恋心を忘れる魔法薬を飲んで7年分の記憶を失うジェイドの話6 モストロラウンジが一週間で最も忙しい週末のディナータイム、普段は滅多に営業に入る事のないアズールが、この日ばかりは他のスタッフたちと共にキッチンを忙しなく動き回っていた。
「支配人!料理が遅いとお客様からクレームが…!」
「今手が離せません!ジェイドに対応を…」
「それがジェイドさんは他のクレーム対応に当たっていて抜けられなくて……、責任者を出せと言って聞かないんです…!」
よほどタチの悪いクレーマーなのか、おどおどとするばかりの一年生スタッフに任せておいては収拾がつきそうもない。
アズールは作りかけの料理を手早く完成させ、溜まったオーダー表と睨めっこをしてあちこちへ指示を飛ばしてからホールへと向かう。
そしてサッと店内を見渡せば、食事どころかドリンクすら行き渡っていないテーブルが目立ってアズールはあぁと頭を振った。
ジェイドに絡んでいる客もかなりタチが悪そうでまだまだ解放されそうにはないし、料理の提供が遅れただでさえ雰囲気の悪い店内で、催促の視線に晒されたスタッフ達は動きも表情も硬い。
となればいつもはしないようなミスも増えて更に状況は悪化していく。
あぁ最悪だ。
フロイドさえいれば、ここまで悪化することはないのに。
今それを嘆いても仕方ないと分かってはいつつ、アズールはどうしてもフロイドの不在を責めてしまう。
せっかくジェイドがモストロラウンジに復帰したかと思えば、一難去ってまた一難。
ジェイドがひと通りの仕事を覚えて元通りに働き出して以降、今度はフロイドが全くシフトに出なくなってしまったのだ。
「おいアズール、フロイドにそろそろ部活に出るように言ってくれないか」
激闘の週末をなんとか乗り越え疲れ切って迎えた休み明けの教室、非常に不本意ながら、渋々、と言った様子でジャミルがアズールに声をかけた。
常ならばジャミルの方から声をかけられた事に嬉々として応じるアズールも、疲労困憊のこの朝は忌々しい思いでじとりとその顔を見返す。
「なぜ僕が」
「なぜも何もお前の寮生だろう。寮長として寮生の学園生活を正しく導いてやるべきじゃないか」
「はぁ……、正しくと言われましても」
普段なら絶対に他寮生の生活になど関心を示さない癖に、それらしい事を言って丸め込もうとしてくるジャミルにアズールは更に訝しげな視線を送る。
「と言うか、あいつ部活にも出てないんですか」
「……『にも』と言うと?」
「フロイドの奴このところずっとシフトもサボってるんですよ。もう一週間は来てませんね」
「そうなのか?そっちが忙しくて部活に来ない訳じゃないのか。俺から声を掛けた時はそう言ってたんだが」
「あぁ、以前はそうだったんですが今は違いますよ。お陰でこっちは忙しいったらありゃしない……。そういう訳で僕もあいつの気まぐれに付き合ってやる余裕はないので、部活の事は部活の方でなんとかして下さい」
「俺たちが言っても聞かないから君に言ってるんだよ。フロイドが素直に言うことを聞くのはアズールくらいだろう」
「は?あいつがいつも素直に僕の言うことを聞くはずないじゃないですか。第一今までだって部活には気まぐれにしか参加してなかったでしょう」
「それはそうなんだが、きまぐれにも来なくなってな」
「全く?」
「あぁ、来なくなってもう一月以上経ってる。それでさすがに先輩たちもおかんむりでな。これ以上サボるならもう試合には出さないと言い出して……。先輩達の気持ちも分からないじゃないが、フロイドが戦力として大きいのは確かだし俺としては残って欲しいんだが」
「おや、それは意外ですね。ジャミルさんはあまり僕たちと関わりたくないのかと思っていましたが」
「関わりたくないに決まってるだろう。だが試合の勝敗がかかってるとなれば話は別だ。生憎俺は負けるのが嫌いなんでね。勝つための要素は一つでも多い方がいいだろう」
「なるほど、そう言われると納得はいきますね。フロイドはあの気まぐれさえなければプロでも通用するんじゃないかと言われてますからね」
「そう…!そうなんだよ!練習さえ真面目に来てればレギュラーは確実なのに……、あいつだって一応は好きでやってるんだろうになんで実力を活かそうとしないんだ!」
「フフ、お気持ちは分かりますがあいつに無理矢理やらせようとしても無駄ですよ。相手が熱意を傾ける程やる気を失くすような奴ですから。本人の気が向かない限り僕にはなんとも」
「そこをやる気にさせるのがお前の仕事だろう」
「そう言われましても、フロイドが部活に精を出した所で僕に何の得もないじゃないですか」
「はぁ……、言うと思ったよ。だからお前に頼むは嫌なんだ」
「ですから僕に頼まれた所で何もできませんて。まぁ対価によっては考えますが」
そう言ってアズールがにこりと微笑めば、案の定ジャミルがうげっと顔を歪めてそれ以上食い下がっては来なかった。
アズールとてジャミルがその言葉に乗ってくるとははじめから思ってもいなかったが、フロイドがそんなに長く部活を休むのは珍しいなと少し気にかかる。
ジャミルの言う通りなんだかんだ言ってフロイドはバスケ部を気に入っているようで、そうでなければあの飽き性なフロイドが二年生になるまで続けているはずがない。
一年以上も同じ部活を、気まぐれにとは言え楽しそうに参加していた様子をアズールも知っている。
フロイドの事なのである日突然飽きてしまったという可能性も無くはないが、ラウンジにも現れず部活にも顔を出さず、ではフロイドは一体どこで何をしているのか。
ジェイドはフロイドの代わりにラウンジに出ずっぱりであるし、寮に帰って部屋で一人きりでする趣味があるとも思えない。
ジャミルにも言った通りフロイドがいつもアズールの言う通りに動くとは限らないが、それでも他人の言葉より耳を傾けてくれるのは確かだ。
ふむ、これは少し話を聞いてみた方がいいかもしれない。
ラウンジには現れなくても相変わらず昼食は三人一緒だし、昼休みにそれとなく聞いてみようと思いながら、アズールはほどなく始まった授業へ頭を切り替えていった。
「ジェイドだけですか」
「えぇ、そのようです」
「そうですか」
特に誘い合わせる訳でもなく昼食時になると自然と大食堂に集まる三人だが、いつもいつも三人が揃っている訳でもない。
それぞれの都合で誰かが欠けるのはよくあることで、フロイドが気まぐれに「今日は購買の気分」と来ないこともあるし、単純にサボって昼寝をしていたまま起きなかった事もある。
約束をしている訳ではなくともアズールとジェイドは来ないなりの連絡をするが、フロイドが来ない時に連絡はないので理由がわかるのはいつも後のことだ。
なのでよくある事に二人とも慣れきってはいるのだが、今朝ジャミルからあんな話をされた後ではアズールも気になってしまう。
「ジェイド、最近フロイドに変わった様子はありませんか?」
昼食を決めて席を取り、二人向かい合わせに座ってアズールが切り出すと、正面に座ったジェイドが不思議そうに首を傾げる。
「と言いますと?」
「いえ、あいつラウンジに全く来なくなったでしょう。それはお前の代わりに働き詰めだった反動かと思っていたんですが、部活にも行っていないらしくて」
「部活ですか……。そう言えばフロイドはバスケットボール部に所属しているんでしたね。僕が記憶を失くしてから一度も行った様子はありませんでしたが」
「そのようですね。ジャミルさんからフロイドを部活に行かせるように言われたんですが、僕に言われても」
「おやそうでしたか。いつもの気まぐれなんでしょうか」
「あいつの事ですから急に興味がなくなったのかとも思ったんですが、それなりに楽しんでいたようなので少し気になって。他になにか新しいことでもはじめたのかと」
「なるほど。何か別のことをしている様子もありませんが……、僕がラウンジから帰るといつも部屋にいますよ」
「部屋で何してるんですか?」
「特に何も。ベッドでゴロゴロしながら雑誌を読んでいたり、お菓子を広げたまま眠ってしまっている時もありますね」
「ぐうたらしてるだけじゃないですか。そんなに暇ならシフトに出てくれればいいものを……」
「僕もそう言ったんですが、それは気分じゃないそうで」
「『気分じゃない』ですか……」
フロイドがそう言ってアズールの言いつけをすっぽかすのもよくある事で、気の乗らないフロイドに無理強いさせても大概ロクなことにならない。
だからアズールはそういう時のフロイドに無理に仕事を押し付けるような事はしないが、「気分じゃない」ことがこんなに長く続くのは珍しい。
シフトをサボる事はあっても次に来た時は絶好調で新メニューを生み出したり、突然「今日は体を動かしたい」と言い出して部活でファインプレーを連発したり、とにかく波が激しいのがフロイドで、ずっと沈み込んでいるような事は滅多にないのだ。
やはり少しおかしいなと、改めて思いながらアズールは目の前に座るジェイドをチラと見る。
フロイドが気にかけることがあるとすれば、それはおそらくジェイドの事だ。
あれからアズールとジェイドの仲は問題なく順調で、変に意地を張り合ったり遠慮しすぎたりする事もなく良好な関係が続いている。
ジェイドはトレイ達のサポートを受けながら副寮長としての業務も難なくこなしているし、ラウンジの仕事はもう元通りと言って差し支えないくらいに完璧だ。
副寮長兼副支配人として、記憶を失ったジェイドはすっかり元のジェイドと遜色ないくらいに成長した。
それはフロイドとて喜ばしいことのはずなのに、ここまでフロイドの調子が上がらないのはなぜなんだろう。
「アズール、どうかしましたか?」
向いから飛んだきたその声にハッとしてアズールは顔を上げた。
フォークにサラダの野菜を刺したまま、手を止めてしまっていた事に気付いてアズールは慌ててそれを口に押し込む。
そしてそれをすっかり咀嚼して飲み込んでから、アズールは「なんでもありません」と取り繕った声で言った。
「フロイドのことが気になりますか?」
「そりゃ……。いつもの気まぐれならいいんですが、お前からもそれとなく部活に行くように促してみてくれませんか。ジャミルさんが言うにはこれ以上休むと試合に出してもらえなくなるそうなので」
「おやそれは残念です。僕もフロイドが試合で活躍する姿を見てみたかったんですが」
「ならそう言ってやりなさい。少しはやる気が出るかもしれませんし」
「だといいのですが」
そう言ってジェイドは少しだけ眉を下げて笑った。
アズール自身、言いながら望みは薄いだろうなと思う。
フロイドの感情の変化は本当に突発的で、一体何がどう作用するかは本人にすら分からない。
同じことが起こっても気分が上がる時もあれば下がる時もある。となればフロイドを完璧に誘導する事など不可能で、アズールやジェイドの言葉すらフロイドの気まぐれには歯が立たないのだ。
ジェイドはフロイドのそんなところまで好んで楽しんでいるようだけれど、変化が激しいのはともかくとしてずっと沈んだままのフロイドはフロイドらしくない。
このままの調子が続くようならやはり何かしらの対処を考えなければと心に留めて、気もそぞろになんとか午後の授業を終え、更に開店前にポイントカードを貯めた顧客の相談を一件。
忙しなく過ぎていく時間の中で自分からフロイドを探しにいく様な暇もない。
しかしなんとかして時間を作らなければなと考えながらアズールはまた目の前に積まれた仕事に没頭していく。
そしてカチャリと、机の上に陶器が触れる小さな音でアズールはやっと顔を上げた。
「ジェイド」
「お疲れさまです。ハーブティーを淹れましたので」
「あぁ、ありがとうございます」
元々気配を消すのが得意な奴ではあったが、この僕がここまで近づかれても気付かないなんてと、アズールは内心心臓をバクバクさせながらその香りに引き寄せられる様にティーカップを掴んだ。
そして一口含んでみれば、ほんのりと広がるラベンダーの香りにアズールの胸がほっと温かく満たされていく。
ラベンダー独特の苦味はあまりなく、わずかに感じる程度のはちみつの甘さが舌なじみ良く喉に落ちていく。
うん、僕好みの味だなとふっと口角を上げれば、まだそこに立っていたジェイドがうれしそうに頬を緩めた。
「上達しましたね」
「ありがとうございます。前回はすこし茶葉が多過ぎて苦味が強くなってしまったので」
「えぇ、今日はちょうどいいです。苦過ぎずそれでいて香りも十分楽しめる。それにはちみつも少し入ってますね。ほどよい甘さで美味しいです」
そう素直に褒めてやれば、ジェイドはますますその顔を綻ばせて目を細めた。
「はい、ほんの少しですが。あまり入れ過ぎるとあなたが気になさるかと」
以前までのジェイドならそこから更に余計なひとことやふたことが続くのだが、今のジェイドは褒められた事を本当にうれしそうににこりと笑うだけだ。
アズールが血の滲む様な努力で今の容姿を手に入れ、その維持のためにストイックな努力を続けている事をジェイドは心から尊敬しているし、それを揶揄って笑う様な事はない。
アズールはそんな純粋なジェイドを単純に好ましいと思うけれど、その一方で少しの物足りなさも感じていた。
断じて嫌味を言われたいわけではない。
余計なひと言などないならない方がいいに決まっている。
けれど、以前のジェイドだってアズールを本当に貶める様な事は決して言わなかった。
ジェイドの嫌味はほとんど言葉遊びのようなもので、もちろん苛つく事もあったけれど、アズールを深く傷付ける様な事は一度もなかった。
それはきっと、アズールがどんな事を本当に恐れ、どんな言葉が一番アズールを傷付けるのかジェイドが分かっていたからだ。
分かった上で、ジェイドはアズール自身を損なうようなことは絶対にしなかった。
結局、大事にされていたんだなとアズールは改めて思う。
いつも守られていた。
もう他人に守られなければならない程弱くないつもりでいたのに、ジェイドとフロイドが隣に居てくれるだけで、まるで無敵にでもなったのかのように思える。
そう思ってアズールはハッと顔を上げる。
そうだ、フロイドとも話をしなくては。
「ジェイド、あの後フロイドには会いましたか?」
アズールがふっとジェイドを見上げて言うと、その返事はあらぬ方から返ってきた。
「オレがなに?」
と言ったのは正にフロイドその人で、アズールは急に聞こえてきたその声の方を向いて目を見開いた。
「フロイド!なんでここにいるんだ!」
のそりとソファから起き上がったフロイドはどうやらだいぶ前からそこに寝そべっていたらしく、ジェイドだけならともかくフロイドが部屋に入ってきた事も気付かなかったなんてとアズールは頭を抱える。
と言うかそれよりも、フロイドがひとり沈み込んでいるのではないかと心配していたのに、いつもと変わらぬその呑気な表情に拍子抜けしてしまう。
「だって一人で部屋にいんの飽きたんだもん」
「部活はどうしたんですか。ジャミルさんから僕に苦情が来たんですが」
「なんで?まーなんでもいいけど。最近部活の気分じゃないんだよねぇ」
そう言ってふわぁと大あくびをすると、フロイドはそのまままたソファにごろんと寝転んでしまう。
「どこか調子でも悪いんですか?」
「んーん。そういうんじゃないけど」
「じゃあラウンジに出て働けばいいだろう」
「それも気分じゃなぁ〜い」
「全く…!お前が勝手に休んでるせいで店は大変なんですよ。働くつもりがないならせめてここでダラダラするんじゃない!」
「ちょっとくらいいいじゃん。どーせアズール気付いてなかったし」
「う…っ、それだけ仕事が山積みなんですよ!お前がサボってる分の皺寄せが僕たちに来てるんですからね!今日受けた案件だって……」
つい愚痴のようになってしまいながらアズールは自分の言葉でハッと思い出す。
そうだった。
今日新規で受けた相談について少し引っかかっていたのだ。
「ジェイド、さっきご相談にいらしたお客さまですが」
フロイドへの小言を一旦止めて、アズールは相談に同席していたジェイドに視線を戻す。
「ご依頼の薬自体は難しくもないですが、どうもご本人がきな臭いと言うか……。僕の提供した魔法薬で面倒が起こるのは御免ですから、依頼者の身辺について少し調べておいてもらえますか」
いつもの様にアズールがジェイドに指示を出し、ジェイドはそれに応えて「かしこまりました」と口を開き掛けてから、少し考えてきゅっと唇を結ぶ。
ジェイドからすぐに返事が無かったことを不思議に思ってアズールがジェイドを見上げれば、そこに立つジェイドではなく、ソファに寝そべっていたはずのフロイドから声がした。
「あー…、分かった。そっちはオレがやっとくからジェイドは店の方頼むね」
ソファから起き上がったフロイドはいつの間にかジェイドの隣まで来ていて、その肩をぽんぽんと叩くと「大丈夫だよ」と笑って見せる。
「ジェイドはジェイドの出来ることすればいーの。気にしなくていいから」
急に何の話だとアズールがもう一度ジェイドを見れば、さっきまで褒められて嬉しそうに笑っていたジェイドの面影はなく、どこか打ちひしがれた様に眉を下げたジェイドがいた。
「……はい、ありがとうございますフロイド。では僕はラウンジに戻りますので、失礼しますアズール」
一度アズールに向き直って軽く頭を下げたジェイドが、VIPルームを出て行く頃にはアズールもようやく自分の失態に気付く。
だからフロイドがいかにも不満気に自分を見下ろしていても、それは甘んじて受ける他ない。
ジェイドがいなくなったVIPルームで、さっきまでジェイドが居た場所に今度はフロイドが立ち、じとりとアズールを見下ろす。
「あんねアズール、ジェイドは昔からずっとなんでも出来るアズールのスーパー秘書だった訳じゃねぇんだよ」
反論の余地もない。
ついさっき嫌味を言わないジェイドに違和感を感じたばかりだと言うのに、仕事に関して言えば余りにも元のジェイドと遜色がないせいで、今のジェイドが過去七年分の記憶を失ったジェイドだということをすっかり失念していた。
飲み込みが早く教えられた事はなんでも直ぐに覚えるジェイドの働きは申し分なかった。
副寮長として、副支配人として、すっかり元のジェイドに戻ったと思っていた。
でも本当は、今のジェイドは急激に知識を詰め込んだだけの、かりそめのジェイドでしかない。
「ジェイドは確かに昔から頭いいしめちゃくちゃ要領も良かったけど、でも記憶を失くす前のジェイドになったのはこれまでの経験の積み重ねなの。それはアズールが一番分かんでしょ」
アズールが泣き虫の墨吐き坊やから突然今のアズールになったのではないように、ジェイドだって、幼い頃から今に至るまで様々な知識と経験を少しずつ蓄えてあのジェイドになったのだ。
「ジェイドが情報収集が得意なのは今までコツコツ積み上げてきた経験とあちこちに張り巡らしてきた人脈のおかげなわけ。今のジェイドは全校生徒の裏垢まで全部把握してるような変態じゃないんだからさ、今のジェイドに『こいつの事調べろ』って言ったって十歳で経験値止まってるジェイドには無理なの。ジェイドが有能なのはジェイド自身が長い時間を掛けて知識を積み上げたからであって、生まれた瞬間から人の懐に入り込むのが上手かったわけじゃねぇんだよ。それくらいアズールだってわかってんだろ」
アズールとジェイドのことには口を出さないと決めているフロイドが、黙ってはいられなかった。
ここまで言わなくてもアズールならもうとっくに気付いただろうと思うのに、これまでひとりで抱えていた思いが溢れるように次から次へとフロイドの口を突いて出る。
「記憶がなくてもジェイドはジェイドだよ。でもこの七年間の記憶を取り戻さない限り、オレらが知ってたジェイドには二度と会えねぇの」
溢れてそして、フロイドは自分自身の言葉に打ちのめされる。
オレはそんな風に考えてたのか。
ジェイドはジェイドなのに、今のジェイドが本当のジェイドじゃないみたいに。
「……オレは別にそれでもいいと思ってたよ。ジェイドが一緒にやってきた楽しいこと全部忘れてんのはちょっとさみしいけど、今のジェイド楽しそうだし、これからどんどん新しい知識を持ったジェイドがどんな風に変わってくのかも楽しみだったし」
それもまたフロイドの本心だった。
予定調和が嫌いで、変な所が凝り性で、訳の分からないものに好奇心を剥き出しにするジェイド。
そんなジェイドが記憶を失くして今度はどんな事に夢中になるのか、どんな楽しいものを見せてくれるのか、ワクワクしたのも嘘ではない。
ジェイドはいつもフロイドを楽しませてくれる。
お互いがお互いにとってそうで、だからふたりは唯一の兄弟で、相棒なのだ。
例え記憶を失っても、ジェイドがフロイドにとって唯一無二の存在である事に変わりはない。
それは間違いないのに。
「でもさ、そのジェイドはアズールの努力をずっと励ましてきたジェイドじゃないんだよ」
その言葉が、アズールの胸にぐさりと刺さる。
そして今まで考えないようにしてきた事が、急激にその胸にもやもやと広がっていく。
ジェイドが「すごい」と言ってくれたからここまで来れた。
言われなくてもきっと努力はやめなかっただろうけれど、ジェイドとフロイドがそばに居てくれたこそ今のアズールがいるのだ。
ふたりがそばに居なければ、今ここにいる僕はきっと別の僕だった。
フロイドが居て僕が居て、それなのにジェイドだけがずっと一緒にいたジェイドじゃない。
今のジェイドは僕が積み重ねてきた道も、踏み外しそうになってオーバーブロットした事も、そこからまた歩き出したことも、なに一つ知らない。
「オレはジェイドのしたい様にすればいいと思うけど、アズールだってアズールのしたい様にすればいいと思ってる」
もしもジェイドが望まなくても、アズールが望むならそれはアズールの自由だ。
どっちの肩を持つ気もないけれど、ジェイドとアズールには、それぞれに信じる道を貫いてほしい。
「アズールはどっち?」
フロイドの射るような視線がアズールを突き刺す。
「今のままのジェイドと、記憶を取り戻したジェイドと、どっちと一緒にいたい?」
真っ直ぐに問いかけられたその言葉に、アズールはすぐに答えを見つけ出すことができなかった。
互いの本心を言えずぐだぐだと悩んでいた以前ならともかく、今のジェイドとの関係は良好だ。
今のジェイドはアズールに恋愛的な好意を向けることもなく、嫌味や小言も言ってこない。
アズールの役に立ちたいそばに置いて欲しいと従順な態度を見せてくれるし、その働きぶりをきちんと評価してやれば素直に喜んでくれる。
恋情を向けられなければそれに応えられない自分に悩むこともなく、ジェイドの想いを踏み躙って傷付ける事もない。
正直、今のままなら全てが丸く収まるじゃないかと思う。
全てが円満で、穏やかで、それなのに、アズールの胸に広がったもやもやは一向に晴れそうもない。
「僕は……、」
僕はどうしたいんだろう。
今のままで何も問題はないはずなのに、どうして僕は即答できないんだろう。
黙り込んだアズールを残してVIPルームを出た後、そのまま部屋へ帰る気にもなれず、フロイドは何をするでもなく鏡舎を抜けてまた校舎への道を歩いていた。
この頃ずっとうつうつとして気分が晴れない。
アズールとジェイドが素直になって歩み寄ったのは嬉しいことなのに、ジェイドが以前のような日常に戻っても、やっぱりどこか変わってしまった今の生活がしっくり来ないのだ。
なんの変化もない日常は面白くなくて、変化は歓迎すべきもののはずなのに、フロイドの胸にはなぜかすっきりしないもやもやばかりが広がっていく。
端的に言えばつまらない。
そう、つまらないのだ何もかも。
しかしフロイドはそう感じる度、記憶を失ったばかりの頃のジェイドの言葉を思い出す。
「今の僕はつまらないですか」と、らしくもなく弱気に言ったジェイド。
あの時はジェイドがどうしてそんなことを言うのか分からなかったけれど、今になってすこしわかり始めてしまったことをフロイドは認めたくなかった。
「ジェイドはジェイド」
フロイドは自分に言い聞かせるように声に出して呟いた。
記憶があってもなくてもその事実は変わらない。
世界でただひとり、唯一無二の片割れ。
ジェイドに飽きるなんてそんな事絶対にあり得ないと思っていたし、今だって別に飽きた訳じゃない。
でも、なにかがしっくり来ない。
今までは隣にぴたりとハマっていた半分が、歪に形を変えてしまったような。
でもこれはジェイドが選んだ道だ。
想像していたものとは違っても、ジェイドが自分で決めて起こした行動の結果なのだから、自分はただそれを受け入れてやるべきなのだと思う。
オレはオレ、ジェイドはジェイド。
兄弟だからってずっと一緒なわけじゃない。
この先いつかは、きっと道を違える時が来る。
それが思っていたよりも少し早く来ただけなのかもしれない。
そう考えてみても、失われたジェイドの記憶と一緒に、フロイド自身まで何かを失くしてしまったような喪失感がどうしても拭えない。
「あーくそ……っ」
頭では分かることに感情が追いつかず、どうにもならない状況にイライラばかりが募る。
ジェイドは今もそこにいる。
フロイドは何も失くしてはいないのに、その胸に確かにある喪失感をどうする事もできずただひとりで抱え込むしかできなかった。
「フロイド、こんな所で何をしているんだい」
考えることを放棄して辺りの草っ原に適当に寝転び、そのまま眠りに落ちてどのくらい経ったのか、フロイドは頭の上から降ってきたその声で目を覚ました。
「金魚ちゃん、何してんの」
「それはこっちのセリフだよ。僕は図書館で勉強をして今帰る所だけど、キミこそ何をしてるんだい。もう日も暮れたっていうのにこんな所で寝ていたら風邪をひくよ」
そう言われて改めて辺りを見回せば、言われた通り辺りは薄暗く気温もすこし下がったようだ。
いつもなら見つけた瞬間飛びかかって来るようなフロイドが、状況を確認してもまだ呆けた様子でいる事を少し不審に思いながら、リドルはまだ起き上がらないフロイドをまじまじと覗き込む。
「大丈夫かいフロイド、体調でも悪いのかい?」
「……そーじゃねぇけど」
「起き上がれないのかい?」
「んーん、大丈夫。だるいだけ」
「ならいいけど、真っ暗になってしまう前に寮に戻ったらどうだい」
「んー……、そのうち戻る」
「そのうちって、放っておいたらまた寝そうじゃないかキミ」
「もう寝ねーって。大丈夫だから放っといていいよ」
正直受け答えをすることすら面倒ではあるが、いつもなら絶対に近寄ってこないリドルが自ら声を掛けてくるのは珍しいなと、フロイドはまじまじその顔を見上げる。
するとリドルも同じような顔で自分を覗き込んでいて、フロイドはなんだか少し可笑しくなってふっと気が抜けたように笑った。
「なぁに金魚ちゃん、オレの顔になんかついてる?」
「いや、キミが飛びかかって来ないのもなんだか新鮮だなと思って」
「えー?オレいっつもそんなことしてた?」
「してるだろう!いつもはボクを見るなり追い回してくる癖に……」
「あは、ごめぇん。金魚ちゃんの反応面白ぇんだもん」
「全く……!僕はいつもキミに構っていられるほどヒマではないんだよ」
リドルは呆れた顔でそう言いながら、全く反省する様子もなくへらへらと笑っているフロイドに小さくため息を吐く。
しかしそんなフロイドに呆れながら、一方でほんの少し心配もしていた。
成り行きとは言え、今回のジェイドの騒動を知っている身としてはやはりその後の動向も気になってしまう。
側から見ている限りジェイドはもうすっかり元の顔に戻ったようだけれど、ここ最近のフロイドの様子にはリドルですら違和感を抱いていた。
「……でも最近はさっぱりだね。キミが大人しくてボクとしては助かるけれど」
「じゃあいいじゃん」
「そうなんだけど、キミの元気がないと少し調子が狂うよ」
「まじ?金魚ちゃんオレのことだいすきじゃん」
「断じて好きではないけれどね」
「ハッキリ言い過ぎ〜!あはは……」
きっぱりと言い切るリドルの潔さに笑いながら、しかしフロイドの笑い声はすぐに乾いたものに変わっていった。
何もかもつまらない。
面白いと思ったこともほんの数分すら続かない。
今まで興味のあった事も全てがつまらなく見えて、何をしていても満たされない気がした。
いつものリドルなら深く関わらずさっさと去って行きそうなものなのに、この日リドルはなぜかそうしなかった。
そしてフロイドも、隣に腰を下ろしたリドルになぜか聞かれてもいない事を話してしまう。
「なんか、ずっと変な感じなんだよね。ずっとどっか欠けてる感じで、なんもやる気起きねーの」
「……それは、ジェイドのことかい?」
「多分ね。それ以外にないし」
そう、多分も何も、それ以外にない。
こんなにもモヤモヤとした気分を引きずったままいつまでも晴れないのは、ジェイドが大事な片割れであるからの他にない。
「兄弟が記憶喪失になってしまったんだからそう感じるのは普通の事じゃないかな……?」
「記憶失くしたのはオレじゃないのに?オレ自身は何にも欠けてないよ」
「そうだけど、キミ達は本当に仲がいいし」
「んー…、兄弟つってもオレはオレでジェイドはジェイドじゃん。兄弟だって考えることは全然違うし、オレは別にジェイドがいいならそれでいいって思うんだよね」
「記憶を失っても?」
「うん。ジェイド自身が楽しくできてることが一番じゃん?だからオレはジェイドが楽しくなるようにたま〜に協力したりするけど、基本的にはジェイドが勝手に好きなことすりゃいいと思ってんの」
フロイドはまるで自分に言い聞かせるように言葉を紡いでいた。
だってずっとそう思ってきた。
ジェイドとフロイドは違う。
兄弟でも完全に別の存在だ。
好きな事も違うし考え方も違う。
違うから楽しくて、たまに腹の立つ事もあるけれど、ジェイドはジェイドだから特別なのに。
「今のジェイド楽しそうだし、だったらなんも言うことねぇはずなんだけど」
アズールへの恋心を忘れて、それでもアズールの側にいたくて、アズールの役に立てることをなによりも喜んでいる今のジェイドは幸せそうだ。
叶わない想いに苦しむ事も、アズールに拒絶されて傷付く事もない。
何も問題はなくて、全てが上手くいっているはずなのに。
「なんかなぁ」
目を瞑ったフロイドの瞼の裏には、三人で一緒に悪巧みをして楽しそうに笑っていたジェイドの顔が浮かぶ。
アズールのとんでもない思いつきを叶えるのが楽しくて、それが面倒なら面倒なほどジェイドは燃えるのだ。
アズールの望みに応えるためならいくらでも頑張って、どんなに苦労をしてもアズールの前ではこのくらい当然ですという顔で澄まして、それなのにアズールに褒められた日にはいつまでもひとりでニヤニヤしているような男なのだ。
アズールの前では絶対にそんなだらしない顔を見せないくせに、そんなジェイドを、フロイドはずっとそばで見てきた。
フロイドはそんなジェイドを思い出しながら、あいつ本当にバカだよなぁとふっと笑う。
そしてどうしようもなくこみ上げる思いが、ぽろりと言葉になってこぼれていた。
「ジェイドにあいたいなぁ……」
会いたい。
ずっと一緒にいたジェイドに。
「キミ、本当はすごくさみしいんじゃないかい?」
フロイドはその言葉でぱちりと瞼を開き、むくりと起き上がって隣に座るリドルを見つめた。
「さみしい?」
「そうだよ。ジェイドがいいならそれでいいっていうのも本心なんだろうけど、それはジェイドを思っての事だろう?」
「はぁ……?金魚ちゃんまでオレが兄弟思いとかキモいこと言うの?」
「兄弟思いなのはいい事だろう?それがキモいって言うのはボクにはよく分からないけど……、そうじゃなくて、キミ自身の本音は違うんじゃないかってことだよ」
「は……?」
「『ジェイドに会いたい』っていうのが、フロイドの本音じゃないのかい」
なんの躊躇もなく率直に投げられたその言葉に、フロイドはらしくもなく言葉に詰まってしまった。
自分がそんなことを望んでいるなんて認めたくなかったのに、ついぽろりとこぼれてしまったその言葉は嘘偽りない今のフロイドの思いだ。
「ジェイドは覚えていないんだから今が楽しいのは彼にとっていいことかもしれないけど、フロイドは記憶を失くしていない頃のジェイドに会いたいんだろう?」
「……そんなことねぇし」
「なぜ否定したいのか分からないんだけど、別にキミがそう思うのは悪いことではないだろう?家族が記憶喪失になんてなったら記憶を戻したいと思うのが普通だろうし……」
「そういうんじゃねーの」
「じゃあどういうことだい?よく分からないんだけど……」
リドルはただ本当に分からないといった様子できょとんと首を傾げた。
リドルに兄弟はいないので兄弟間のことはよく分からない。
けれどもしも家族が病気になれば早く治って欲しいと思うのが普通だし、もし記憶を失くしてしまったら思い出して欲しいと思うのは当然な気がする。
だからフロイドがそう望むのは何もおかしくはないと思うのに、フロイドがなぜそれを否定したがるのかが分からなかった。
別に分からないなら分からないでいいと、いつもならわざわざ説明してやるようなフロイドではないのに、そんな風に無垢な瞳を向けるリドルに今日はなぜか口が滑ってしまう。
「だって、ジェイドはアズールに拒絶されたから記憶を消す事にしたのに、記憶を失くしたジェイドをオレまで否定したらジェイドの居場所がなくなっちゃうじゃん」
もしそんな事になったらジェイドはふらりとどこかへ行ってしまいそうだ。
本当はさみしがりな癖にプライドだけは高くて、アズールやフロイドにさえ弱みを見せたがらないジェイドは、自分達に格好悪いところを見せるくらいなら消えた方がマシくらいに思っている。
そんなジェイドがアズールにもフロイドにも拒絶されたら、きっともうそばには居てくれないだろう。
「だからオレだけはジェイドを否定しちゃダメなの」
フロイドのその言葉に、リドルは感心した様に頷いてまじまじとフロイドを見た。
「やっぱりキミは兄弟思いだね」
「ちげぇし。キモいこと言うなっつーの」
「兄弟思いなのはキモくないと思うんだけど……」
「だからそれはもういーって」
「フフ、やっぱりキミ達は似たもの兄弟だね」
「はぁ〜?全然似てねぇし」
「兄弟思いな所がそっくりじゃないか」
「は?」
「星送りの時のジェイドの願いを聞いたかい?」
また双子だから似てるとか双子なのに似ていないとかそういう話が始まるのかと思えば、リドルは突然何を言い出すのかとフロイドは目を丸める。
「なにそれ知らない」
「クラスでその話になった時にたまたま本人から聞いたんだけど、ジェイドの願いは『アズールとフロイドの願いを叶えられますように』だったらしいよ」
「……は?なにそれ」
「僕も聞いた時はよく分からなかったけど、おかしな言い方をするなと思ったんだよね」
「おかしいって?」
「『叶いますように』じゃなくて『叶えられますように』って言うのは、ジェイド自身がキミ達の願いを叶えたいってことだろう?」
「は……、え?そう…?」
「多分だけど、ジェイドはきっと自分の力でキミ達の願いを叶えてあげたいってことなんじゃないかい?」
「ジェイドがオレにテネーブルの靴買ってくれるってこと?」
「ふっ、キミの願いはそれだったのかい?まぁピンポイントでそれとは言わなくても、ジェイドはキミたちの望むことを自分が叶えてあげたいって思ってたんじゃないかな」
フロイドには分からないようで分かる。
自分の願いを人の為に使うなんてバカらしいと思うけれど、ジェイドには確かにそういう所がある。
アズールがどんなに無茶振りしてもうれしそうだし、フロイドが突然思いつきではじめる事もいつも咎めず見ていてくれる。
そしてそんな風に自由に楽しんでいるふたりを見るのがジェイドはなによりも好きなのだ。
「まぁあの時はジェイドがそんな殊勝な事を言うなんて胡散臭いとしか思わなかったけど……」
「あはっ、ジェイド全然信用されてなくてウケる」
「日頃の行いのせいだろう。でもまぁ、その気持ちは僕もわかるよ。僕もいつも助けてくれる人たちの為に少しでも何か返せたらって思うし」
「ウミガメくんとか?ハナダイくんも金魚ちゃんに甘いよねぇ」
「う…っ、そうだね、それになんだかんだ後輩達も気にかけてくれているようだし…」
「カニちゃん達だ〜。サバちゃんとかすぐ『うちのカシラが』とか言ってまじウケんだけど」
「カシラ……?よく分からないけれど、大切な人が喜んでくれるのは僕もうれしいし、つまりジェイドもそうなんだと思うよ」
「そうかなぁ〜〜〜?」
「きっとそうだよ。キミが望むなら、ジェイドはそれに応えたいと思ってくれるはずだよ」
「都合よく考えすぎじゃね」
「どうかな。僕はジェイドじゃないから本当のところはわからないけど」
「無責任〜」
「ふふ、でも、最近のらしくないキミを見ているとどうもね」
「なに」
「ジェイドもそんなキミの姿は望んでいなかったんじゃないかと思って」
フロイドはすぐに言葉を返すことができず黙り込む。
金魚ちゃんに何がわかんの、とは言えなかった。
もしジェイドが今の自分を見たら、きっと楽しんではくれなかったに違いない。
それどころか「最近のあなたはつまらないです」なんて、バッサリ切り捨てられていたかもしれない。
人の気も知らないでと、フロイドは想像の中のジェイドに悪態を吐く。
でも
「そーかも」
気まぐれな自分を咎めずいつも一緒に楽しんでくれるジェイドは、うだうだ悩んで腐ってるだけの自分なんてきっと見たくないだろう。
アズールのためとかジェイドのためとか、そうじゃなくて、ジェイドは自分自身の為に自由に生きるオレを楽しんでくれていたんだから。
「金魚ちゃん」
「なんだい?」
「ありがとねぇ。なんか久々にすっきりした」
「……そうかい。じゃあ僕はもう行くよ」
「あはは照れてんの。また追いかけっこしよーね」
「しないよ!もういいからさっさと寮へお帰り」
「ん、帰るわ。早くジェイドに会いたいし」
「ふっ、キミは変な所が素直だね」
「えー変?どこが?」
「なんでもないよ。ただキミ達は本当に仲がいいなと思っただけだよ」
「そぉ?別に普通だと思うけど」
「ボクは兄弟がいないから兄弟の普通は分からないけれど、キミ達みたいに仲のいい兄弟は少し羨ましいよ」
「え〜なに、じゃあ金魚ちゃんもウチの子になる〜?金魚ちゃんならいいよぉ」
「はっ!?なるわけないだろう!キミ達みたいのと兄弟なんて絶対に御免だね」
「ひっでぇ〜、さっきはうらやましいって言ったくせに」
「それとこれとは話が別だよ。今から兄弟になったって僕がキミ達の様な関係になるわけじゃないじゃないか。キミ達はずっと一緒に育ってきたからこそ今の関係なんだろう?」
「確かに」
「全く……、キミの兄弟なんてできるのはジェイドくらいのものだよ」
「んふふ」
「なんだい気色悪いな……」
「金魚ちゃん分かってんなーと思って。やっぱオレの兄弟はジェイドだけだよね」
ジェイドとふたり、兄弟だけで完結していた世界にアズールが加わって、ふたりの世界はより一層楽しくなった。
それでもアズールは決して兄弟ではなくアズールはアズールで、フロイドにとっての兄弟はどうしたってジェイドしかいないのだ。
ジェイドが選んでくれた日から、それはもう変わらない。
「じゃーね金魚ちゃんばいばい!」
そう言ったかと思うとフロイドはあっという間に駆け出していた。
二人とも寮に向かうのだから鏡舎への道のりは同じだというのに、フロイドがその長い足で大股に走り出せば到底リドルの足では追いつけない。
まぁ追いかけるような理由もないのだが、嵐のように去って行ったフロイドに取り残された様な気分になりながら、リドルはひとり「はぁ」とため息を吐いた。
ボクはもしかして余計な事を言ってしまったのかもしれない。
近頃はフロイドが大人しくてせっかく穏やかに過ごせていたのに、すっかり調子を取り戻したフロイドに追いかけ回される日々も遠くはなさそうだ。
リドルはもう一度大きくため息を吐き、それから少しだけニッと口角を上げた。
いつまでもやられっぱなしでいるボクじゃない。
次にフロイドに追いかけ回されたら、その時はどうやって返り討ちにしてやろう。
週明けのモストロラウンジは閑散としていた。
週末のあの賑わいは一体どこへいったのか、授業が始まる月曜のラウンジは比較的空いていることが多い。
そんな来客もまばらな店内で、カウンターに立ってグラスを磨くジェイドの手が止まる事はないが気はそぞろだ。
フロイドには「大丈夫だよ」と言われたけれど、アズールの言葉に応えられなかったことが、いつまでもジェイドの胸をじくじくと苛んでいた。
熱を出した翌日以来、アズールとの関係はすこぶる順調だ。
副寮長の仕事もなんとかこなしているしラウンジの仕事はキッチンもホールももうほとんど覚え、事務作業だって問題ない。
その働きぶりをアズールはよく褒めてくれるし、ジェイド自身、アズールの役に立てていると自負もしていた。
でも。
以前の自分ならきっと、アズールの求めに躊躇うことなく「かしこまりました」と答えられていたのだろう。
そう思うと、ジェイドはどうしても「今の自分」の存在意義を考えてしまう。
記憶を失ってもフロイドがそばに居てくれたおかげでほとんど困る事はなかったし、アズールのために働く毎日は楽しい。
それ以外だって、学園には面白いことがたくさんあって興味は尽きない。
まだまだ毎日が新しい発見の連続で、アズールとフロイドと過ごす学園生活は満ち足りている。
そうだ。これ以上ないほど楽しい陸の生活に僕は満足している。
そう思いながら、一方で「本当に?」と自問するジェイドがいた。
僕は本当に満足しているんだろか。
なんの不足もないようなこの毎日に。
この平和で安穏とした日々は、僕にとって本当に満ち足りているんだろうか。
以前の自分であれば、きっともっとたくさんアズールの要望に応えられたに違いない。
今の僕にはできない事を、おそらくは易々とこなしていた以前の僕。
以前の自分がそうであったなら、僕だって今からその力を身につければいいだけのこと。
けれど記憶の中にいるアズールと今のアズールがあまりに違うように、今の自分が失ってしまった七年間を過ごした僕は、今の僕とはあまりに違う。
その七年間を取り戻すのは、途方もない事に思えてジェイドは長いため息を吐いた。
いくら知識を詰め込んだ所で今すぐ以前のジェイドには戻れない。
その頃と全く同じ自分になりたいわけではないけれど、アズールが躊躇わずに頼ってくれる存在ではありたかった。
そしてなによりも、ずっとアズールのそばにいながら、この七年のアズールの記憶を全て失ってしまったことが悔しい。
クズでノロマな泣き虫だった蛸の子が、貪欲に足掻いてこんなにも逞しく成長していく姿を僕はずっと見ていたはずなのに、それをなにひとつ思い出せない。
そんな事を、本来の僕は望んでいたんだろうか。
とてもそうは思えないけれど一方で、自分がそれを決断するほどの出来事があったのだと思うと、どうしても今一歩踏み込めず尻込みしてしまうジェイドがいた。
記憶を取り戻せば今よりもずっとアズールの役に立てる。
でもそれは同時に、薬を飲んでまで自分が忘れたかった事を思い出す事でもある。
それを思い出した時自分はどうするのか、そしてアズールは、そんな僕を受け入れてくれるのか。
知りたいけど知りたくない。
なんの問題もない今の幸福をずっと噛み締めていたいけれど、自分の持てる力の全てでアズールを支えたい。
知る事は怖いけれど、アズールに失望される事はもっと怖い。
そしてそれよりももっと、アズールに腫れ物に触るように優しくされるのが辛かった。
アズールはジェイドを傷付けないように優しく、丁寧にジェイドに接してくれる。
しかしアズールはそんな人だったろうかと、ジェイドは思い出せない記憶を探る。
僕に気を遣って言葉を選び、僕の顔色を窺って仕事を選ぶ。
そして今日のように、申し訳なさそうに眉を下げる。
僕が見たかったのは、そんなアズールだっただろうか?
「アズール……」
そこがモストロラウンジのカウンターだという事も忘れて、ジェイドはぽつりとその名を呟いた。
こんなにもアズールのことばかり考えてしまうのはどうしてだろうとずっと思っていた。
その姿を見るだけでなぜか心が躍って、アズールの言葉ひとつひとつに一喜一憂してしまう。
顔が見られないと寂しくて、同じ学園にいるというのに半日会っていないだけでも会いたくてたまらない。
そしてその顔を見れば、途端に華やぐ世界に浮き足立つ心はどうしても止められない。
それはまるで、おとぎ話の主人公が王子様に恋でもするように。
そう気付いて、ジェイドははたとグラスを磨いていた手を止めた。
恋。
そうだまるで、この気持ちは本でしか読んだことのない恋心のようだ。
いつもアズールのそばにいたくて、彼の役に立ちたくて、できることなら片時も離れずにその全てを見ていたい。
自分以外の者がアズールをよく知っているような話を聞くとモヤモヤとするのは、自分が彼の一番の理解者でありたいと思うが故の独占欲だ。
そしてそれは、「嫉妬」と呼ばれる感情に他ならない。
「そうだったんですね……」
そこでようやく、ジェイドは全てに合点がいった気がした。
僕はアズールが好きだった。
けれどアズールに受け入れてもらう事が出来ず、その思いを忘れるために忘却薬を飲んだ。
おそらくは、これからもずっと彼のそばにいるために。
僕の思いは、邪魔だったから。
あぁ、あぁそうか。
そんなに単純な事だったのか。
僕が忘れたかった「特定の感情」とは、アズールへの恋心だった。
そうだとしたら、アズールが拒絶するのは当然だとジェイドは思う。
同性に思いを寄せられるなど、そんな事受け入れられなくて当然だ。
つまり僕が薬を飲んだのは「アズールのせい」なんかではなく、僕自身のせいじゃないか。
僕自身の思いが、アズールに僕を拒絶させた。
その瞬間、全てがすとんと腑に落ちてしまった。
今ならその時の自分の気持ちがわかる。
記憶を失ってさえもジェイドはアズールに恋焦がれ、その隣に置いて欲しいと望んでいる。
そこにいられるなくなると思うと、それだけで絶望の淵に沈み込んでしまいそうなほどに。
だからそうなるくらいならと、自分はその思いを手放したのだ。
この思いがアズールの邪魔になるのなら、そんなもの捨てても構わないと。
でもやっぱり、記憶を失くしても僕は僕でしかなかった。
きっと何度忘れても、僕はアズールに恋をする。
あなたの行動は無駄でしたねと、ジェイドはほんの一ヶ月前の自分を自嘲する。
失くしても失くならない。
忘れても忘れられない。
ジェイドにとってアズールとはそういう存在なのだ。
我ながら諦めが悪い、そう思いながら、ジェイドは少し眉を下げて目を細めた。
忘れられないのなら、貫くしかない。
そう思って少し俯いていた顔を上げれば、その視界に最初に飛び込んできたのはフロイドだった。
「なんだ超ヒマそうじゃん。今なら抜けてもいいよね」
そう言ったかと思うとフロイドはカウンターに回り込んでジェイドの腕を掴み、一番近くにいたスタッフに「ジェイド連れてくね」と声を掛けてそのままずんずんと歩き出した。
「え、フロイド?」
「アズールんとこいこ」
「は?僕は仕事中ですよ」
「グラス持ってぼーっとする仕事?」
「それは……」
「空いてんだからいいじゃん。グラス磨くより大事なことだから」
ジェイドの腕を掴んだフロイドの手は緩まず、その長い足がフロアを突っ切って大股に進むのにジェイドも従わざるを得ない。
そしてあっという間にアズールのいるVIPルームに着いてしまったフロイドは、ノックもせず無遠慮にそのドアを乱暴に開いた。
「アズール!ちょっと話あんだけど」
バンっ!という大きな音と共に飛び込んできたフロイドの声にアズールはビクリと肩を揺らし、フロイドに引き摺られるようにして入ってきたジェイドに目を丸める。
「何をしてるんですかお前たち、営業中ですよ」
「知ってるけど超空いてたよ」
「はぁ……、やはり月曜は客入りがいまいち………、じゃなくて、どうしたんですか二人揃って」
「さぁ……、僕はフロイドに無理やり」
「それは見れば分かります。フロイド、何かあったんですか」
「なにかって言うか、とりあえず腹割って話そうと思って」
淡々とそう言うフロイドに、アズールとジェイドは揃って目を丸めその顔を凝視する。
様子のおかしいフロイドときちんと話をしなければと思っていたのはアズールの方なのに、まさかフロイドの方からこうくるとは思ってもいなかった。
「あのさぁ、ジェイドが記憶失くしたばっかの頃、アズールがオレに僕のこと怒ってるのかって何回も聞いてきたじゃん」
「え?あぁ……、そうですね」
もうずいぶん前のことのように感じる、ひと月前のことをアズールはぼんやりと思い出す。
普段は興味のあること以外積極的に関わろうとしないフロイドが、やけに突っかかるような態度だった。
アズールとジェイドのいざこざなんてめんどくさいと言って放っておくのがいつものフロイドなのに、自分から仲介役を買って出るような事は本当に珍しかった。
事がことだけに普段の小さなケンカと同じ様に流せなかったのも分かるが、それにしてもお節介な程に言葉数が多かったフロイドの事を、きっと自分に怒っているのだろうとアズールは思ったのだ。
しかしその後はいつも通り我関せずなフロイドに戻ったのでその時の事などすっかり忘れていたが、なぜ今になって蒸し返すのかと不思議に思う。
「あん時はマジで怒ってねーのになんで何回も言ってくんだろって思ってたんだけど、やっぱ違ったわ」
「今更……?」
「うん。オレ今すげーむかついてんの。自分のほんとの気持ちを簡単に忘れようとしたジェイドのことも、その原因作ったアズールのことも」
話の矛先がアズールに向けられていた中で突然名前を呼ばれたジェイドはびくりと肩を揺らし、同じように名指しされたアズールもどきりとする。
「オレ別にジェイドはジェイドのしたいように勝手にすればいいって思ってたけど、ほんとは違ったみたい」
ジェイドがポカンとして「え……?」と口を開くと、フロイドの視線がきっとその間の抜けた顔を捉える。
「ジェイドが今までのこと全部忘れてひとりで楽しんでんのすげーヤダ!今までだってずっと一緒に楽しいことしてきたのになんでお前だけ忘れてんの?ジェイドはオレらの事忘れちゃったの全然平気なわけ?なんで勝手に忘れて勝手に楽しんでんだよすげぇムカつく!」
「フロイド……」
「アズールもさぁ!」
ジェイドの方を向いていたフロイドがサッと向きを変え、今度はアズールをぎろりと睨みつけた。
「ジェイドがどんだけアズールの為に働いてきたか分かってるくせにあの言い方はマジで無かったから!それなのに自分のこと忘れられたからって今更気付いて後悔しても遅ぇんだよ!なんでお前らってそうなわけ?そんでもってひとりで勝手に抱え込んでぐだぐだ悩んでさぁ!」
堰を切ったように溢れ出すフロイドの言葉にアズールとジェイドはわたわたと慌てるしかできなかった。
今までずっと静観してくれていたフロイドが、本当はそんな事を思っていたなんて考えもしなかった。
アズールもジェイドも自分のことで精一杯で、お互いを探り合うことにばかり気を取られていて、その陰でフロイドがどんな気持ちでいたかなど考える余裕もなかった。
掛ける言葉もなく黙り込む二人を前に、フロイドは大袈裟にため息を吐いてトーンを落とす。
「……んで、オレもそうだった」
「え?」
「オレは当事者じゃねーしジェイドとアズールのことに口出さないようにしよって思ってたの。ジェイドはジェイドのすきなようにするのが一番だし、アズールだってジェイドの為に色々考えて頑張ってたのはわかってたからオレはなんも言うことねぇじゃん」
別に物分かりのいい自分を演じようと思っていたわけではない。
ジェイドはジェイドの、アズールはアズールの思うように自分で考えて行動するのが一番で、その結果がどうあれフロイドがそこに干渉するべきではないと思っていた。
ジェイドもアズールも幼い子供ではないのだから、自分が手を差し伸べて導いてやる事もない。
でもいつの間にかそれが、フロイドの思考までも不自由にしていた。
アズールとフロイドの関係に自分の感情を挟むべきではないと自らを押し殺して、知らぬ内に閉じ込めていた。
アズールやジェイドがひとりで考え込んで悩んでいるのをバカらしいとすら思っていたのに、フロイドもまた、その二人と同じことをしていたのだ。
「でもすげーつまんなかった」
アズールとジェイドは何も言えないまま、顰めっ面をしたフロイドが零す言葉に一心に耳を傾ける。
「ジェイドに飽きたとかそういうことじゃねぇよ。でもなんかちげーの。二人ともお互いに気ぃ遣って探り探りでさ、表面上は上手くいってるけどなんかしっくりこない」
フロイドのその言葉に、アズールとジェイドは同時にぎくりとする。
何もかも上手くいっている。上手くいっている様に見えて、どこかで拭えない違和感。
それぞれ形は違えど、三人は三人とも同じように違和感を感じていた。
「だからオレもう黙って見てんのやめる」
眉間に皺を寄せて少し視線を下げていたフロイドが顔を上げ、ジェイドとアズールの顔を順繰りに見る。
「オレ戻りたい。ジェイドがちゃんと全部覚えてた頃に。オレはジェイドに記憶を取り戻して欲しいよ」
ジェイドはひゅ、と息を飲んだ。
こんなに真剣なフロイドの顔は久々に見た気がする。
記憶を失くしたジェイドにフロイドはいつも優しかったけれど、きっとこれが嘘偽りないフロイドの本心なのだとジェイドにもわかる。
「お前らはどうなの。ほんとに今のままでいいと思ってんの」
そう問いかけられて、アズールはやっと決意した様にきゅっと唇を結んだ。
それから一度ゆっくりと息を吸い込み、深呼吸をしてスッとジェイドを見据える。
「ジェイド、どうか最後まで聞いてください」
フロイドの横顔に釘付けになっていたジェイドはハッとしてフロイドから視線を外し、呼ばれた声の方を向いて今度はアズールをじっと見下ろす。
VIPルームのアズールの定位置、執務机の椅子に座ったまま、アズールはジェイドの目だけを真っ直ぐに見ていた。
「お前が記憶を消そうとしたのは僕のせいです」
アズールはその事実をもう一度噛み締めるように、はっきりと声に出して言い切る。
「僕がお前を傷付けたので、お前は何も悪くありません。ひとつも」
真摯な瞳でそう断言するアズールに、口を開きかけたジェイドをアズールが制する。
そしてもう一度、「最後まで聞いて」と静かな声で言った。
「僕は、ひどいことを言ってお前の思いを踏み躙りました。お前が自ら記憶を消そうと思うには十分なことを。でも以前の僕にはそれがわからなかった」
今にして思えばどうしてあんな事が言えたのだろうと思う。
自分にとってジェイドがどれだけ大切な相手であるかも気付かず、これまでのジェイドの献身を土足で踏みつけるような。
「でもお前に忘れられた事で僕はようやくその過ちに気付きました。……フロイドの言う通り今更遅すぎるけど、お前は僕にとって本当に大切な存在なんです。先日も言った通り、僕はお前にこれからもずっと僕の右腕として側にいて欲しい。ただ、」
ただ、この先をどう受け止めるかはジェイド次第だ。
言わなければそれで済むことかもしれないけれど、それを言わずしてアズールは自分の望みを口にする事はできない。
「もしお前が記憶を取り戻してくれたとして、僕はまだ、お前の考えを理解できません。なので、お前の気持ちを受け入れる事はできないと思います」
それだけはどうしても分からなかった。
アズールには「恋」がどうしても理解できない。
同性である事以前に、恋情というものがわからない以上アズールにジェイドの気持ちは永遠に分からない。
だからまた、アズールはジェイドを傷つけるかもしれなかった。
アズールには理解できない心無い言葉で、自分を想ってくれるジェイドを踏み躙るかもしれない。
「でも、お前自身を嫌いだと思った事は一度もないです」
アズールはもう、ジェイドの目を見ている事ができなかった。
みっともなく縋るような自分をジェイドに見せたくはなかった。
それでも、伝えられずにはいられない。
ジェイドに伝えなければ。
「邪魔だと思ったことも、離れてほしいと思ったこともない。どんなに嫌味を言われても小言ばかりでも、僕の尊厳がお前に踏み躙られた事はないです」
ジェイドはアズールを傷付けないのに、アズールはジェイドを傷つけるかもしれない。
それなのに願ってしまうのはアズールのワガママだ。
アズールはなけなしの勇気を振り絞ってもう一度顔を上げた。
そして今度こそ目を逸らさずに、じっとジェイドを見上げる。
「ジェイド、僕はお前に記憶を取り戻して欲しいです」
ジェイドはアズールの視線を真っ直ぐに受け取ったまま、たっぷりと時間をかけて口を開いた。
「僕はあなたに恋をしていたんですね」
静かに紡がれたその言葉に、アズールはぎょっとして目を開いたまま固まってしまった。
しかしジェイドの隣に立つフロイドは平然として「いつ気付いたの?」と問いかける。
「いつと言われますと、つい先ほど。フロイドに声を掛けられる直前ですね」
「まじ?すげータイムリーじゃん」
「フフ、でも気付いてみると思い当たることばかりで」
「ど……、どうして思い出したんですか」
「思い出したわけではありません。でもわかります。同じ僕ですから」
「どうして……」
「どうしてと言われましても……、そうであれば全ての辻褄が合うので。僕であれば確かにそうしたと思います」
自ら記憶を消そうとした理由が分かっても尚、ジェイドがなぜ穏やかに笑っているのかアズールには分からなかった。
もっと取り乱したり、自分に怒りを向けたりするかと思っていた。
それなのに、どうしてジェイドはまだ自分に笑いかけてくれるんだろう。
「訳がわからないという顔ですねアズール」
「そりゃそうでしょう……、せっかく薬を飲んでまで忘れたのに、お前は知りたくなかったのでは……」
「いえ、知りたくなかったという事はありません。知る事はすこし怖かったですが」
そう言って眉を下げたジェイドにアズールはぎょっと目を開く。
まさかあのジェイドが演技でもなく、自分の前で素直に「怖かった」などと口にする日が来るなんて考えもしなかった。
「アズール、以前の僕はあまり素直ではなかったようなので今の内に言っておきますが」
「『あまり』ってレベルじゃなかったけどね」
「おやそうでしたか。以前の僕はずいぶん拗らせていたんですね」
「まじでね」
「ふふ、では尚更伝えておかなければ」
茶々を入れるフロイドと笑い合うジェイドを呆然と眺めながら、アズールはジェイドの言葉の端々にふつふつと期待を募らせていた。
ジェイドが「今の内に」なんて言うのは、ジェイド自身記憶を取り戻す事に前向きだからに違いない。
「アズール、僕はあなたを恨んでも失望してもいませんよ」
「本当ですか……?」
「えぇ。同性の幼馴染から恋情を向けられて戸惑うのは当然のことです。それをあなたが拒絶したとしても僕が怒る筋合いはないですから」
「え〜でも『気持ち悪い』って言ったんだよひどくね?」
「フロイド……っ!今それを言う必要ないだろう…!!」
「おやおや……、それは確かにショックでしたでしょうけど、あなたの仰る事も分かります。僕たちは稀少な人魚ですから、繁殖の伴わない恋愛関係など無意味だと考えるのは当然でしょう。ですからそれを求める僕に嫌悪感を抱くのは仕方のない事です。あなたは悪くありません」
「あなたは悪くない」そう言われたのに、アズールは自分の胸がずきりと痛むのが何故か分からなかった。
繁殖の伴わない恋愛は無意味、人魚ならそう考えるのが当然、だから同性の恋愛に嫌悪感を抱くのは仕方ない。
そのどれもこれも、アズールがずっと思ってきた事だ。
その考えが根底にあるからこそ、ジェイドの思いを受け入れられなかった。
それなのに、ジェイド自身がそれを肯定している事にどうしても胸が痛んでしまう。
どうして。
ジェイドは僕の考え方を理解し、尊重してくれている。
あんなひどいことを言った僕を責める事もせず、僕は悪くないとまで言ってくれた。
それなのにどうしてこんなにも胸が痛むんだろう。
その痛みはまるで古傷を抉る様にじくじくとアズールの深いところに入り込み、根を張ってそこに居座ろうとする。
アズールはそんなどうする事もできない痛みを抱え込んでしまったのに、ジェイドは目の前で笑っている。
「僕があなたへの想いを忘れようと思ったのはきっと、僕にとって自分の恋心よりもあなたのそばにいる事の方が大切だったからです。あなたに拒絶される位なら忘れてしまった方がマシだったから」
本当に、本当にそうだったんだろうかとアズールはじっとジェイドの瞳を見つめる。
その金色の瞳で秘密を暴くのはジェイドの方なのに、その瞳の奥に、まだなにか隠している本心があるのではないかと。
「だからあなたが僕を片腕としてずっと側に置きたいと言ってくださるなら、僕はそれ以上に求める事はありません。例え記憶が戻ってあなたに僕の恋心を受け入れてもらえなくても、それは僕にとって大した問題ではないのです」
「……それはお前の本心ですか?」
「えぇもちろん」
「オレも、それはほんとだと思うな。ジェイドずっとアズールのこと好きだったけど全く言う気なさそうだったもん。ジェイドにとってはアズールと付き合うとかより側にいる事の方が大事みたい」
「……ということですのでアズール、あなたが気になさる事は何もありません」
そう言って一呼吸置くと、ジェイドはフロイドの方へ向き直る。
「フロイド、あなたにもさみしい思いをさせてすみませんでした。あなたのおかげで僕もやっと決心が付きました」
「うん」と、ジェイドの決意を引き取るようにフロイドが頷くと、ジェイドはもう一度アズールへ視線を戻した。
「僕は、記憶を取り戻す事にします」
三人で話し合った後、その日の残り業務を全てジェイドとフロイドに任せてアズールは早速魔法薬の調合に向かった。
正直元のレシピに対する解除薬が正しく効くかは分からない。
ジェイドが飲んだ薬自体の成分は全く同じなのだから効く可能性はあるが、現実に本来とは別の効果が出てしまっている以上確実な事は何も言えなかった。
それでも、これでジェイドが記憶を取り戻してくれれば御の字だ。
以前フロイドが言っていた通りダメだった時の事はその時考える事にして、とにかく今はこの薬を完成させる事が先決だとアズールは一心不乱に手を動かした。
そうしてその日の内に完成した魔法薬を詰めた小瓶をその手の中に握りながら、ジェイドはアズールとフロイドに穴が開きそうなほどじっと見つめられていた。
「あの、そんなに見られていると飲み辛いのですが」
そう言っても見ることをやめない二人にジェイドは小さく笑い、諦めて小瓶の蓋に手を掛ける。
「では飲みますね」
そしてジェイドがその小瓶を口元に運んで傾けようとすると、それが流れ込む寸前アズールが「あっ」と声を上げた。
そんなアズールをフロイドがじとりと睨み、ジェイドも一度手を下ろしてアズールを見る。
「あの、ジェイド。飲む前にこれだけは言っておきたいのですが」
「はい、なんでしょう」
「もしこれを飲んで記憶が戻らなかったとしても今のお前がいらないということではないので、それだけは覚えておいてください」
「ふふ、わかりました。ありがとうございますアズール」
「よし、もう言うことない?アズール大丈夫?」
「はい……、止めてすみません。どうぞジェイド」
「はい。それでは」
そして今度こそ、ジェイドは小瓶を傾けてその中身をぐいっとひと口にあおる。
忘れる時と同様即効性ではないので今すぐこの場で記憶が戻るような事はないのだが、なんとなくひとつやり遂げたような達成感に三人はそれぞれホッと胸を撫で下ろした。
「……では、結果は明日の朝ですね」
「はい。起きたらすぐに報告しますね」
「お願いします。待っていますね」
とりあえずそうは言ったものの、一晩経たなければ結果が分からないなんてアズールは気が気ではなかった。
今どれだけ気を揉んだ所で結果が出る事はないのに、それが気になりすぎて全く眠れそうもない。
仮に眠れたとしても自分が目覚めた時ジェイドが既に起きているとは限らないし、そうなると連絡が来るまでジェイドはいつ起きるのか、結果はどうだったのかと気になって仕方ないに決まっている。
しかしジェイドの方から連絡しますと言ったのに自分から乗り込んで叩き起こす訳にもいかない。
そう思うとどうにもざわつく気持ちが治らず、アズールは組んだ腕の上で仕切りにトントンと指を動かしていた。
「そんなに気になんなら一緒に寝ればいいじゃん」
「「はっ!?」」
全てを見透かしたように言ったフロイドの言葉に、アズールとジェイドは同時に声を上げてその顔を見合わせた。
「アズールのベッドでかいし大丈夫でしょ。そうすれば起きたらすぐわかるし」
「ば…っ、ばか言うんじゃない!この年で一緒に寝るわけないだろう!」
「オレらたまに一緒に寝てるよ。ねージェイド」
「はい。ですがそれはフロイドだからなのでさすがにアズールとは……」
色々な意味で困る。
仮にもジェイドにとっては思いを寄せる相手であるし、アズールにとっては自分に片想いをしている相手である。
ふたりの間に幼馴染以上の関係が成立していないとは言え、年頃の二人が同じベッドで眠るのはまずいし、そもそもこの年代の男同士はのっぴきならない事情でもなければ普通同じベッドでは寝ない。
「ふたりだとまずいって事?じゃー三人で寝よ。オレも一緒なら問題ないでしょ」
普通であれば、いやさすがにそれはない!となる所を、まぁそれならいいか……となってしまうのがこの三人である。
フロイドが居てくれれば間違いが起こる事もないし、二人きりの雰囲気に気まずくなる事もない。
それになんと言ってもアズールは起きてすぐ結果が分かるのが最大の利点だ。
一人で結果を待ってヤキモキする事もないし、ジェイドがわざわざ電話なりメールなりを寄越す手間もなく実に合理的。
「わかりました!今日は僕の部屋で一緒に寝ましょう!」
「やったーお泊まり会じゃんたのしそ!」
……とそんなテンションでアズールの部屋に集まったはいいが、いざ三人でベッドに入るとなるとその状況の奇怪さにアズールははてと首を傾げた。
ベッドは三人で寝ても申し分ない広さがあるとは言え、高校生男子が三人で共寝するのはどう考えてもおかしい。
「……で、どうして僕が真ん中なんですか」
「アズールのベッドなんだからアズールが真ん中で良くね?ねぇジェイド」
「そうですね。僕は端で構いません」
「はぁ……」
そう言われてもどうにも理屈がよく分からないが、二人がいいならそれでいいかとアズールはそのままベッドに潜り込む。
そうすれば双子もそれに倣って上掛けを被り、何故だかそろってアズールの方を向いた。
「……なんですかお前たち。そう見られていると眠れないんですが」
「えぇいいじゃんこんなの初めてだし。ちょっと話そうよ〜」
「ふふ、そうですね。なんだか目が冴えてまだ眠れそうにありませんし」
超速で薬を作り上げてテンションが振り切れているアズールはジェイドの言葉には完全に同意だが、改めて「話そう」と言われても何を話せばいいか分からない。
いつも自然と集まって誰からともなく会話している三人なのに、こんなふうに同じベッドに寝そべって密接しているのははじめての経験だ。
「つかアズールのベッドすげーでかいね。オレらのベッドちっちぇーからジェイドと寝るのまじで狭いんだけど」
「シングルなんだから当たり前だろう。そもそもお前たちみたいにデカい奴らがふたりで寝る想定はされていないんですよ」
「でも狭いのもそれはそれで落ち着くんだよねー。てかアズールもそうじゃね?狭いとこすきでしょ?」
「まぁそれはそうですが……」
「あはっ、じゃあ今日はぎゅーってして寝る?」
「はっ!?それは本来の姿の時です!じりじり近寄るんじゃないバカ!」
「あははひでぇ〜たまにはいいじゃんねぇ」
そんな風にわちゃわちゃとじゃれ合っているフロイドとアズールの横で、ジェイドは何も言わずひっそりと息を潜めていた。
フロイドが三人一緒にと言い出した時にはそれならばと思ったのに、いざ同じベッドに入ってみればジェイドの心臓はばくばくと煩く鳴り響いて止まない。
それもそのはず、ジェイドはつい数時間前にアズールへの恋心を自覚したばかりだというのに、なぜか今日の今日で同じベッドですぐ隣にその温もりを感じでいるのだ。
はっきり言って「恋」というものを舐めていた。
おとぎ話や小説の中で語られる「恋」は知っていたつもりだったのに、それがいざ自分の身に降りかかるとこんなにもドキドキとして胸が苦しいものなのだろうか。
アズールが隣に寝ているというだけでその胸の高鳴りは激しくなるばかりで、心なしが体温が上がっている気がする。
もっと近くに身を寄せてフロイドと抱き合って眠る時には何も感じなかったのに、それがアズールだというだけで、高揚して上がっていく熱を自分ではどうしようもない。
「はぁ〜、つか久々に働いて超疲れた」
「今まで散々サボってたくせに何言ってるんですか。それに今日はずいぶん空いていたでしょう」
「だってアズールの仕事まで全部やったもん。締め作業もオレがやったんだから感謝してよねー」
「はいはいありがとうございます。そのお陰で無事今日中に薬が完成したじゃないですか」
「あはっ、別にそんな急がなくてもいいのにアズール超せっかちだよね〜」
「はぁ…!?元はと言えばお前が言い出した事でしょう!そうと決まったら早い方がいいだろうが」
「まぁそれはそうだけどぉ〜……、ふぁ…」
本当に疲れているのか、大口を開けてあくびをしたフロイドはすぐにその目をとろんとさせて瞼を落とした。
「あーまじでねみ……、オレもう寝るわ」
「えっ、お前が話そうとか言ったくせに……」
「だって眠いんだもん……。おやすみアズール、ジェイド」
「はい。おやすみなさいフロイド」
ジェイドはようやく口を開いて、目をつぶってしまったフロイドをアズール越しに見つめる。
そしてすぐに寝息を立て始めたフロイドにふっと笑った。
「よほど疲れていたんですね」
「……お前だってこの所働き詰めで疲れたでしょう。もう休みなさい」
「はい」
ジェイドはそう答えながら、眠気はちっとも落ちてきてはくれない。
そしてそれはアズールも同じで、ふたりはしばらく天井を向いて目を開けたままフロイドの規則的な寝息にだけ耳を澄ませていた。
そしてしばらく続いた静寂の中で、ジェイドが不意に口を開く。
「フロイドにはずいぶん心配をかけてしまいました」
「……そうですね。あのフロイドがあんな風に言うなんてよほど溜め込んでいたんでしょう」
「えぇ……」
フロイドは自由気ままで自分勝手に見えて、その実身内には優しい男だ。
周りからそれを指摘されるのは良しとしないが、本人も無自覚にいつもアズールやジェイドの事を気にかけてくれている。
完全なる他人から見れば三人の中で一番扱いにくそうなのはフロイドなのに、現実に三人の潤滑剤になっているのはフロイドなのだ。
「僕はフロイドに甘えすぎていたのかもしれませんね」
「いいんじゃないですか、お前はそれで」
「え?」
「お前が素直に甘えられるのはフロイドくらいなものでしょう。フロイドだってそれを嫌がってはいないと思いますよ」
「そうでしょうか……」
「さぁ?知りませんけど」
「ふっ、いい加減ですね」
「ちょっと思っただけです。お前たち兄弟のことなんて僕に分かるはずないでしょう」
「フフ、兄弟でも全て分かるわけではありませんよ」
「まぁそれはそうでしょうけど」
なんとなく一区切り付いた会話に、またふたりが口をつぐんで再び静寂に包まれる。
夜のオクタヴィネルは静かだ。
オクタヴィネルでなくとも消灯後の寮内はどこも静かに違いないが、人魚のふたりにとってやはり暗い海の中にあるオクタヴィネルの静寂は心落ち着くものだった。
灯りの落とされた真っ暗な部屋の中で、フロイドの寝息と三人分の鼓動だけがやけに鮮明に聴こえる。
このままその音にだけ耳を澄ませていればその内に睡魔もやってきてくれるだろう。
そう思いながら、それでもまだ重くはない瞼を強制的に閉じてアズールはゆっくりと呼吸を整えた。
そしてやっと眠れそうかもしれないと思い始めた頃、右隣でもぞりと動く気配がした。
その気配に思わず顔をむけてしまうと、そのままぱちりとジェイドと目が合う。
「アズール」
名前を呼んでひと呼吸置いて、ジェイドの色違いの双眸がアズールのそら色の瞳を見つめる。
「あなたが甘えられる人はいるんですか」
あまりにも不意打ちなその言葉にアズールは「え」とだけ言って目を瞬いた。
なんて事だ。
また目が冴えてしまった。
「僕が素直に甘えられるのはフロイドくらいだと言ったでしょう?ではあなたには、そういう相手はいるのですか」
すぐ横から、真っ直ぐに見つめられながらアズールは逡巡する。
「僕は……」
僕はずっと、ひとりで足掻いてきたつもりでいた。
他人の手を借りたとしてもそれは僕の目的を達成するための手段に過ぎず、全ては僕の計略の内。
ジェイドやフロイドが僕に従ってくれているように見えるのは単に面白がられているからで、僕は彼らにとって楽しい余興を提供しているだけ。
ただ利害が一致しただけの関係だと、ずっとそう思おうとしてきた。
でも本当は、
「僕はいつもお前たちに甘えていましたよ。素直にかは分かりませんが」
アズールがそう言うとジェイドの目がまんまるに開く。
あぁジェイド、本当に驚くとそういう顔をする所は変わらないんですねと、アズールはひとりふつふつと笑った。
「本当ですか?」
「えぇそれはもう。お前たちに散々甘やかされていたんだとやっと気付きました」
アズールがそう言うとジェイドはすこし照れたように口ごもり、それからまた控えめに口を開く。
「それは、僕が記憶を失くしたからですか?」
「……えぇそうですね。あまり陳腐な事は言いたくないんですが、『失くしてから気付く』ということを初めて実感しました」
「あなたは何か失くしたのですか」
今度はアズールが目を開く番だった。
そうだアズールはまだ何も失くしてはいない。
フロイドもジェイドも、今こうして隣に居てくれるのだから。
アズールは一度見開いた目をふっと細め、今度は穏やかにふくふくと笑う。
「いえ、本当に失くす前に気付いて良かった」
そう言ってアズールはジェイドの頬に手を伸ばし、ジェイドがそこにいる事を確かめるようにぐりぐりとその顔を撫で回す。
「あ、あの……、アズール?」
「ジェイド、くれぐれもおかしな事は考えないで下さいね」
「はい?」
「もし記憶が戻らなくてもここに居てください。僕にはお前が必要です」
アズールはいつになく真剣な顔をしていた。
いやアズールがふざけた顔をしている事など滅多にないのだが、とにかくジェイドの目にはそう映った。
「アズール、僕がこうして記憶を失くしたことにも意味があったと思っていいですか」
「……えぇ。そのお陰で分かったことが沢山ありました。だからお前が薬を飲んだ事も、無駄ではなかったんだと思います」
ジェイドの顔を捏ねくり回していたアズールの手がジェイドの頭に伸びて、今度はその碧い髪をゆっくりと撫でる。
なぜそんな事をしているのかアズール自身も分からない。
分からないけれど、ただジェイドに触れていたかった。
「……あの、アズール」
「なんです?」
「不躾なお願いとは思いますが、多分これで最後なので言ってもいいでしょうか」
「聞くだけ聞きますよ」
「………本当に最初で最後ですので」
「ふっ、ずいぶん慎重ですね。いいから言ってごらんなさい」
「あの、それでは……」
促されてもまだすこし躊躇う様子を見せて、アズールはそんなジェイドにまた笑う。
今までのジェイドなら絶対にこんな顔を見せたりはしなかった。
こんなジェイドがもう見られなくなると思うと少し惜しい気もするけれど、それでもやはり、アズールはジェイドに記憶を取り戻してほしかった。
「君を抱きしめてもいいですか」
お願い事を言い出せずもじもじしている幼い子供のようだと思っていたら、飛び出した予想外の言葉にアズールはまたも目を見開くことになる。
なんだか今日は、ずいぶんと驚かされてばかりだ。
「たぶん素直でない僕は言えないと思うので、今の僕からの最後のお願いです」
目の前で健気に返事を待つジェイドを見つめながら、アズールはふと思う。
もしも明日の朝ジェイドが記憶を取り戻したら、今ここにいるジェイドはどこに行ってしまうんだろう。
いや、記憶を失う前のジェイドも今のジェイドも同じジェイドで、どこに行くわけでもなくここにいるのだと頭では分かっている。
わかっていても、アズールはその胸に小さな喪失感を覚えていた。
17歳のジェイドよりもずっと素直で健気で嫌味ひとつ言わないジェイド。
記憶を取り戻したジェイドが自分の目を真っ直ぐに見て、「抱きしめてもいいですか」なんて言うことは二度とないだろう。
目の前にいるジェイドの言う通り、きっとこれが最初で最後だ。
もし明日ジェイドが記憶を取り戻しても、僕は記憶を失くしたジェイドの事をずっと忘れずにいよう。
心の中でひっそりとそう決めて、アズールはジェイドの方へ両手を広げた。
「おいでジェイド」
自分で言い出しておきながら躊躇ってみせるジェイドがなんだか可笑しくて、アズールは「ほら」とその背中を押す。
そうするとジェイドはようやくアズールの腕の中に収まって、その肩口に額を押し付けるようにしながら長い腕をアズールの背中に回した。
最初は遠慮がちに、徐々に強く、ジェイドの腕がアズールの薄い体を抱きしめる。
「好きですアズール」
はっきりと、ジェイドの口から告げられたのはこれが初めてだった。
ジェイドはアズールの肩に額を押しつけて俯いたまま、その瞳がアズールを捉えることはない。
それが精一杯だった。
アズールの温もりに触れて溢れ出した想いを、受け入れられないと分かっていながら告げるには。
アズールの瞳が拒絶に揺れるのを、直視しながら伝えられるほどジェイドは強くない。
「……すみません、本当に今日で最後にしますから」
そう言ってもっと強く抱きしめたジェイドに、アズールは何も言えなかった。
ぎゅっと締め付けられるように胸が苦しくなる。
心の底から迫り上がって零れたその悲痛な叫びのような告白を、受け取れる自分であったなら良かったのに。
「ありがとうございますアズール、おやすみない」
体を離してそう言ったジェイドは微笑んでいた。
アズールに弱みを見せたがらない所は元のジェイドも今のジェイドも変わらない。
でもジェイドの気持ちを受け入れられない以上、無理に浮かべたその笑顔をアズールが咎めることなどできなかった。
その笑顔を受け取って、アズールもまた穏やかに微笑む。
「おやすみジェイド、また明日」