テントの中を覗けば、果たして目的の人物はそこにいた。
こちらに背を向けて読書に没頭している。冒険者には気づいていないようだ。
彼の手元にある重厚な装丁の、両手で開くほど大きな本は、第六星歴以前の歴史がまとめられたものだ。付箋があちこちに張られたそれは、一般的に出回っているものよりも詳しい内容が書かれているらしい。応じて記された文字もはるかに細かいのだが、彼の目線は星を読むかのように、紡がれた歴史を追っていく。
冒険者は思わず感嘆の息をついた。
彼とは共に未知の場所へ冒険しに行ったこともあれば、一杯のエールをかけて早駆け勝負をしたこともある。(その時は冒険者の惨敗だった。得意げに笑って勝利の杯を傾ける奴の小憎たらしさったらなかった。再戦したあかつきには必ず勝つと固く心に誓っている)どちらかといえば活動的な印象が際立っていたのだが、意外な一面を見た気がする。賢人は言われるべくして賢人なのだなぁ、と、本人に聞かれたら失礼だと怒られそうな感想を抱いた。
まぁそれでも、気の置けない友人であることには変わりないので。
足音を忍ばせて背後から近づき、無防備になっている丸くて赤い頭に、ごつ、とカップを乗っけてやった。
「うわ」
驚きに肩と耳と尻尾を跳ねさせた彼――グ・ラハ・ティアは、弾かれたように振り返った。こちらをみとめるや否や、じとりと左右で色の違う目を半眼にした。
「なんだ、あんたか」
「よう。久しぶり」
「普通に声かけろよな。……クルザスの方に行ってたんじゃないのか?」
「昨日帰ってきた。こいつは土産な」
「何だこれ」
「イシュガルド風のミルクティー。朝からずっとそれ読んでるんだって? あんまり根を詰めすぎると持たねぇぞ。少し置いたら?」
「……ん。そうする」
促せば、彼はしばしの逡巡の後素直に本を閉じ、そろそろと器用に頭の上のカップを受け取った。ほこほこと柔らかい湯気を立てるミルクティーを吹き冷まし、一口飲んで息をつく。
それにならって冒険者も近くにあるテーブルに体重を預け、自分の分のミルクティーを口にした。濃いめに煮出した茶葉をミルクで割って、メープルシロップで少し甘みをつけたものが、冒険者は一等好きだ。
グ・ラハの尻尾もゆるりと揺れている。気に入ってもらえたようで何よりだ。冒険者がいない間、どうも根を詰めて資料の作成にあたっていたらしく、その表情にはやや疲れが見えていた。質のいい茶葉を持ち帰ってよかった。少しでも気晴らしになればいい。
労りの言葉をかけつつ、天幕へと湯気が立ち上る様を見、ゆったりとティータイムを楽しんでいた冒険者だったが、ふと、つい先刻聞いた話を思い出した。
「そうだ。お前、気になる人できたの?」
「ごふっ」
グ・ラハのミルクティーが盛大に吹き出された。咳き込んだせいで若干涙目になりながら、彼は冒険者を見上げてくる。
「あんた、どこで聞いたんだ、それ」
「レヴナンツトールの、売店のお嬢さんから」
ミルクを買うためにレヴナンツトールの行商に立ち寄った際、そこで働く少女から、まるで重大な秘密を話すように打ち明けられたのだった。
曰く、誰かを探すように頻繁に宿場に立ち寄っていただとか。妙に往来を気にしていただとか。かと思えば嬉しそうに誰かと出かけたことを話していただとか。
別段珍しいことではないと思うのだが、何分賢人という立場に加え、顔が知れているので目立っていたのかもしれないと冒険者はふんでいる。
知らない間に気の置けない友人が色めいた噂の種になっているのは、なかなかに複雑な心境だった。
「なんか妙に熱入ってたぞ。"乙女のカンを侮らないでください!"って」
「あぁ……」
おや、と思った。
いつもならここで「似てねぇな!」などと笑われるところなのだが、グ・ラハは顔を覆って力なくうなだれ、机に突っ伏した。思いあたる節があるのだろうか、その頬はほんのりと赤く染まっている。正直、話を聞いた時は半信半疑だったのだが、なるほど。確かに乙女のカンは侮れないらしい。
常にないしおらしい友人の姿に、冒険者は身を乗り出した。
「その様子だと本当なんだな?」
「当たらずといえども遠からずっつーか……」
「マジで。俺今日まで知らなかったぞ」
「面白がるなよ。……なぁ、この話終わりにしねぇ?」
「嫌だね。もっと聞きたい。どんな相手なんだよ、教えろよ」
2割くらいは興味本位だが、残りは純粋に友人の恋路を応援したいという気持ちがあった。
グ・ラハは恨めしそうにこちらを見たが、言い逃れる理由を思いつかなかったのかもしれない。顔は伏せられたまま、とつとつと口が開かれる。
「あー……。冒険者やってる」
「ほうほう」
予想の範囲内だ。リーヴや調査の関係でキャンプに出入りする者も多い。職業柄、顔見知りは多いと自負している。となれば知人の可能性も高い。白魔道士のあの子だろうか。それとも吟遊詩人のあの子だろうか。
「……普段はカッコいーくせに、寝顔はマヌケだな」
「へぇ」
何でも様々なジョブに対して適正のあるその人は、戦況や人との相性によって武器を変えて戦うらしい。豪快に大柄な武器を振るったかと思えば癒し手に回ることもあり、毎回新鮮で共に冒険していて飽きないのだと語るグ・ラハの横顔は、共闘を思い出しているのか楽しげに優しく緩んでいた。
冒険者とてオールラウンダーではあるが、同じようにジョブを変えて戦える人物となると同業者でもそう多くはない。思い浮かべていた候補は軒並みはずれて、心当たりがなくなってしまった。
しかし冒険者たるその人の寝顔を見たことがあるのか。隣で眠るほどとは、よほど気を許されているらしい。
「……あと、見かけによらず意外と料理がうまい」
「なんと」
これには少し面食らった。まさか手料理を振舞ってもらうほどの仲だとは思いもよらなかった。
ドラヴァニアへ出向く以前のことだ。報告書だとか資料だとかの作成でラムブルースに缶詰めにされていたから、不憫に思ってサンドイッチを差し入れしたことがある。あの時のグ・ラハは耳と尻尾をせわしなく動かして大げさなくらい喜んでいた。頬を膨らませて次々と口の中にサンドイッチをしまい込んでいく姿に、子供かよ、と苦笑したのは記憶に新しい。あんなリアクションを取ってくれるとなれば、相手もさぞ作りがいがあっただろう。
しかしそうするといよいよもって相手が見えない。
よもや自分がモードゥナから出ている間に会っていたのだろうか?何せ今日の今日まで想い人がいることすら知らなかったのだ。わざわざ吹聴する必要もないとは言え、そこまで徹底して隠さなくても良いのではと若干の寂しさも感じつつ、冒険者は続ける。
「脈アリ?」
「……わかんねぇ」
それがわかったら苦労しねーよ、と、グ・ラハは唇を尖らせる。
ちびちびと舐めるようにミルクティーを口に含んでは、先ほどの一言が呼び水となったのか、徐々にその語調に熱が入り始めた。
「少なからず悪くは思われてはなさそうだけど、オレが何しても全然! これっぽっちも! 気づかねーの! 今日だってそうだ。冒険者だから一箇所に留まるタチじゃねーのは知ってるけど、ふらふら出て行って1週間以上も連絡寄越さないかと思ったら急に帰ってくるし、呑気に話しかけてくるし、おまけに気遣ってくるし!ムカつく。そんなんで嬉しくなる自分にもムカつく。こっちの気も知らないで。オレがどれだけ、」
そこでグ・ラハははたと口を噤んだ。喋りすぎた、と呟いて、バツが悪そうに俯いてしまう。
つらつらと語られる愚痴なのか惚気なのかわからない想いを、冒険者は瞠目して聞いていた。
当たらずと言えども遠からず、と言っていたが、それどころの話じゃないじゃないか。
「……だいぶ本気だな?」
冒険者の言葉に、図星を突かれたようにグ・ラハは喉の奥で唸った。髪の隙間から覗く頬や首筋は朱に染まり、含羞の色を滲ませている。
彼は細く息を吸い込むと、腕の間から冒険者を見上げ、言葉を絞り出した。
「……そーだよ。たぶん、これ以上ないってくらい、好きだ」
羞恥に濡れたか細い声だった。
たどたどしくもはっきりと紡がれた告白は、まるで自分に向けられた言葉のようで、不覚にも心臓が跳ねる心地がした。
ましてや、可愛い、などと。あらぬ勘違いを起こしそうで、ごまかすように冒険者は言葉を繕う。
「いいな。そんだけ想われてる相手が羨ましいくらいだ」
「……は?」
グ・ラハの表情が突如として怪訝そうに曇る。やや声のトーンが落ちた。
「……本気で言ってんのか、それ」
「何か変なこと言ったか?」
「……………………はぁぁぁぁ。ホンット、あんたってそういう奴だよな!!」
先ほどまでのしおらしさはどこへやら、グ・ラハは叫んで脱力し、盛大なため息をついた。
訳が分からず冒険者が目を瞬かせているうちに、グ・ラハはカップに残っていたミルクティーを一気に飲み干し、突きかえすように乱暴に渡してきた。
「返す」
「え、何で怒って、」
「怒ってねーよ呆れてんの!!」
言葉とは裏腹にグ・ラハは苛立ちを含ませた語調で立ち上がり、足早にテントを出ようとする。
あまりの剣幕に冒険者は狼狽えた。
自分の何が彼の気に障ったのだろうか?
確かに興味本位を捨てきれないところはあったけれど、変な態度はとっていないはずだ。自分の言葉を思い返しても何が原因なのか皆目検討がつかなかった。
そうしている間にも歩幅を広くして出口に向かおうとするグ・ラハの腕を掴んで引き止める。
「おいって」
「うるせー! 離せ! 頭冷やしてくるっつってんだよ!」
「何だ頭冷やすって意味わかんねぇよ!」
「~~~っ、あーもう、さっきからわざとか!? ここまで言ってまだわかんねーのかよ!」
強く手が振り払われ、グ・ラハが声を荒げた。目を白黒させているうちに胸ぐらを掴み上げられ、上目遣いで睨まれる。
「……あんただよ!!」
は、と出た声は我ながら随分間抜けだった。
内容を理解する間も無くぱっと突き放すように手が離され、馬鹿!脳筋!鈍感!童貞!と思いつく限りの罵詈雑言を吐いてグ・ラハはテントを飛び出していく。
冒険者はぽかんとしたまま、振り払われた手を下ろした。
釈然としない思いで先ほどのやりとりを反芻する。
冒険者をやっていて、隣で眠るほど信頼されていて、手料理を振るまう間柄の人物。加えて最後の彼の言葉。記憶を辿って、はたと気がついた。
そういえば、先ほどこちらを見上げたグ・ラハは息巻いて顔を赤くしていた。しかし、本当にあれは怒りの感情だけの色だったのか?
パズルのピースを当てはめるように思考と記憶が繋がっていく。ぼんやりとしていた脳に、天啓に打たれたかのごとく雷が落ちた。
「ああああ!!」
冒険者は吼えた。ドラゴン族もかくやというばかりの絶叫だった。
そのまま羞恥も体裁も、カップさえもかなぐり捨てて、渾身のスプリントである。
どおりで相手が見えないわけだ。
まさか。まさかまさか。
想いを向けられていたのが自分だったなど!
誰が推測できようか!
「待てグ・ラハ!」
「ぎゃー! 来んな!!」
「あっ、くそ、相変わらず速いな!?」
脱兎の如く疾走するグ・ラハの背中がぐんと遠くなって、冒険者は歯噛みした。
だが一度彼との早駆け勝負に負けてからというもの、密かに技を磨いてきたのだ。秘策は練ってある。今度こそ負ける気はしなかった。
「この野郎、返事くらいさせろっての!」
そして冒険者は、一気に跳躍した。