2.大池に棲む魚の怪異 60% (2/3) ヒュウ。
凪いだ水面の上を風が滑り、ちいさな波を立てて吹き込む。過ごしやすい気温であったはずなのに、一陣の風が寒さを連れて、二人の頬を鋭く撫でた。
胡蝶しのぶには、秘密がある。秘密のない人間などいようはずもないが、彼に関しては、屋敷一の秘密を抱えていると言っても過言ではない。体の弱いしのぶは、現世と隠世の境界があいまいであった。
ゆえに。
「アオイ、輝利哉様に、怪異を訪ねろと言われたのですね」
ふいに振り返ったしのぶが告げる。その一瞬は写真のようで、アオイの瞳には、しのぶの動作、髪一本の動きまで克明に見えた。
アオイは頷くことで精いっぱいであった。ふと、しのぶが笑みを崩す。それで、この場の緊張は解けた。
「怪異の名前は聞いていますか?」
ナマエ、名前。そうだ。名前を聞いていた。ええと、確か。
「水の方は、ギユウ、さん、と」
すこし悩んで、アオイが告げる。そうすると、しのぶの表情がわずかに変わった。ゆるんだ空気はそのままに、少し、ほんの少しだけ。彩のあるような表情をした。
「輝利哉様からちゃんと伺っているんですね」
何か、はさまるような言い方である。アオイは内心むっとしたが、表情には出さず黙っていることにした。
なにもない大池の茶室。ぽつんと開けた和室と、大池にせりだした濡れ縁。気持ちばかりの廊下の向こうにある濡れ縁は、少しばかり不気味で、おいそれと近づいてはいけないような感覚を持っていた。
「アオイ、濡れ縁に座っていなさい」
しのぶにかけられた声で、ふと我に返る。アオイはわけもわからず、ぼうとしている。しのぶはアオイの手をとって、濡れ縁へと引きずっている。ちょっと、あの、しのぶさま。静止の声を受け入れずに、しのぶはアオイを引いて、濡れ縁へと座らせた。
「お茶を淹れてきます。彼女が来るかもしれません。
決して、叫ばないように」
そう言い含んで、しのぶは床の間に飾られたサザンカをもぎり、大池へ沈めた。白いサザンカが、奪われるように沈んでいく。