2.大池に棲む魚の怪異 60%(3/3) ずっと、池を見ているように。山茶花の沈んだところを見ているように。しのぶからの指示はその二つきり。アオイは、言われたままにじっと白いサザンカの沈んだところを見つめていた。
…………
――――、
(あ、)
うす暗い水の中から、山茶花が浮いてきた。水流の関係で、もう一度浮き上がるのだろう。この池は、どこかの山から湧水が染み出ているらしい。どこの山だったかは忘れてしまった。
うす白く、ぼんやりした花が浮いてきている。
(あ……、?)
気づいてしまった。
アオイは、気づいてしまった。
花は、浮いてこない。
一度沈んだサザンカは、浮くはずがないのだ。いや、落ち着け、思い出せ。
そもそも
しのぶは
サザンカを
沈めたか?
はたと、アオイは気づいてしまった。何に? すべてに。叫ぶな、騒ぐな、何かが迫ってきている。何かが、何だ。池の中、魚? いや。これは魚の――
怪異の手だ。
背に、首筋に、突然冷たさが走る。隙間風が入り込むような感覚。ほんの少し開いた隙間から凝縮された冷気の風が、アオイの背中をひゅうと撫でた。
拳を握る。ぐ、と作られたにぎりこぶしは、爪が肌に食い込んでいる。
迫る。来る、上がる。
水の底から、白い花が浮かんでくる。
よく見ればそれはつぼまっていて
浮きながら 開 い て い る 。
一枚、
二枚、
三枚、
四枚、
五枚。
花が開いた。
(あ、ァ)
アオイは、目が離せないでいる。なぜ、どうして。どうやって。考えている間にも、うす白い花が開きながら、迫っている。
ちゃぷり。水面から咲いた花が、アオイの眼前に迫っていた。
濡れ縁から、身を乗り出していた。縁をつかんで、上半身を池が池にせり出している。後ろから押されれば、池に落ちる、池から引きずられれば、命に係わる。
池に映った自分の顔が、崩れていく。
真ん中から咲き出でる花が、
手だと
気づいた。
生白い手が、アオイの頬に触れる。悲鳴も、何も、上げなかった。
呼吸することさえ、忘れているのだ。
アオイの時間は止まっている、怪異の時間は動いている。
水にまみれた掌が、化粧っ気のないアオイの頬を包んで撫でた。ちゃぷりと、大池からヒトが上がってくる。
ぬらりと湿った黒髪のすきまから、青い目が覗いている。ヒトとサカナの境界線で、ギユウは揺れているんだ。老爺の静かな声が脳裏に響く。
頬に、ざらりとした感触があった。
海の色より青い目が、アオイを覗いている。