次兄と異形が喋っている 36.4%「冨岡さん、カナヲに何をしたんですか」
盆の最終日。胡蝶しのぶはいつもの大池に居た。あれから、カナヲはすべてを忘れていた。
屋敷のことを疑問にも思わず、異形の人魚と出会ったことも、おはぎを届けたことも、何もかもを忘れているらしい。
「本当に、きれいさっぱり忘れていますよ。ここ数日のこと。宇髄さんのタバコだけだったら、ああはなりません」
とんとん、と。胡蝶は宇髄の吸っていた葉巻を取り出した。派手でチャラいパッケージの中身は、特殊な薬草である。それを燻した煙を吸うと、記憶が混濁する。
それを仕掛けたのは胡蝶である。いうなれば、胡蝶しのぶも、宇髄天元も、グルであった。
「宇髄さんがうまく吸ったのでしょうか。それとも……冨岡さん。あなた何かしましたね?」
幾分か強い口調で、胡蝶が言った。冨岡は、視線を宙に漂わせ、それから。化物がそうするように、首をぐるりとめぐらせて、胡蝶の顔を見た。
表情は穏やかである。生命の紡がれた皮膚。冨岡とは比べるべもなく、生きた人間の証。煙草を吸う指先には、青白い血管が透けている。
「何もしていない。ただ」
とん。宇髄の使っていた灰皿を、今度は胡蝶が使っている。
「ただ?」
「『脅かして』やっただけだ」
ぎょろり。怪異の目玉がぐるりと動く。眼球結膜が、夜の色をしていた。水の張った結膜が、きらきらと輝いている。夜の色だ。あしさきを水につけたまま、人魚は数度まばたきをした。
ぱちり、ぱちり。不要になったはずのまつ毛は、いまだにふさふさと生えている。
首から下の体毛は消えたというのに、どうしてここだけ。
ぬめぬめとした体液のあふれるウロコのはざまを爪でなでる。はがれそうなウロコが一枚あった。
くい、と。
細長い爪先で一枚を引く。
ずぷり。簡単に抜けたその下から、新しい一枚が育ってきた。
「冨岡さん。聞いてますか?」
「聞いている。言っただろう。脅かしただけだ、と」
はふ。胡蝶の口から煙が漏れる。それはたおやかな紫で、朝焼けを連想させた。
「脅かしただけで、ああなるんですか」
「ならないな」
「なら、どうして」
「本人が忘れたかったのだろう」
ふわり。胡蝶が思考を巡らせる。確かに、実兄が怪異と交わり、全てをはぐらかされ、頼りになると思っている宇髄も怪異とグルで、しかも、親友の不死川までこちら側だったのだ。
確かに、嫌だろうな。
胡蝶はぼんやりとそう思って、主流煙を深く吸い込んだ。
「ねえ冨岡さん」「何だ」
とん、とん。今では古くなった煙草の灰を落とす。既に廃盤となり、どこにも売らなくなったふるい、旧い煙草は、ようやく押し付けられた量の半分が消えた。
法令順守の欠片もないな、と思いながら、それに染まっている自分はあまり嫌いではない。
ぴちり。人魚の耳・ヒレが動いた。ぽたりと垂れた水滴は、淡く清い水である。
「嫌ですよね。自分が世界から置いてかれるのって」
独り言のような、そうでないような。よくわからない一言に、冨岡は何の反応もしなかった。ただ、静かにまぶたを伏せた。