2.しのぶの声で我に返る 50%「冨岡さん」
背後から声がかかる。青いひとみが、ぱさりと瞬く。雫だらけのまつげが水をまとってふるりと揺れた。
アオイの頬から手が離れ、一度沈む。少し離れた濡れ縁・不自然にへこんだ箇所に手がかかり、魚の体があがってくる。
両の手が木材にかかり、腕の力で体が上がる。鉄棒に手をかけて、一気に体を上げるときのように。水面をざばりと波立たせ、人魚が揚がった。
「……誰だ」
人魚が、揚がった。
トミオカギユウは人魚である。この体に成ってから、何年経過したのかは覚えていない。下半身は魚となり、失くした腕も生えている。よほどの事がない限り、ヒトに姿を見せることもないので、衣類は纏わず生活している。
(にん、ぎょ)
アオイは茫然としていた。童話の中にしか存在しないものと思われている人魚だ。常識の枠の外にある生物を数秒見つめ、アオイはその場にへたりこんだ。呼吸がうまくできない。不規則になってしまった鼓動を戻すために、息を深くする。すう、はあ。
「大丈夫ですか、アオイ」
「は、い」
ようやく、かけられた声に返事をする。瞬きもおろそかになったまま、アオイの心は引き戻された。どうして、なんで、こんな、ふしぎないきものが、現実に。叫ぶなと言われたいいつけをしっかり守ったアオイの頭を、しのぶが優しく撫でた。
「その女は」
「アオイです。神崎アオイ。胡蝶の別家筋の娘です」
かんざき、カンザキ。神崎か。人間らしく頷いた人魚が、得心したように手を打った。
「神崎は薬か」
「そうです。よくご存じですね」
言葉の継げないアオイに代わり、しのぶが会話をつないでいく。確かに、神崎の両親は薬剤師をしている。この人魚は、どこまで知っているのだろうか。
「かんざき、アオイ、で……す」