眠れないのなら、起きるしかない。 意を決して身を起こす。時計代わりのスマートフォンを見れば、夜中の一時。普段はぐっすり眠っている時間だ。着信・メール、ともになし。なんだか胸のあたりがむずむずして、パジャマと言えぬジャージのまま、布団から抜け出した。
嫌な予感がする。それを反転させれば、いい予感なのかもしれない。しかし、これは。嫌なものであってほしい。幽かな願いを胸に抱きながら、カナヲは駆けた。
ぎしぎしと廊下がきしむ。
楚々と歩きなさい、と普段からしつけられている。
それどころではない。
兄が。しのぶ兄さんが。
喰われてしまう。
息を切らせて、カナヲは走った。日頃の所作など何も構わず、夢中で走った。
――!
ぴしゃり。
襖を開く。目の前には、ただ大池が広がっている。ざあ。風が水面を撫でた。
水面には、なにもない。
良かった。
――なにもなくて、本当に。
……本当に?
いや。
何もない、のか?
夜は茶室の雨戸を閉めてあるのではないか?
なぜ、池が見えるのだ。
それに気づいてしまった。かたかたと奥歯が揺れる。進んではいけない、進んではいけない。ゆっくりと足が動き出す。一歩、二歩。池に吸い込まれるように、進んでいる。
「あ、あ……ッ」
池の中に、何か居る。
ちゃぷりと頭を出して、そこから波紋が広がっている。
黒髪に抜けるような白色の肌。月明りが水面を照らし、その反射で顔がくっきりと浮かび上がっている。
上弦の十日月。十分な灯りがともっている。
半分だけ顔を出していたものが、近づいてくる。
音はない。波がある。
背筋に、汗が流れている。
「あ、ア……?」
「お前は」
水怪。怪のくちびるが動く。音が聞こえる。にほんご、理解できる。反応はできない。
「お前は だれだ」
水面に浮かぶ怪がヒトの形をとっている。
黒々とした瞳、ちいさな鼻。唇も同じくらい小さくて、皮膚にウロコが生えている。ウロコ。うろこ。
『兄さん、それは?』
『おまじないですよ』
次兄がスマートフォンのケースに、スパンコールのような、うろこのような。そんな欠片をはさんでいたことを思い出す。
これだった。
「……ツユリ?」
怪が言った。そう、カナヲの名を言い当てた。
声にならぬ響きを喉から出せば、怪はちゃぷりと沈んでいった。
「……カナヲ? こんな時間に何を」
不意に背後から声がかかる。振り向けば、次兄がいた。緊張が切れる。へたりと座り込んで、カナヲはつぶやいた。
「にいさん……」
「僕を探しに来たんですね。読書も終わりましたし、すぐに戻ります」
カナヲの頭をなでる兄の手。少しひんやりした、安心する指先からは、なぜか煙草の匂いがした。