タイトル未定 白いカーテン越しに差し込む柔らかな陽光が室内に差し込んでいて、明かりは必要なかった。元から自室は明る過ぎないようにライトを調整しており、薄暗い程度であれば明かりをつけないのがホーキンスの常である。
鏡面に映る自分の顔を見るともなく眺めながら、ホーキンスは乾かしたばかりの髪を梳かしていった。毛量があるので少しばかり手間だ。機械的に手を動かしている内、ホーキンスはふと己の身体に違和を覚えた。
内からの感覚ではない。
外部からの刺激が何かを訴えている。
つつ、とホーキンスは櫛を持っているのと反対の手の指先で首元をなぞった。
肌は均したように白っぽく、ところどころに青い血管が浮いて見えている。鎖骨、それから肩。胸元のフリルを指で押さえて少し肌ける。やはり、白い。
ほんの僅か、ホーキンスは己を疑った。
しかしそれもすぐに打ち消した。身体に残る気怠げな余韻と鈍い痛みは現実のものだ。
飾り気のない木枠に視線が下がる。昨晩のことを思い出そうとして、ホーキンスは自然と顎を引いていた。
ならば、付けなかったのか。
もう一度指を、今度は逆に下から上へと動かしていく。何もなかったかのように、肌には跡一つなかった。
「…………」
室内の時間の流れが緩慢になったかのようである。もう一度、時間を掛けて指が肌を辿った。時折ホーキンスは思い付いたように肌を圧迫してみたが、僅かな間赤みを浮かべるだけで、肌はすぐに元の色に戻った。
首に触れる。髪を持ち上げて顔を左右に向けても、首筋も白い。さっき身に付けたばかりのシャツをホーキンスは捲った。腹も胸も、やはり白い。
服の乱れを整えて、またブラシを手に取る。髪を梳いて、身支度を済ませる。
立ち上がりながらも、ホーキンスは自分の戸惑いに気が付いていなかった。
思い返してみるに──。
幾度か甘噛みはしていたようだが、歯は立てなかった、のだろう。
何故、とか、どうして、とか、考えはしたはずなのに、ホーキンスはそれを意識の上に乗せるのをよしとしなかった。
今日の運勢はあまり──良くない。トラブルの兆しが見えている。
そういう時、ホーキンスは意識して思考を普段通りに保とうとする。行動についても同様だ。昨日と同じ足跡を辿れば無事でいられるとでもいうように、安心を安全だと取り違えてしまう。
運勢を上向ける為のアイテムとして、黄色のハンカチをポケットに突っ込んでから、ホーキンスは自室を出てリビングに向かった。
それはいつもそうするからで、特に考えがあってのことではなかったが、足取りは妙に重かった。何となく気が向かないのだが、それでも足はいつものルートを辿る。
リビングには微かにコーヒーの匂いが漂っていた。とっくに朝食を済ませたドレークが、ソファで本を片手に持って熱心に読んでいる。
「……おはよう」
ホーキンスが声を掛けると「ああ、おはよう」とドレークは振り返りもしない。これは酷く珍しいことだった。睦合った翌日なら尚のことである。いつもであれば、ドレークはホーキンスが少々鬱陶しいと思う程、好意に溢れた視線を向けてくるのである。
ホーキンスは表紙が見える位置まで近付いた。ドレークの興味を一身に集めている本のタイトルが気に掛かったのだ。それが悋気とも取れる感情であったことを、ホーキンスは未だ自覚していない。
──なるほど。
ドレークが読んでいるのは本ではなく、漫画だった。表紙のイラストを見てホーキンスは即座に理解する。ファンの間でもかなり人気の高い回が収録されている、『海の戦士ソラ』十一巻であった。
「飯は冷蔵庫に入ってる」
ドレークはホーキンスの気配に向けて言った。紙面に顔を埋めるようにして、夢中になって読んでいるので、視線は交わらない。
ホーキンスが冷蔵庫を開けると、サラダが山盛りになったボウルが突っ込まれていた。相変わらず大ざっぱなちぎり方だ。サラダとヨーグルト、それからオレンジを一つ取り出し、棚からロールパンを二つ取って、皿に盛り付ける。
ホーキンスが食べている間に、ドレークは十一巻を読み終えたらしく、次巻に手を出していた。
ホーキンスは手早く朝食を終えた。皿をキッチンに下げ、ソファに近寄ってドレークの隣に腰を下ろすと、ドレークはソファの上に何冊か積んでいた海ソラの単行本(限定版ではなかった)を手探りで掴み、また手探りでローテーブルの上に置き直した。この間も、目は一時も紙面から離していない。
「ドレーク」
「ん……ん? ちょっと待ってくれ」
ちらりと目を遣ると、丁度バトルシーンであった。ソラが苦境に立たされて、手に汗握る場面だ。展開は既知であるはずなのに、毎回胸を高鳴らせるホーキンスとしても、待たないという選択肢はなかった。
手持ち無沙汰にカードを出してシャッフルしていると、やがて「悪い、何だ?」とドレークが十二巻を傍に置いた。
自分は何を聞くつもりだったのだろう。
ホーキンスは、尋ねる言葉を持っていないことに気が付いた。何か言いたい事はあるはずなのに、それが明瞭な質問にならない。感じたのは、ちょっとした違和だけである。
きょとんとした顔を向けるドレークに、咄嗟に出たのは、
「悪い癖は治ったのか」
という質問とも言えぬものだった。
問われてすぐは何のことか分からなかったらしく、ドレークは少しの間怪訝そうに眉を顰めていたが、ホーキンスが首元をトントンと指で叩くと、「ああ」と気が付いたらしい。
ドレークははにかんだように控えめに笑って、その後、目を逸らしたかと思うと、またホーキンスと目を合わせた。
「まあ、そうなんだ。それに……最近がっつかなくなっただろ」
ドレークは得意そうにちょっと笑って見せた。
「ああ……そうだな」
ホーキンスは内心面食らったものの、表にはおくびにも出さなかった。というよりも、咀嚼に時間が掛かって、顔の筋肉が動くより先に、意識が思考に沈み込んでしまったのである。
そうだ。言われて気が付いた。ちょっとした違和感はあったが、言語化できていなかった。近頃……二、三週間、いや、一月か二月? はっきりと覚えている訳ではない。
記憶を浚う。そう、確かに、がっつかなくなった。足りないと言って何度も求めてきたのは、あれはいつの事だっただろう。昨晩もそうだ。昨晩は──穏やかだった。
違和感と違和感とが繋がって、はっきりとした形を取り始める。
「もういいか?」
ドレークは十二巻を手に取りながら言う。
「ああ」
トラブルの兆し……間違いなく、これだ。
ざわりと胸中が乱れる。厭な感じだ。自分のペースを乱されるのは好きではない。
連鎖的に違和感が頭を擡げてくる。近頃のドレークは、何というべきか、そう、妙に穏やかだ。以前のような獰猛さが鳴りを潜め、余裕を纏っている。切羽詰まった顔も、葛藤する瞳の色も、最近は見た覚えがない。捕食されるかと思うような性交もない。
記憶を探るも、何か特別な事があった覚えはない。
ざわざわと、何か非常に厭な予感が──押し込めていた無意識の不安の渦と共に──ホーキンスを呑み込もうとしていた。
その晩、ホーキンスは湯上がりのドレークを捕まえて噛み付くようなキスをしてやった。挑発と、それから確認の為である。ドレークは大人しく受けていたが、セックスの誘いには乗らなかった。
「昨日しただろ」
と言って困った顔をしている。
ホーキンスは、自分がどんな顔をしているかは分からなかったが、物言いたげなのは向こうに伝わったらしい。
「あー、身体に負担が。な?」
「そうだな」
それはそうだ。本来使うべきでない穴を使っているのだから当然である。しかしそれを言うなら、ドレークには散々痛め付けられているのだ。何を今更と言う話である。
結局、ドレークはそのまま本当に何もせずに寝てしまった。随分と気持ちが良さそうで、眉間に皺も寄っていない。腹が立っていたので鼻の辺りを擽っていたらくしゃみを一つしたが、尚ぐっすり寝入っている。
一頻り腹を立てた後、ホーキンスを疲労感が襲った。元来は腹を立てることの少ない性質で、怒ることに慣れていないのだ。発散する前に気持ちが萎えて、胸中に蟠りだけが残る。
ナイトキャップを引っ被ってドレークの隣に潜り込むと、その蟠りがまた雁首をもたげてきて、ホーキンスの目を開けさせた。本当は白い漆喰の天井が灰色っぽく暗闇にくすんで、やたらとそれが気に障る。
──ドレーク……。