残温「王さん」
耳に馴染みのない声で呼ばれ、心臓が跳ねた。
焼き魚定食を食べる手を止めて振り返れば、予想通り。話したことのないクラスメートが立っている。
どうしたんだろう、教室じゃなくてわざわざ食堂で声をかけるだなんて。
「雨嘉さん」
「ぁ…えっと、何?」
驚きと不安で返事をしない私に、隣で野菜炒めを食べていた神琳が小声で囁く。やっと返事をしたけれど、これでは冷たく聞こえたかもしれない。
早くも自己嫌悪に陥りかけている私に、クラスメートは申し訳なさそうな顔をする。これは本当に返事が悪かったかも。
「お食事中に突然ごめんなさいね。次の実技が先生の都合で自習になったらしくて。王さん、教室にいらっしゃらなかったから、もしかしたらご存知ないかと思ったの」
確かに、私は座学の授業が終わった後、すぐに教室から出て行ったから知らなかった。
つまり、彼女は私を心配して、食堂で見かけたついでにわざわざ教えてくれたのだ。
あぁ、さっきの受け答え、本当にもっと上手くできなかったかな。
……違う、さっきのよりも今の方が大事。ええと、お礼を言わなきゃ……。
話す機会のないクラスメートって、距離感も微妙だな……。
一瞬そう思ってしまって、お礼を言おうとした口が止まる。
言うこと、これでいいのかなって躊躇って、喉から空気だけがヒュッと漏れた。
あ、まずい。
ひりつく喉の感覚がひどく不快だ。
机の下で両手を握りしめる。じわりと掌が汗ばむ感覚。
不意に手の甲に、何かが触れた。私の手よりも少し温度の低いそれは、手の甲をなぞると、私の固く握り込んだ手を包む。
それだけで、不思議なくらい強張った身体と心が解けて、やっと声帯が震えた。
「ありがとう……。知らなかったから、助かった」
クラスメートはそれならよかったと微笑む。
それから、改めて食事の邪魔をした非礼を詫びて去って行った。
食堂のざわめきと人波に消えて行った後ろ姿を見送ってから、ほう、と思わず息を吐く。
そんな私の惨状を見て、神琳はお疲れ様ですと微笑んだ。
「雨嘉さんが思うほど、人は気にしておりませんのに」
「……それでも気になっちゃうから」
もう残り少なかったお味噌汁は冷めている。飲み干してお昼ご飯は完食。
「さっきはありがとう、神琳」
「わたくしは何もしておりませんわ」
そう言って優雅にお茶を飲む。さっきのことは話題にするなと言わんばかりの態度。
以前、神琳を勇気づけたいと思って誰にも見られないように手を握ったことがあった。
あの件があってから、彼女も同じようにこうして誰にも見られないように手を握ってくるようになったのだ。
今のような私が困っている時に、あのしなやかな手に包まれると、氷が溶けるように、緊張も不安もどこかへ行ってしまう。神琳の勇敢さを与えられたみたい。
だけど最近は、ちょっとだけその頻度が増えた。
……増やしたの。
左手を神琳の右手に重ねる。その手の甲の上から指を絡めて握れば、掌にきめ細やかな肌が触れた。
「雨嘉さん?」
「なに?」
「……いいえ、何でもございませんわ」
名前を呼ばれて神琳の顔を見ると、宝石を埋め込んだかのような綺麗なオッドアイが私の目を見つめてくる。
私が答える気がないことは、神琳も分かっている。他ならない神琳がさっきそうしたのだから。
会話もなく無言で、握った手を振り解かれることもなく、私と神琳は座っている。
神琳の手を握った時は応援したい一心だったけど、神琳に嫌がられていない、むしろ好ましく思われていることは嬉しかった。
あの時からこれは、私と神琳だけの秘密。
神琳には言えないけど、本当は神琳と手を繋ぐとドキドキする。
神琳の手に触れると嬉しくて、だけど胸がちょっと苦しくなる。そんなドキドキ。
不安を和らげてくれる神琳の善意を利用する罪悪感は苦しいのに、それでも私は神琳と触れ合えることに喜びを覚えている。
「そろそろ教室に戻らないといけませんわね」
「あっ……そ、そうだね…」
パッと離れていった手。皮膚のなめらかさも、体温も、掌の硬さも、全部覚えているのに。
「雨嘉さん?」
「な、何でもないよ、なんでも……」
名残惜しいと、もう少し手を繋いでいたいと思っていることは、神琳には絶対に言えない。