ムツミアイ「ばれんたいん、ですか?」
呟きと共に、薔薇色の目がぱちりと瞬く。次いで筆で刷いたような柳眉が山を描くのを見て、入間はしまったと内心狼狽えた。アリスがこんな表情をした時は、大抵自分の失言が元となるからだ。
「……浅学で申し訳ありません、それは何かの行事でしょうか?」
案の定、魔界には存在しない単語を口にしていたらしい。窺うように、だがどこか好奇心が隠し切れない双眸に見つめられ、入間の喉から「ングッ」と音が漏れる。
ふと目に入ったカレンダーに、何の気なしに『チョコ食べたいな……』と思い零しただけの発言が、まさかこんな危機を招くとは。一分前の己の食い気を呪いつつ、入間は纏まらない答えを捏ねるよう唇をむぐつかせた。
「……ええと、僕も何かの本で読んだだけで実際はよく知らないんだけど……」
「はい」
「大切な相手に花を贈ったり、愛の告白にチョコを渡す日……かなあ」
飽くまで本の知識だけど、と再度念押す。それは入間の出生を濁す為の予防線だが、あながち嘘とも言い切れない。何せ人間界での入間はイベント事とは縁遠く、強いて言えばバイトの書き入れ時、といった程度の認識だ。辛うじて頭にある知識は、ほぼ『初恋メモリー』から得たものと言っても過言ではない。
そんな曖昧な返答のせいか、桜色の頭が僅かに傾げられる。
「愛の告白、ですか」
「あ、うん。でも、日頃の感謝を伝えたりとか、そういった意図もあったような?」
アリスが紡いだ愛という言葉に、入間の心臓が小さく跳ねる。自分が口にすればなんて事ない二文字が、薄い唇から発せられただけで艶めいて聞こえるのは、彼の美貌のせいだろうか。
つい動揺からあやふやな知識を付け足せば、「成程」とアリスは頷いた。
「つまり、好意全般を伝える日、という事ですね」
「うーん……多分そんな感じ、かな?」
首を捻る入間に、アリスもそれ以上具体的な答えを得られない事を察したのか。有難うございます、という礼を最後に、問いが続く様子はない。彼が普段入間に語ってくれるように、起源でも聞かれやしないかと戦々恐々としていたものの、杞憂だったようだ。
何とか無事にこの危うい話題を終わらせる事が出来た。そう安堵の息を吐いた入間が己の勘違いに気付いたのは、三日後の二月十四日───詰まるところ、人間界においてのセイントバレンタインデー、その日である。
*
『少し、お時間を頂きたいのですが』
いつも通りの休日の朝。ス魔ホに届いたメッセージに気付いた入間は、特に深く考える事なく了承のスタンプを返した。リードが勧めてきたゲームを二人で購入したのはつい先日で、自然、その件についてかと思い込んだのだ。
結果として、アリスの訪れは即ち混乱の訪れに等しいとは、予想だにもせずに。
「……えと、アズくん……これは?」
自室のクッションの上、対面するアリスから差し出された物体を前に、入間の眉が困惑を象る。
白い手に挟まれたそれは掌大のガラスケースで、とろけるような光沢の紺のベルベットリボンを纏っている。その隙間から覗くのは、色とりどりの六つの花だ。ただし、花と言っても本物ではなく、陶器に似た艶と下に敷かれたグラシンカップから察するに、正体はチョコレートだろうか。ケースにはレースをモチーフとした透かしが入れられている事もあり、まるでそれ自体が一つのブーケにも見える。
とても可愛らしい。そう、同性への手土産としては些か可愛らしすぎるそれに、違和感を覚えた入間は悪くないはずだ。
「本日は、ばれんたいん、なのですよね?」
少し不思議そうに確認してくるアリスに、入間は「あっ」と声を漏らした。数日前に自ら口にした話題を忘れるなんて間が抜けているが、そもそも男から男にチョコレートを渡すという発想がなかったのだ。
まさか、自分は今まさに告白という一大イベントの直中にいるのでは───驚きの反動でハイになった思考は、しかし続くアリスの言葉によりあっさりと払拭される。
「日頃の感謝を伝える日であれば、是非活用せねばと思いまして」
「かんしゃ……」
成程、感謝か。
確かにその説明をしたのも入間だ。それゆえ数秒前の己の早合点に、頬にジワジワと熱が上ってくる。
……代わりに胸の辺りが少し冷たく感じのは、きっと比較の問題に違いない。
そんな綯い交ぜになった感情を誤魔化すよう空咳を零すと、入間はようやく差し出されたままだったチョコレートを受け取った。
「ありがとう、アズくん。……言い出しっぺは僕なのに、何も用意してなくてごめんね」
「良いのですよ。これは、私がイルマ様にただ渡したかっただけなのですから」
返礼が欲しかった訳ではないと彼は言うが、それでは入間の気持ちが収まらない。自分のためにも何か欲しい物や、もしくはして欲しい事はないかと問えば、アリスは暫しの逡巡の後、ゆっくりと口を開いた。
「……では、それをこの場で召し上がって頂けますか?」
「え、それは別に良いけれど。でも、そんなのがお礼になるの?」
「はい、勿論」
首肯と共にアリスが微笑むと、次の瞬間には入間の膝に置かれたケースが再び彼の手に戻っていた。その動作は流れるようで、あっという間にリボンが解かれたケースの中から、一粒の白い花が取り出される。
そうして気付いた時には口元に迫ったチョコレートに、入間は呆気に取られた後、慌てて顔を引き指先から距離を取った。
「あ、アズくんっ!?」
「……召し上がっては、下さいませんか?」
「た、食べる、食べるけど……!」
一度は了承したのだ。そこを違える気はない。
だが、アリス手ずから食べさせられるとまでは聞いていない。もしかしなくてもこれも頼みのうちなのかと目線のみで窺えば、期待と不安が入り交じった薔薇色の目に見つめ返される。
一呼吸を置いて、入間は喉に蟠る言葉を飲み込んだ。どうにも、逃れる術は無いらしい。
お願い、と直接言われるよりも余程雄弁な眼差しに観念すると、入間は覚悟を決めてその口を開いた。
(あ、)
赤い爪には触れぬよう、慎重に口に含んだチョコレートから、柔らかなミルクの味が広がる。
「……美味しい」
「それは何よりです」
思わず零れた感嘆の声に、アリスも嬉しそうに目元を和らげる。
「その一粒には、高慢だった私に尊敬の念を思い出させて下さったイルマ様への感謝を込めました」
「え」
つまり、それはこの繊細なチョコレートがアリスによって作られたもの、という事か。
目を瞠る入間の前に、今度は黄色の花が掲げられる。
「これは、私とシンユーになって下さった貴方への感謝を」
噛んだチョコレートの中からトロリと零れたのは、柑橘系のジャムだ。甘酸っぱさとほろ苦さが混じりあったその味は、どこか心を浮き立たせる。
続く花の香りを含んだ薄紅には、感銘への感謝を。
スっと、視界が開けるような爽やかな緑には、夢への感謝を。
豊かに広がる深い蒼には、出会いへの感謝を───
そして最後に残った深紅の花が、入間の唇に優しく触れる。
これまで与えられた一粒一粒に、どれ一つとして同じ味はなく、その全てが入間を魅了するのに時間はかからなかった。普段なら恥ずかしくなるようなアリスの言葉も、歌うような声音もあってどこか夢見心地に導かれる。
差し出された指を前に雛鳥のように口を開く事への抵抗は、最早一片も無かった。
カシッ、とチョコレートを前歯で挟んだ瞬間。それまで添えられるだけだったアリスの指に、力がこもる。
口の中に一粒を丸ごと押し込められ、次いで唇を撫でた温かい感触は、つまり───
「最後の一つには、私の愛を召し上がって下さった、イルマ様への感謝を」
そんな言葉と共に、名残惜しげに入間の口元から白い指先が離れる。
反射的に噛み締めたチョコレートはどれよりも甘く。その色に負けないくらい真っ赤に染まった入間の顔を見て、白皙の悪魔は嫣然と笑ったのであった。