ウィリアムと煙草とモラン「どちらになさいますか、旦那様」
旦那様、と呼ばれたその青年の瞳が微かに揺れる。
彼はゆっくりと瞳を閉じ、そして微笑を浮かべた。
そしてショー・ウィンドウに並ぶひとつを指す。
「こちらの、黒い箱のものを」
店主は品物を渡すと不思議そうに青年を見つめた。
今しがた購った重く、ともすれば粗悪とも言える煙草をこの美しい青年が喫む様をどうしても想像できなかったからだ。
「代金は、ここに」
グローブに包まれた指がいくつかのコインを置く。
彼はそれだけ言うと片手にステッキを持ち店先から立ち去った。
ビルディングの合間から青空が覗く、昼下がりのことであった。
胸に抱えた黒い箱に願いを込めて。
肺が汚れると知っていて、それでも今、どうしても止めることはできなかった。
壁一面を覆い尽くす書物に囲まれたウィリアムの自室、あの部屋に火を持ち込むのはどうしても避けたかった。
だから、他の場所──例えばエントランス。
風の通るエントランスであれば煙はすぐに流れ、残り香も無く済んだかもしれない。
最初はそこで喫するつもりだった。
何も難しいことはない、簡単な動作。
けれど、マッチを滑らせようとしたその手が震えているのに気付いた。
それどころか、今すぐこの小さな黒い箱をどこかポケットにでも隠して誰も知らない場所へ逃げてしまいたいような気味の悪い焦燥感に苛まれた。
ウィリアムは一歩下がって部屋を見渡す。
「なるほど……」
感情の乱れもその切欠を見つければすぐに正すことが出来る。
もう胸は凪いでいた。
窓辺に置かれたシノワズリーの花瓶で薔薇が咲いている。
セレストブルーのカーテンは綺麗に整えられている。
夕日が溶けて空気は甘やかなオレンジに色付く。
仕事を終えた農夫達が話す声、赤ん坊の鳴く声と名も知らぬ小鳥の囀りがゆっくり巡る。
ウィリアムの白い肌を水晶の涙が滑る。
この屋敷にはどうしようもないくらいに穏やかな幸福が満ちていた。
だからこそ、この部屋で息をすることがどうしても辛い。
僕はもう、ここにいることも────
肺の中に流れ込むあたたかな空気にさえ息が詰まり、どうしようもなく苦しい。
口腔を焼くような重い煙でこの身体を満たして、束の間の安寧の内に眠ってしまいたかった。
力の入らない脚をどうにか正し、彼の部屋まで歩けと他人事のように命令した。
静かな晩だった。
ダラムの田舎道はしんと静まり返り、音もなく秋の風が巡っている。
嵌め殺しの窓から注ぐ月光が暗い廊下で宝石のように散っていた。
あれから自室へ帰り人形のように眠ったウィリアムはいくらか思考がクリアになっていた。
だから躊躇いも無くこんな夜更けに人の部屋の戸を叩く。
「ねぇモラン」
真昼のティータイムに誘うみたいな気軽さで、そっと、夜の気配に紛れ込ませるように。
もう眠りについた大切な弟を起こさないように。
でも彼にだけは気付いて貰えるように。
「煙草の吸い方を教えてほしいのだけれど。今空いてるかな」
きっとモランは出てきてくれるだろう。
隠したはずの期待がぽたりと落ちたインクのように滲む。
返事は無い。けれど部屋の中から物音がする。
ベッドの軋む音、ランプに火を灯す音、なにかの瓶が置かれる音。
それから足音がしてドアが開かれる。
「こんな時間に珍しいな、ウィリアム」
「こんばんは、モラン」
酒精が薄らに香る。
それを運ぶのは開け放たれた窓から流れる静かな夜風だった。
透明な夜風の中で紫の煙がひとすじ揺れる。
それはウィリアムがずっと求めていたものだった。
「モランも煙草を?」
「も、ってお前……本気なのか。肺が汚れるから好きじゃねえってガキの頃に言ってただろ」
「ねぇ、お願いモラン。マッチも持ってきたから…………」
二人の視線は合わない。
ウィリアムはモランを見ているようでどこか遠くの景色を眺めているみたいだった。
それは霧の立ち込める街角かも知れないし寂しいくらいに晴れた日のプラット・ホームかも知れない。
モランはウィリアムが見ている先の景色を想像してぎり、と奥歯を噛み締めた。
苦味を感じるのは酒精の残り香だろうか。
「一本だけでいいんだ。僕の部屋には灰皿が無くて」
「ウィリアムお前、その煙草……」
「うん、モランと同じものだよ。最初は君から一本貰おうかと思ったんだけどね……自分で、選びたかったんだ」
「街へ出たのか」
「大丈夫、誰にも顔は見られていない」
少女、というよりも子供だ。
「手はどうしたんだ。赤切れになってるじゃねえか」
「少し、荒れてしまったんだ。血の匂いが取れなくて。」
「あとで薬でも塗っとけ。ルイスのやつが心配するぞ」
「そうだね……あのねモラン、」
ウィリアムが煙草の吸い方を知らないはずがない。
それでもモランの部屋に来て、吸い方を教えてくれとせがむ理由はなんなのだろう。