「えぇー!?ムルとシャイロック、行方不明なの!?」
「いえ、行方不明というわけでは……」
賢者の口から出た衝撃の事実、ムルとシャイロックの行方不明。
クロエは驚いてティーカップを置き、ラスティカはそこへ紅茶を注ぐ。
遡ること一か月前。
「ひと月ほどバカンスへ行ってきます。西の国の端の方にある、人間にさえ忘れさられた荒地ですが古い泉があって良い場所なんです」
まだ朝と呼べる時間にシャイロックが起きているのは珍しい。
談話室で珈琲を傾けていた彼は丁寧な所作でクロエにシュガーポットを渡し、にこりと微笑んだ。
柑橘のパイプが薄い煙を吐いて曲線を描く。
角砂糖を落としてミルクを垂らして、スプーンでくるりと回して夏のバカンスを思い出す。
「バカンスって春に行ってもいいの?」
あの時は暑かったから海辺で遊んだけど、春のバカンスってどこで何をするんだろう?
暖かい日差しに囲まれてピクニックしたり、花の冠を作るのかな?
それはとても素敵で、わくわくする。
「勿論。春風に紛れて逃避行なんて魅力的でしょう?」
そう言って微笑んだシャイロックの爪は綺麗に磨かれていて、彼が動くと甘い香りが部屋に広がる。
大人っぽくて落ち着いたシャイロックのかわいい一面がちらりと覗く。
でも、逃避行の相手は首輪のついてない野良猫だとため息を漏らしていたけれど。
「シャイロックは秘密の箱庭に人を入れたがらない!前の俺は入れたの?入れたとしたらどこまで?きみは箱庭にいる時、誰のことを考えるの?って聞いたら怒られた!」
「わっ!ムル、いつからいたの?」
「今だよ!煙と追いかけっこしてた、でも捕まえる前に消えちゃった!」
そう言ってくるりと回ったムルは魚みたいに跳ねて、カマーベストとシャツの間に手を突っ込んだ。
ここが昼下がりの談話室だということを気にもせずブローチの丁度裏側、紋章が刻まれたあたりをごそごそまさぐる。
「遊びに行くならお小遣いちょうだい!魚を買って追いかけっこする!」
「ちょ、ちょっとムル。その服ポケット着いてないよ」
「こんなところでボタンを外すのはやめて、ムル」
乱れた衣服のシャイロックと今まさに乱しているムル、止めようとはしているものの続きが気になってしまうクロエ。
本当は止めなきゃいけないのにドキドキしてしまって頭が上手く回らない、顔が熱くて目が釘付けになる。
だって、服を暴かれているのにシャイロックは微笑んでムルの頬を撫でたりしてる!
いつもだったら窘めるはずなのに、どうして今日はそんなに楽しそうなの!?
バカンスに行くから開放的になっちゃってるの!?
「野良猫にそんなものは不要でしょう。ふふ、ストールを離して。皺になってしまいます」
「どうして?魚をたくさん見つけたネロがびっくりしてムニエルをたくさん作ると、シャイロックは困るの?」
「ネロが困らせるのはやめなさい。それにお小遣いなら先日渡したはずですが、もう使ってしまったのですか?」
綺麗な爪がボタンをとめて、それがまた外されたら視線を絡ませてついでに指も絡ませて。
真っ赤な刺繍糸で縫い止められたみたいにムルとシャイロックから目が離せない。
「ラスティカとカジノに行った!クロエは行ったことある?豊かの街の蜂蜜カジノ」
「えっ!?あ……俺はカジノには行かないかな。でも蜂蜜カジノはちょっと楽しそう……じゃなくて!えぇと……?」
「あはは!」
話を振られて意識を引き戻されても、ムルと話してると再度よくない深みへ嵌っていくような感覚がする。
手も足も出ないどころか出した手さえ絡め取られてしまう。
結局遠くからファウストの声が飛んできて、やめなさいと怒られるまで二人は戯れ続けた。
それから寝癖のついたラスティカが現れて、歌いながらエレベーターの前まで見送って。
扉が閉まるまで手を振っていたっけ。
そして今日、二人は帰ってくる予定を五日過ぎても音信不通のままだった。
「だって、出かける前の二人いつも通りだったよ。シャイロックは少しふわふわしてたかもしれないけど……その後はしゃっきりしてたじゃない。ラスティカも見てただろ?」
「そうだね。もしかしたら、あまりにも居心地が良くてそこに住みたくなったので建築家を探すのに忙しいのかもしれません」
そのまま愛憎渦巻く新居に招待されてもにこやかにお茶会を開きそうなラスティカは、事態をあまり深刻に捉えていない風だった。
それを見たクロエも納得して、そういう気分の時もあるよね!と、クッキーへ手を伸ばす。
任務に行こうとしてバーで議論したり、パエリアを作ろうとして昼間からワインを開けるような気分屋さんならその方が自然かもしれない。
「あ、あの……引っ越すにしても手続きが必要なので帰ってきてほしいです」
「おや、そうなのですか?」
「はい。サインと住所が……いえ、そうではなくてラスティカとクロエに西の国まで行ってもらいたいんです」
ちょっとしたお使い、それに魔法舎負担でお小遣いまで出る。
賢者の頼みを断る理由もなく、二つ返事で引き受けた。
「わかった、お出迎えだね!」
「お任せ下さい、賢者様」
「ありがとうございます!クロエ、ラスティカ」
不安そうな顔が少し明るくなって、賢者は手書きの地図を渡してくれた。
神酒の歓楽街に泊まって箒で飛ぶのが良さそうだ。
まるで冒険の地図みたいなそれを片手に、クロエとラスティカは魔法舎を出た。