次兄の行き先を思い出す。 今朝、家を出る前に挨拶をした。おはようございます。おはよう、カナヲ。兄さんはどちらへ? 秘密ですよ。
秘密の増えた次兄の行き先は、決まっている。大池の茶室だ。
蝉時雨が降っている。じいじい、かなかな、つくつく。いろいろな音が入り乱れている。廊下をめぐって、大池の茶室を目指す。廊下の軋みと蝉時雨と、木々のざわめき。それに、大池の波の音が混ざってくる。風が荒れれば波は激しく、風が凪げば波は静まる。当たり前の移ろいが、今は怖い。
カナヲは恐怖を知らないが、緊張は知っている。茶室に近づくにつれ、あの光景が蘇る。暗い水面、沈む次兄、水鏡を穿つ尾ひれ。作り物のような、透けた大きな魚の尾ひれが波紋を作って、ぴちゃり、ぴちゃりと蠢いている。凪いでいたはずの水面が、波が、無数の白い手と成って兄を連れていってしまった。
大事なものを失うのが怖い。
もう一度、宇髄に預けられた紙袋を握りしめて茶室の襖へ挑んだ。
座る、手をかける。
作法通りに襖のすきまに指を入れ、数センチ、静かに開けた。
(――?!)
大池にせり出した濡れ縁に、人影がふたつ。
一つは恐らく次兄のもの。こちらに背を向けて、大池に足を垂らして座っている。そうするのが好きなのだと言っていた。
――もう、一つは?
濡れ縁に上半身を凭れている。水から上がるような格好で、しかし、上がらない。今、大池は水が満ちている。一昨日の雨で、水面が上がっているのを昨晩確認した。
……、ッ!
動けない。正確には、動いてしまったらどうなるのかわからない。
次兄の隣にいる人影の、髪が揺れた。黒髪。水分を含んでいる。その毛先から、水がぽたりと滴っている。
見覚えが、ない。
産屋敷に住まう者は、互いが顔見知りである。子供が生まれれば、その家がほかの家を訪問する。例えば胡蝶、例えば宇髄、例えば時透。
その、誰とも違う。
そもそも、大池に浸かるような人間はいない。
ならば。
あれは何だ。
カナヲは思わず手に力を込めた。くしゃり。宇髄から預けられた紙袋がちいさく音をたてる。しまった。正気に戻ってそっと中を覗く。
黒い影がこちらに気づく。光の加減が動く。
――化物。
化物のような、美しさだった。
息を呑んで、数秒。
「カナヲ、どうしました?」
力んだ手からふすまを開けられ、カナヲは全身の力が抜けた。目の前に立つ次兄・しのぶはいつもの通りで、カナヲはようやく品物を渡すので精一杯だった。
◆◆◆
その夜、カナヲはうまく眠れなかった。
誰かにこれを話すべきか。もやもやとした思考を何度も繰り返している。