夏の終わりの出来事8月末の大宮はまだまだ暑い。それでも夕方の空気に、少し秋の気配を感じるようになってきた。夏との別れを惜しむように、蝉がそこかしこで鳴いている。
「ものすごい鳴き声ですね」
「打ち上げ花火のフィナーレって感じだな」
研究所でのシミュレーションを終え、ハナビとタイジュは超進化研究所の独身寮へ向かっていた。
「今日、カレー作るから俺の部屋来いよ!」
「わぁ、いいんですか?じゃあ自分、サラダ作って持って行きます。」
部屋は別々だが、よくお互いの部屋で一緒に夕飯を食べる二人は、今日もそんな話をしながら歩いていた。
独身寮の門をくぐり、玄関ホールに入ろうとしたとき。前を歩いていたタイジュがピタリと立ち止まった。危うくぶつかりそうになったハナビが急停止し、「どうした?」とタイジュの顔を覗き込む。
「あっ、あっ、あれ…」
タイジュが目を見開き、青ざめながら指差したその先には、玄関ホールの白い床の上でひっくり返ったまま動かない蝉。
「なんだよ蝉じゃねーか。もう死んじまってるから動かねーよ。ノープロブレム!」
ほら、とハナビが蝉のそばを通った瞬間。突然、蝉が翅を羽ばたかせてジジジジジッ!と鳴き暴れ始めた。
「うおっ、まだ生きてたか」
「いやあああああああ!!!」
悲鳴を上げ、一目散に門を飛び出したタイジュは、そのまま住宅街の中へと消えていってしまった。
「おいタイジュ!そんなビビらなくても…どこ行くんだよ!」
ハナビはタイジュの後を追いかけたが、すぐ見失ってしまった。
住宅街のど真ん中で、どうしたものかと考える。
探すか?
寮で待つか?
いや、玄関に瀕死の蝉が居たままでは帰ってこないだろう。一緒じゃないと…
空を見上げる。もう太陽は西の空に沈みかけ、闇が広がり始めていた。
ハナビは呼吸を整えると、再び駆け出した。
商店街のはずれにある、古ぼけた外観の薄暗いゲームセンターの中。2台の自動販売機が照明代わりの小さな休憩スペースのベンチに、タイジュはちょこんと腰掛けていた。無我夢中で走り、気づいたら駅前の商店街まで来てしまっていた。とりあえず落ち着こうと思い、目に入ったゲームセンター内のこのエリアにお邪魔したというわけだ。
「ハナビくんに、呆れられてしまったかもしれませんね…」
自分が情けなくて、でもなかなかこの虫嫌いは克服できなくて、先程からため息ばかり出てしまう。
ぐうーっと腹の虫が鳴る。
そうだ、ハナビくんと一緒にご飯を食べる約束をしていました…戻らなければ…でも玄関には蝉がいるし…
なかなかその場から動けないでいると、
「ねえ、君一人?」
頭上から突然聞こえた声に、はっと顔を上げた。高校生くらいだろうか、やんちゃそうな男達が3人、にやにやと笑いながらタイジュを取り囲んでいた。
「一緒にゲームして遊ばない?あー、お金持ってたらオニーサンたちに貸してほしいんだけど。ちょっと財布出して?」
「いえ、あの、自分もう帰りますので…」
あまり付き合ったことのないタイプの男たちに話しかけられ途惑い、タイジュがベンチから立ち上がろうとした瞬間、左の頬に衝撃が走った。勢いで床に倒れる。殴られたのだ、と理解した時には声をかけてきた男に上着の襟を掴まれ無理矢理立たされていた。
「いいから財布寄越せよ。少しは金持ってんだろ?」
怖い。逃げなきゃ。自分の力なら、突き飛ばせば逃げられるかもしれない。
でも…『あの時』の友達のように、この人を怪我させるかもしれない…
「おい、金寄越せっつってんだよ!聞こえてんのか?」
鳩尾に一発、拳が入る。
「がはっ」
苦しい、痛い、早く解放されたい。
ハナビくん…ハナビくんのところに帰りたい…
持っているお金を渡してしまおうか。それで解放されるなら…
震える手でポケットに入れてある財布を出そうとした、その時。
「タイジュ!」
小さな休憩スペースに、いま一番会いたい人の声が響いた。
タイジュを探していたハナビは、商店街の古いゲームセンターの前を通りかかった。タイジュがこんなところに一人で入るイメージはなかったが、入り口のガラス扉越しに店内を覗くと、奥の自動販売機が並ぶスペースに、見慣れた青いジャージの少年が見えた。その少年を取り囲む、柄の悪そうな男達も。
友達、ではないのは一目瞭然。しかも胸ぐらを掴まれている。
明らかに絡まれてるじゃねーか!
ハナビは勢いよくガラス扉を開けて店内に駆け込んだ。
「タイジュ!」
呼びかけると、男達が一斉にこちらを向いた。胸ぐらを掴まれてるタイジュの左頬が赤く腫れているのが見え、怒りで頭がクラクラしてくる。
「なんだ?こいつの友達か?」
「タイジュを放せ!」
怒りに任せて、タイジュを掴んでいる男に殴りかかった。だが相手は自分より体格のいい年上の男だ。少しよろめいただけで、タイジュを掴む手は全く緩まないし、おまけに自分はあっさりと他の2人に腕を掴まれてしまった。
「や、めてください、ハナビくんだけは…」
震える体にありったけの力を込めて声を絞り出し、タイジュが男達に懇願するが、そう簡単に聞き入れてはくれなさそうだ。
「よく見たら綺麗な顔のガキだなぁ。女みてぇだ。」
「可愛いじゃん。悪戯しちゃおうかなー。」
「おいトイレ連れていこうぜ、誰も来ないし」
「お、マジでヤッちゃう?」
ハナビを掴む二人が下卑たことを言う。
「はあ?!ふざけんなテメェら!放せ!」
ハナビは暴れてみるが、まったく抜け出すことができない。
「暴れるなよ、今から気持ちイイことしてやるからさ」
そう言ってハナビを引きずって行こうとする男達を見て、タイジュの頭の中で何かがプツンと音をたてて切れた。
ハナビくんを、助けないと…!!
「ほら、お友達が恥ずかしい目に遭っちゃうよ?お金くれたら助けてあげ…」
ゴツッ
渾身の頭突きを食らい、タイジュを掴んでいた男が突然バタンッと床に倒れた。
「な、なんだ?」
仲間の異変に動揺する男達に突進し、ハナビの腕を掴んでいる一人を突き飛ばす。両替機に体を思い切りぶつけ、こちらも床にうずくまってしまった。
「ハナビくんを放してください」
「なっ、…ざけんなよクソガキ!」
ハナビを掴んでいた最後の一人が、タイジュに殴りかかる。が、拳が振り下ろされるまえにがっしりとタイジュに腕を取られ、瞬きする暇もなく背負い投げで床に叩きつけられた。
ああ、やってしまった…
床に転がる男達を見て我に返り呆然とするタイジュの腕を、ハナビが掴み駆け出した。
「逃げるぞ!」
「え?あ、はい!」
そのまま2人はゲームセンターを飛び出し、寮の前まで全力で走った。
寮の前まで来た二人は膝に手をつき、ぜえぜえと肩で息をしながらしばらく無言だった。
ハナビは顔を上げ、まだ肩を上下させるタイジュに声をかけた。
「おい、大丈夫か?顔、殴られただろ?」
「はい、大丈夫です。腹も殴られてしまいましたがもう痛くないです。」
「んだとぉ?!アイツら許せねえ…!」
「それより、よかったです…ハナビくんに怪我がなくて…」
ハナビの顔を見てほっとしたのか、タイジュの目から涙が溢れた。
「ハナビくん、申し訳ねえです。探しに来てくれたのに危ない目に合わせてしまって…」
「いやいや、危ない目に合ってたのはお前だろ?」
「自分、情けないです。虫は怖いし、不器用ですし…」
自分がもっとしっかりしていたら、ハナビを危ない目に合わせることも、そもそも虫から逃げることもなかったのに。
申し訳なさでいっぱいで泣きながら立ち尽くしていると、ハナビが近づいてタイジュの顔を覗き込んだ。
「タイジュ、俺はな、虫が怖いタイジュも、強いその力で仲間を助けられるカッコいいタイジュも、大好きだぜ。」
タイジュが伏せた目を上げて2人の視線が合うと、ハナビは満面の笑みを浮かべた。
「助けてくれてありがとうな!」
その笑顔に、どくんと心臓が高鳴ったのはなぜだかわからないけれど。
「はい!」
とタイジュは微笑み返した。
さて部屋でカレーを作ろうか、と話しながら、2人は独身寮の門をくぐった。
すっかりあの存在を忘れたまま。
ジジジジジッ!
「いやああああああああ!」
「タイジュ、落ち着け、Wait!」
end