
逗留と言っても宿を取っている訳ではなく、いつも通りに住人を小鳥にしてしまったため野宿である。
町の中に一つだけある小料理屋で遅い朝食を取った後に、小さな花畑と木陰を見つけたものだから敷物を引いてモーニングティーを飲んでいた時のこと。
小料理屋にいた子供から教わった通りに、クロエはせっせと花をつんでそれを冠にしていた。
「できたよ、ラスティカ!」
「素晴らしい!クロエは器用で、それに花選びのセンスも良い。きっと世界一冠を作るのが上手いよ」
「えへへ……はい、じっとしてて。つけてあげる」
「そうだ……少し見ててくれるかい?……アモレスト・ヴィエッセ」
「わっ……!」
鳥かごを翳したかと思うと、次の瞬間には淡い桃色の花びらと真っ白な鳥の羽がぱっと散って微笑む貴公子へと降りかかる。
すると、今朝クロエが寝癖を直した亜麻色の髪は腰ほどまでふんわりと伸び、上等な服の良く似合う上背がコットンキャンディのような丸みを持つ。
チェンバロを弾く大きな手は骨や筋が目立たない、ふっくらとしたものへと変わる。
先程までティーカップに添えられていた唇はさくらんぼのように色付き、頬なんかはシフォンケーキのように柔らかそうだ。
見紛うことなき貴婦人──いや、魔女の姿がそこにあった。
「ラ、ラスティカ!?」
「どうかな、クロエ」
「もとがラスティカだから綺麗だよ……ってそうじゃなくて!どうして魔女になってるの!?」
「どうしてかな?花冠を見ていたら、優しい気持ちになってきたからかな?」
その白く柔らかい手をクロエの手に重ね、そのまま胸元へ持っていこうとするので彼は思わず振り払ってしまった。
「は、早く戻って……!ラスティカってわかってても落ち着かないよ……!」
「あ……ごめんねクロエ、きみは女性が苦手なんだ。すぐに戻ろう」
以前、出会ったばかりの頃にクロエは自分がいた家の話をすることがあった。
中には幼いクロエを罵る姉の話もあり、その影響で今でも女性は苦手だという。
だからラスティカはクロエと旅を始めて以降、バーやカジノといった夜の社交場は寄けるようになった。
その代わりに、新しいカフェやレストランを探す楽しみが増え素敵な店をいくつも見つけた。
「ううん、それは大丈夫……まだ女の人は苦手だけど、ラスティカは俺に酷いことしないだろ?でも、こんなに綺麗な人と話したことないから、うう……緊張するな……」
「ふふ、クロエはかわいらしいね。それなら、僕はしばらくこのままでいよう」
「え、ええ?」
依然としてクロエの手を取ったまま、にこにこと微笑むラスティカは本当に生まれついての貴婦人のようで、とても自然に紅茶を飲んだあとのティーカップをそっと指で拭う。
心做しか話し声もいつもより穏やかで、白と青で飾られた花の冠を着けたその姿は妖精か何かように見える。
「もっと花を増やした方がいいかな……?そしたら髪も纏めて……あ、お団子にしたらかわいいかも……?」
焼き菓子の欠片を目当てに寄ってきた小鳥を撫でるラスティカを見て、クロエはぽつぽつと呟く。
すらりとした背格好を引き立てるのはシルク?それともリネン?髪飾りはリボン?それともシックなレース?
新しい玩具を見つけた時の子犬のようにきらきらとして真っ直ぐな瞳がくるくると動き、彼の頭の中では色とりどりの布とボタンが目まぐるしく組み立てられていく。
「クロエ?」
ラスティカに声をかけられてはっとする。
小鳥と戯れるラスティカは、元の姿と同じ服装なのにとても絵になった。
それもクロエが仕立てたもので、少し裏地に縫製ミスがあるのにも関わらずラスティカは着てくれていた。
「あ……綺麗な人を近くで見たことないから、ついどんな服が似合うかな、とかどんな髪型が似合うのかな、とか考えちゃってさ」
「それなら、この姿の僕の服を作るのはどうだろう?きっと素敵なものになるよ。それに、いつもと違うことができそうだ」
「いつもと違うこと……?」
顎に手を当てて、しばしの間逡巡した彼は一歩下がると彼女の姿を足先からまじまじと見て、やがて顔に行き着くと何か思いついたように手を叩いた。
女性の形をとったラスティカとクロエは背の高さが同じくらいで、普段は少し見上げる碧眼を今日は真っ直ぐに覗ける。
「あ、メイク?やっていいの?」
「もちろん。クロエのやりたいようにやってごらん」
「わぁ……!実はやってみたかったんだ、でも支度が大変かなって……でも、こんな美人さんならみんなが驚いちゃうくらい綺麗になるかも!」
ラスティカはもう少し別の想像もしていたが、クロエがあまりにも無邪気にはしゃぐものだからその考えは消え失せた。
大人の遊びはまだ早い、特に彼はシャイな一面があるからもう百年くらいはこのままで良いのかもしれない。
デザインノートを取り出し、気の向くままそこにペンを滑らせる彼は水を得た魚のように生き生きとしているから見ているこちらも心地が良くなる。
がりがり、がりがりと何かを必死に書きつける青年の姿は勉強に励む学生みたいで、世界のことは忘れてしまったようだ。
今、クロエの頭の中にはラスティカとラスティカを彩る服のことしかない。
実際に彼が今まで作った服の多くはラスティカの為のものだった。
もっと自分の服を作ったら、と進めたことは何度かあったがその度にはぐらかされてしまう。
ラスティカに貰った今の服が大事だから、とも言っていたけど他にも理由があるのだろう。
花の甘い香りを乗せた風がひとつ吹いて、小鳥のさえずりが聞こえる。
その度に木漏れ日が揺らめいて、ラスティカの亜麻色をした美しい髪がシャンパンのように淑やかに輝く。
隣にはクロエがいて、かりかりとペンを運ぶ規則的な音が子守唄のように心地よい。
その内に彼女はその身を横たえ、すっかり眠ってしまった。
「……あれ?ラスティカ、寝ちゃったの?」
クロエは少し驚いて、ラスティカに尋ねてみたけれど当然返事はなく穏やかな寝息が返ってくるばかり。
魔道具の鳥籠を抱いて寝る彼女の姿は、きっと高名な画家が並んでモデルにしたがるくらい
優雅に見えた。
「このままだと寒くないかな?今は女の人だし、風邪引いたら大変かも。よし……スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク!」
大きな布が突然現れて風に舞い広がったかと思うと、くるくるともみくちゃにされて広がりさらりとしていた表面は暖かそうな毛へと姿を変える。
そしてそのまま、眠りこけるラスティカの上へふわりと落ちるとブランケットになった。
「やった、上手くいったみたい!このまま服も作れるといいな」
ひとしきりブランケットを眺めた後に、クロエは再びペンを持つとデザインを膨らませる。
お出かけ用のワンピースに、寝る時用のネグリジェに、音楽家としてお呼ばれした時用のドレスと……それに合わせた帽子やヘアアレンジ、メイクまで。
次々に浮かぶアイデアを纏めていくのが楽しくて、時が経つのも忘れてしまう。
ラスティカが目覚めた頃にはアフタヌーンティーの時間になっていて、昼食を食べ損ねた二人はまた小料理へと戻るのだった。
それから、小川沿いの洋裁店へ立ち寄っていくつかの布とリボン、更にレースや飾りボタンまで買い込んだクロエは包みを幾つか浮かせてすいすいと箒で飛ぶ。
「見て、ラスティカ。夕日が綺麗だね」
「あぁ、今日も楽しく過ごせね……。踊ってしまいたい気分だ」
「ここではやめてね!?落っこちるよ」
「僕が落ちたら、クロエは受け止めてくれる?」
「ええ?うーん、がんばるけどあんたの方が背も高いし……でも、ラスティカが痛い思いをするのは嫌だな」
「それなら気を付けて飛ぶことにしよう」
裾が短くて動きやすいドレスも作った方がいいのかな?なんて考えながらふわりと地面へ降り立つ。
夕焼けに照らされた花畑が真っ赤に染まり、それを受けるとラスティカの髪もクロエの髪と似た色に見える。
夜の気配を纏った冷たい風が足元を通り抜け
て、草がさわさわと音を立てた。
相変わらず宿は無いけれど、空気の澄んだ田舎町だから星がより一層鮮明に輝いて見える。
「今日はここで泊まろうか」
アモレスト・ヴィエッセ。
彼がそう唱えると霧のような白いもやがもやもやと集まり、やがて草原にひとつの天幕が現れる。
二人は慣れた調子で入口の垂れ幕を捲り中へ入ると、中央に備え付けられた大きなベッドに飛び乗った。
普段ならもう少し落ち着き払って、ナイトティーを飲んでから眠りにつくのだけど今日は少し違った。
天幕の中で、二人きりのファッションショーが始まるのだから!
「俺、服のデザインたくさん考えたんだ!その身体だと今までの服は大きすぎるだろ?まずはネグリジェから!」
魔道具の裁縫箱を開けると、ぎらぎらした裁ち鋏にパステルカラーの刺繍糸、宝石みたいに並べられた沢山のまち針、それから大切に集めた細工ボタンがわっと溢れ出て大きな円を描く。
デザインノートを広げ、その内のひとつを指さしたクロエはきりっとした面持ちで呪文を唱える。
お師匠様は微笑ましく、けれども楽しみに見守っていた。
「スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク!」
洋裁店で買っていた白いシルクがラスティカの身体にふんわりと巻き付き、さらに赤い花が螺旋状に並んで柔らかな胸元やきゅっと括れた腰、そしてすらりと伸びた脚にはらはらと落ちる。
すると花びらが落ちた部分から真雪の布地に淡いコーラルピンクが滲むように広がり、大きく開いた肩から緩やかなカーブを描いて広がる裾まで美しいグラデーションを作る。
ラスティカのすらりとしているけれどどこか肉感的な身体を包むネグリジェはミルクのように滑らかな肌触りで、胸元は脱ぎ着がしやすいように大きく開いていた。
さらに、揺蕩う髪は横に流して一つに纏められ揃いの髪飾りまで着いていた。
彼女は少し呆けた顔で自分の服の裾や袖をひらひらと振ったあとに、顔を綻ばせてクロエを抱きしめる。
「わっ」
「クロエ、よく頑張ったね。とても上手だよ。クロエの魔法はいつも楽しくて、綺麗で、見蕩れてしまった」
「俺、上手くできてた……?」
「うん。こんなに素敵な服を作れる人は、世界でたった一人だけだ。僕の大好きなクロエ、ありがとう」
「えへへ、俺の方こそありがとう。ラスティカは褒めるのが上手だから嬉しいな」
ぎゅうぎゅうに抱きしめて頭を撫でたあと、ラスティカはまじまじとネグリジェを見た。
大きく開いた袖と胸元、それから横で束ねられた髪。
ボタンの少ないデザインと、伸縮性のある生地。
「あぁ、これなら髪が絡まないな。それに寝癖も付きにくくなるかな?」
「長いと大変かなって思って、引っかかりそうなボタンは減らしてみたんだ。それから、髪も纏めやすいように…………」
デザインノートとラスティカを首っ引きにしながらあれこれ説明をするクロエの姿は、出会ったばかりの頃と同じ未来ある少年のようだった。
夢に向かって少しづつ歩く、駆け出しの魔法使いの姿。
ラスティカにはそれが眩しい。
「他にも沢山考えてあるんだ……!演奏会用のドレスに、お出かけ用のコートも!明日はどれを着てもらおうかな……あ、ラスティカ、もう眠い?」
「昼に沢山寝たから、僕は万全だよ」
そうして二人だけのファッションショーは夜が更けるまで続き、天幕の中には色とりどりの服が次々浮かぶ。
結局明日着る服は決められず、明日の自分達に聞いてみようということでそのまま眠りについた。
小料理屋の店主はぽかんとしていた。
午前、見知らぬ貴婦人が昨日の青年と来店して昼過ぎにモーニングメニューを注文。
その後、持ち帰りたいというからサンドウィッチを包んでいたら「あら、なんて綺麗な包装紙なのかしら。それに、クッキーまでつけて下さるなんて。……御機嫌よう、見つけましたわ。私の花婿様!」と言われ鳥籠に閉じ込められる。
開放されたと思ったら青年に謝り倒され、貴婦人からは多すぎる銀貨とウィンクを貰った。
もう魔女に化かされたのか狐に化かされたのかもわからないが、美人だからいいか、と思考放棄したのがたった今。
昨日赤い髪の青年は紳士といたような気がするし、さっきの貴婦人はその紳士に似ていたような気もする。
どっちしろ不思議の類であることは変わらないし、美人から目配せされたことも変わらないからどうでもいいのだ。
「ラス……ラウレッタ、鳥籠重くない?俺が持とうか?」
「まぁ、お優しいのね……貴方様のお手を煩わせるほどではないのよ」
そんな会話をしながらからんころんとドアベルを鳴らして、妙な夫婦(?)はやっと退店した。
この長閑さだけが取り柄の片田舎では到底手に入らない、洒落たティアードドレスの裾を揺らしながら──。
幾つかの風車が建ち並び透明な風がさらさらと流れる小高い丘の上からは、家々の赤い洋瓦がまばらに見えて新緑の草花とのコントラストが際立つ。
小麦を挽くための風車が初春の風に吹かれてからからと回る度に、小さな茅葺きの小屋からは何か重いものを引きずる低い音とほのかな麦の香りがした。
かわいらしい白い花と艶やかな丸い葉をたくさんつけた、一本の大きな木が静かに佇むその下で嫋やかな淑女と初々しく張り切った青年。
「じゃあラスティカは手を出して。動くとはみ出ちゃうから、じっとしてて!あっ、寝ちゃダメだよ、俺がネイル塗るところちゃんと見ててね」
「ふふ、今日のクロエはおねだりが上手だ。それなら、クロエを褒める言葉を探していようかな?それとも、ネグリジェがふわふわだった曲がいいかな」
「うう……面と向かってそう言われると擽ったいな……。歌がいい、ラスティカの歌を聴いてたら上手くできる気がするんだ」
とうめいな木漏れ日の中に置かれた小さなネイル瓶は、咲いたばかりで朝露がついた薔薇色をしていた。
銀のチャームを揺らして蓋をきゅっと開けると、小さな刷毛にジャムのような甘い香りのする液体がべっとり着いている。
「先に右手から塗っていくね。なんだか緊張するな……」
ネグリジェがふわふわだったから羊の夢を見た歌や、クロエの寝癖が双葉みたいだった歌、それからぱりぱりのグリーンフラワーの歌。
少し丸みを帯びた白い手の桜貝のような爪に、小鳥を撫でるよりも優しく刷毛を滑らせる。
元々骨ばった肩がさらなる直角を描き、熱の篭った瞳がラスティカの爪とネイルの小瓶だけを捉えて離さない。
広い世界を鮮やかに写すクロエの瞳が、今はラスティカだけを見詰めている。
綺麗に結われた髪とアンティークドールのようなメイク、それから瀟洒なドレスは全てクロエが選び、飾り、作り上げたもの。
その最後の仕上げ、ということなのか猫の額よりも小さな爪をひとつひとつ真剣に塗る姿は無垢で、真っ直ぐだった。
左手の小指の隅をさっと塗り、むむむ…………と少し唸ったあと、何かを思いついたかのようにぱっと顔を明るくした彼は裁縫箱を取り出した。
そして、ラスティカの右手を取ると茶目っ気のある笑顔を浮かべる。
「ねえ!俺、新しい魔法思いついたかも!見ててね……いくよ!」
「おや」
それはまるで新しい悪戯を思いついた時の子供のような、花が咲いているのを見つけた蜜蜂のような。
すみれ色の瞳とネイルの小瓶がきらりと輝き花火のような光が散る。
「スイスピシーボ・ヴォイティンゴーク!」
青い光がぱちぱち弾けて、きっと炭酸水の中で泳いだらこんな感じなんだろうと思った。
その泡沫の燐光は彼女の右手の小指から発せられている。
宝石のように彩られた爪に一匹の青い鳥が飛んでいて、ラスティカの碧眼がぱっと見開かれる。
「わぁ、青い小鳥が僕の右手に!なんて美しいんだろう……それに、こっちはルビーの色かな?」
「えへへ……ランプに光が着くみたいに思いついて、やってみたくなっちゃったんだ」
「クロエはすごいね、僕はきっと毎朝この爪を見て幸せな気持ちになるよ。それからモーニングティーを飲んで、また爪を眺めるんだ……あぁ、明日が待ち遠しいな」
「あわわ、そ、そんなに褒められると恥ずかしいよ……!」
「どうして?僕はまだ褒め足りないから、この気持ちを歌にしよう。あぁ、それともチェンバロの方がいいかな?クロエはどちらが聞きたい?」
「どっちも聞きたい……わー、やっぱり恥ずかしい、照れちゃう……!」
「ふふ、顔が真っ赤だね。僕の爪とお揃いだ。クロエの髪ともお揃いになって、嬉しいな」
かわいらしい弟子の成長が嬉しいのか、その弟子を褒めるのが楽しいのか、はたまた美しいネイルアートに驚いているのかお師匠様は喜色を満面に浮かべている。
見ているこっちまで嬉しくなってくるような、そんな笑顔だった。
褒め殺そうとする勢いのラスティカが赤い癖毛を優しく撫でると、クロエは恥ずかしそうに目線をちらちらとずらしてはにかんでいた。
「このまま街に行って、みんなに見せて回りたいな。こんなに素敵なんだもの、きっと花嫁の方から見つけてくれるかもしれない」
「あんたはすぐ鳥籠にしまっちゃうから、花嫁さんも驚いて爪を見てる場合じゃないと思うけど……でも、本当に街に行くの?」
「きみと見たい劇の上演もあるんだ、いつも春頃に開演していたからね。そろそろだと思うのだけれど」
「わ、劇……!?劇場に行くの?やったぁ!」
出会ってしばらくした頃に、ラスティカと豊かの町の小劇場に行った時の事を思い出し小躍りしそうなほど嬉しくなる。
劇場に漂う香水の香りや、人々の談笑する声、目まぐるしく移り変わる照明の美しさ──。
沢山の衣装と歌、気の利いたかっこいいセリフと、初めて見た劇は想像のつかないものだらけで新鮮な驚きに満ちていた。
それから、宿に帰ったあとラスティカにまた行こうね、と言われた事をよく覚えていた。
「まって、俺エスコートの仕方知らないよ。折角ラスティカが綺麗なのに、横にいるのが俺じゃあ……」
「心配ないよ、いつもクロエがしてくれる通りでいいんだ。僕の両手が塞がって、困っていたら荷物を持ってくれた時のように」
「そうなの?でも、手の取り方は教えてね」
「もちろん」
小麦を挽くのに疲れた風車が不満げにからから回る茅葺き屋根の軒下に、留まっていた小鳥が猫目の豆をつついて黄色な尾羽を上下に振る。
爽やかな春の香りの風がいっぱいに葉っぱを狩って、小さな田舎町の赤い屋根の上を透明な真水のようにさらさら流れた。
丸い緑の葉を鈴なりにして悠然と立つ一本の大きな木の下で、水晶の木漏れ日をたくさん浴びた魔法使い達は手を取り合い肩を抱き、そこここを歩き回る。