「ビマヨダが生前やりたかったこと」「もういいだろう? ビーマ。もう入っていいではないか?」
「まだだ。わがまま王子。まだ朝食の片付けが終わってねぇ」
カルデアの食堂からキッチンを覗き込んでいるドゥリーヨダナに俺は洗い物から視線を動かさずに応えた。
食堂のピークは過ぎ、ここには俺とドゥリーヨダナのふたりきりだ。
ちょっと前まではあり得なかった状況の原因、それはこのトンチキからの依頼だった。
それで無理を言ってピークの後の厨房を使わせてもらうことになったが、このわがまま王子は待ち切れないようだ。
「まだ皿洗いが残ってる」
「えー、手際が悪いのではないか?」
皿を持つ手に力が入る。それをなんとか抑え込んで俺は諦めて冷蔵庫に向かった。
中に入っていた一晩寝かせた茶色の塊は昨日あいつが作ったものだ。それを取り、準備してあった作業台の上に乗せる。
「クッキー、クッキー、クッキー♪」
入っていいと言っていないのに空気を読んだドゥリーヨダナが歌いながらどすどすと厨房に入り込んでくる。それにエプロンを投げつけて、俺は麺棒を手に取った。
何を作るか教えてねぇのに生地を作ったことで一晩でクッキーだと調べたのだろう。妙なところで勤勉なドゥリーヨダナは要領良くすぐにエプロンを身に着けた。
俺は真面目な声でドゥリーヨダナに言い渡す。
「次の工程は打ち粉をしながらこの麺棒で生地を1センチの厚さに伸ばすことだ。棍棒の扱いには慣れてんだろ?」
少しだけ見本を見せて麺棒を渡すと、今までやった事はないだろうになかなか様になった動きを見せる。
俺は安心して洗い物に戻った。
◆
ドゥリーヨダナがカルデアに召喚されてから交流がなかった俺の部屋を訪ねてきたのは昨日の昼の事だ。
「──マスターにせっかくだから生前やれなかった事をしてみてはと言われたのだ」
「俺と話すことか?」
同じことは俺もマスターから言われていた。暗に仲直りを願われているのを知っていたが、俺もこいつもそれをするには何もかもが遅すぎた。
案の定ドゥリーヨダナは首を振る。そして見たことがない表情で口を開いた。
「カルナとアシュヴァッターマンに菓子を振る舞ってやりたいのだ。──わし様が作ったものを」
それは確かに生前やれなかった事だ。
俺と違って宮廷育ちのこいつは厨房に立ったことなど無かっただろう。
そのこいつから手作りの菓子をもらったならあのふたりが喜ぶのは目に浮かぶ。
たが。
「教わるのは俺じゃなくてもいいだろう?」
エミヤにブーディカ、紅閻魔にキャット。厨房組は何人もいる。その中でわざわざ俺を選ぶ理由は、
「おまえが一番わし様たちに味覚が近い」
「ああ、なるほど」
こいつの舌はまあまあ肥えている。その細かい指定とニュアンスに応じるのは確かに俺が最適だろう。
「報酬は──」
「いやいい、その依頼受けよう」
言葉を遮った俺に紫の瞳が眇められる。それに俺は肩をすくめてみせた。
「俺もマスターに言われているからな、『生前出来なかった事しろ』って。おまえと菓子づくりなど、その最たるものだろう。──焼き菓子でいいか?」
◆
きゅ、と水道の蛇口を閉める。
全ての食器を洗い終えて振り返るとドゥリーヨダナはだいたい作業を終えたところだった。
初心者でも出来る簡単な菓子だが、今まで調理と名のつくものをこいつはしたことなかったはずだ。
近寄って見ると昨夜から始めたにしてはちゃんと生地は丁寧に伸ばされている。
「では次だ」
俺が丸い型を手に取るとドゥリーヨダナは目を輝かせた。
まあ、ここは一番楽しそうな工程だ。
「じゃあ、型抜きを始めるぞ。あまり力を入れすぎんなよ。型が潰れる」
「わし様はゴリラではないわ」
言いながらもドゥリーヨダナはそっと型を生地に押し付けてくり抜いて行く。それを受け取ってトレーに並べながら俺は細々と指示を出した。
「余った生地は集めてさっきの厚さに伸ばして使う」
「全部使えよ。もったいねぇからな」
いつもならぎゃんぎゃん文句を言うこいつが、大人しく俺の言う事を聞いている。
それに胸の底がざわめくのに蓋をして、俺は作業を終えたドゥリーヨダナに卵をひとつ転がした。
「次は卵黄を生地の表面に塗るんだ」
「まだ終わらんのか」
簡単な菓子作りでも飽きっぽいドゥリーヨダナはここまでの工程でめんどくさくなったのだろう。
子供のように唇を尖らせたこいつに俺はひらひらと手を振った。
「あと少しだ。少し」
そう言われてドゥリーヨダナは疲れたような顔をするが、こいつが本当に疲れた時は顔に出したりしない。
実際、文句を言いつつも慣れた様子で卵黄を選り分けている。生地を作る時でコツをつかんだのだろう。
刷毛でさっさと卵黄を塗り始めたドゥリーヨダに俺は告げた。
「塗り終わったら冷蔵庫で30分寝かせるからな」
「なんだとう!!」
おあずけをくらったドゥリーヨダナの表情に俺は笑みを浮かべた。
◆
使った道具などを洗っている俺の背中に何くれとなく話しかけてくるドゥリーヨダナをあしらっているうちに、30分はあっという間に過ぎた。
念の為かけておいたタイマーが鳴ると、ドゥリーヨダナが待ちかねたように冷蔵庫に飛びつく。
取り出したトレーを作業台に乗せて、俺を見た。
「残念な事にあと1個工程がある。──型の内側に卵黄を塗るんだ」
「それだけだな? 本当にそれで終わるんだな!?」
疑り深いドゥリーヨダナに答えずオーブンを温め始めると、察しの良いドゥリーヨダナはやっと調理が終わることを納得したのだろう。
自分で卵を割って卵黄を選り分け始めた。そして黙々と刷毛を型の内側に滑らす。
俺はドゥリーヨダナが塗り終えた型を天板に移した丸い生地にはめていく。隣り合って行う作業もこれで終わりだ。
これが焼き上がれば俺たちは元の関係に戻るだろう。
「クッキーなど、一瞬で食べ終わるというのに」
ドゥリーヨダナがぽつんと言う。
「何事も下ごしらえは手間がかかるもんだ」
「確かに。燃える宮殿を建てた時は大変だったな」
「──おい、コラ」
よりによってそれを今言うか、こいつ。
どうせいつもの嘲り笑いを浮かべているのだろうと顔を向ければ、ドゥリーヨダナは静かな顔で手元を見つめていた。
──こいつは、真面目な顔さえしていれば弟たちほどではないが美形の類なのだ。
見つめてしまっていた表情がぱっと輝く。
「終わったぞ!」
慌てて俺は視線を戻し、仕上がっていた型を生地にはめる。
「さぁて、また30分だ」
ミトンをつけて天板を持つとドゥリーヨダナが笑った。
「後は待つだけだな」
「俺は後片付けがあるがな」
作るだけの気楽なドゥリーヨダナに言い返すが、こいつに片付けをさせるつもりはない。勝手が分からない奴に皿を割られでもしたら他のキッチンメンバーに合わせる顔がねぇ。
熱風が籠もるオーブンに天板を乗せ、スイッチを入れる。
今度もまたドゥリーヨダナは片付けをする俺に何くれとなく話しかけてくるだろう。
認めたくないが、それが少し楽しみだった。
◆
ドゥリーヨダナと言葉を交わしながらの30分はすぐに終わってしまった。オーブンが鳴る音を残念に感じてしまうくらいに。
オーブンの前で子供のように中を覗き込んでいるドゥリーヨダナを避けて扉を開く。
赤く染まった庫内。熱風が顔に当たるが大したことではない。俺が楽々と天板を運ぶとドゥリーヨダナが後をついてくる。
このままうろうろと歩き回ってドゥリーヨダナを連れて回りたい気持ちが浮かぶが、俺は作業台の上に天板を置いた。
「熱いぞ」
「アシュヴァッターマンの宝具よりもか?」
「おまえはくらった事ねぇだろ」
俺がシミュレーターであいつと手合わせさせられたのはほんの数日前の事だ。ムッとして言い返すが本人は悪気は無かったのだろう。子供の顔で熱せられた型に手を伸ばしている。
それをミトンをした手で払って、俺は生地にはめられていた型をそっと抜き取った。
歓声があがる。
分かる。料理が出来上がった瞬間の喜びは格別だ。
にやける顔を抑えながら次々と型を抜いていく俺の手をかいくぐって、浅黒い手が出来立てをかすめ取った。
「あちち」
言いながらも口に放り込ん奴の顔が変わる。
俺が手伝ったのだから当然だ。
当然じゃなかったのは、奴の手がもうひとつつまみ上げ
「ほら、ビーマ。口を開けろ」
何故か思わず従ってしまった俺の口の中に熱い塊が放り込まれた事だ。
反射的に噛めばさくりと割れ、しっとりとした旨味が口の中に広がった。
ドゥリーヨダナがしてやったりと笑う。
「生前ではおまえに手作りの菓子など食べさせられなかったからな」
──俺に毒入りの菓子を食べさせておいて、おまえはそんなことを気にしていたのか。
熱く喉を通り過ぎていくそれに毒はもちろん入っていない。丸い型をしたそれは美味く、胸に落ちた。
俺は口を開く。
「ひとつ言っておく。おまえはこれをクッキーだと思っているようだが。違う。──これはガレット・ブルトンヌだ」
「騙したな!!」
顔色を変えたドゥリーヨダナに俺は笑った。
ガレット(平たい焼き菓子)は正確にはクッキーと同じようなものだが、怒っているこいつは俺の言葉を丸々信じているのだろう。
さっき食べたガレットが胸の奥で熱くなったような気持ちがして、俺はわざとらしく笑ってみせた。
「一度おまえを騙してみたかったんだ」