「手伝う」
「はい?」
夜の六時ごろであった。今日も二人分の料理を用意するために、ツォンはキッチンに立つ。ルーファウスはいつも通りリビングルームのソファーに掛けて本を読んでいるはずであった。ツォンにとって隣にルーファウスが並んでくるのは予想外であった。
ルーファウスはツォンが剝いていた人参を指さして、おずおずと言った。
「それ、やってみたい」
「あっ、なるほど。じゃあ一緒にやってみましょうか」
かくして、ルーファウスの気まぐれによってツォンは調理を教えることになった。
「そうそう。上からつつーっと引いてください。指に引っ掛かからないように注意して。一周できたら、一口大に包丁で切りますので」
初めて扱うピーラーをルーファウスはゆっくりすぎるほどにおそるおそる上下させた。緊張して力んでいるようで、人参の表面がややでこぼこしている。ルーファウスは目の前の人参に集中していて、床に落ちていく剥いた皮に気付かないほどであった。
「はい。これで剥けましたね。とてもお上手です。お手伝いありがとうございます。水道で手を洗って、待っててくださいね」
「いや、ここで見てる」
「えっ」
「......邪魔だったらいい」
「あ、いえそんなことは。お好きなだけ見ててください」
ツォンの許可を得たルーファウスは一歩下がってツォンが人参を刻むのをまじまじと見ていた。あらかた切り終えたところで、残りの具材と共に鍋で煮る。その間にツォンは二人分のカレールウをぱきりと割っていた。
「それは?」
「カレーの素です。香辛料と一緒に調味料のペーストですね」
ルーファウスは興味深そうにじっとそれを見つめた。そしてツォンが鍋に向いている間に割った際にこぼれたルウのかけらをそっと口に運んだ。
「......しょっぱい」
「食べたんですか?!」
ルーファウスは頷きながらコップの水をごくごくと飲んだ。ふうと一息をついてあらかた満足したルーファウスは、今度は自らカトラリー等を用意し始めた。
二人分のカトラリーと水差しを持ってダイニングテーブルに向かうルーファウスを不思議そうにツォンは見つめていた。あの人と日常家事が結びつく様がとても奇妙で目で追わずにはいられなかったのだ。嗚呼でも、目の前の彼はかつてのあの人ではない。ツォンは彼に気付かれないうちにそっと目線を鍋に戻した。
そう。いいことじゃないか。間違いなく。あの人は余りにも色々なことがありすぎた。このまま静かに時を過ごすのも選択肢の一つだ。そう。だから私のすべきことは彼の安寧を守ること。だから......
ツォンは眉間にぎゅうと皺を寄せて、鍋をひとかき混ぜする。ルーファウスは二つのグラスを戸棚から取り出す。キッチンに戻ってきたルーファウスはツォンの後ろから野菜のスープとなっている鍋を後ろから覗き込んだ。
「あと三、四十分もすればできます」
「少ししたら、そのルウを入れるんだな?」
「そうです。一週間ぐらい前に食べたアレです」
「今日のは『辛く』ないよな?」
一週間前の彼は「辛い」を「痛い」に変換した。舌が熱くなり痺れるような痛みは「辛い」ということを教えたのはツォンであった。
「ええ。ルウを変えたのでマイルドな味にしてます」
楽しみだ、と呟いてルーファウスはリビングのソファーに戻っていった。
「あっほんとだ。辛くない!」
「でしょう? これを『甘口』と言います」
記憶障害によって味覚が大きく変わるのかもしれないと想定したツォンは、この辛さで食べるのが難しかった時のチーズをツォンは用意していたが、杞憂に終わったようだ。ルーファウスはおいしそうにカレーを口に運んでいる。ツォンもマイルドすぎるであろうカレーを口に運んだ。野菜に味が滲みていて煮込んだ甲斐もありコクも感じる。だが。うん。ここまでパンチが効いていないのは食べたことはない。
「おいしいよ」
目の前のルーファウスは本当に美味しそうにパクパクと一生懸命に咀嚼している。カレーをおいしそうに口に運ぶルーファウスにツォンは胸に安堵が広がった。
「多めに作ってあるので、明日のお昼とかにも食べれますよ」
ツォンの言葉に、まだ口にカレーが入っているルーファウスはうんうんと頷く。ツォンもまた一口カレーをほおばった。
その夜、甘口のカレーが大変気に召したらしいルーファウスは、ここの家に来て初めて「お代わり」をした。ルーファウスは暫くソファーから動けなくなるほどに、お腹一杯にカレーを平らげた。