王たる者 3・
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――『へ、陛下が、陛下が、部屋の中で倒れてて……!!』
青ざめながら知らせにきたメイドに話を詳しく聞く前には、もう体が、足が動いていた。事務室ではなく部屋、と言うのなら、寝室のほうだ。何があってもすぐに対応できるよう、事務室も寝室も隣り合わせにしてもらっているけれど、事務室から寝室までは少し距離が離れていた。
この広大な王宮の中、移動する時はいつも電話なりなんなりと知らせてくれていた陛下が、一言もなしに寝室へ移動されたということだけでも異例な状況で、そして何より、隣の部屋にいながら何も気付けなかった自分の不甲斐なさを恨んでしまう。
「陛か…… っっ!!!」
僕の到着に気付いたメイド達が速やかに開けてくれた道の先で、知らせの通り彼はワインレッドの絨毯に倒れていた。
嫌だ
なんで
どうして
「……つかさ、くん、……っっ、司くん!!!」
絨毯の外、大理石の床まで転がっている彼の王冠は、こんな時でも目を貫くように眩しく光を反射するけれど、僕にはそんなことはもうどうでもよくて、足がよろけそうになっても、とにかく彼の元へ急ぎたかった。
おぞましく視界を染める絨毯から小さな体を掬い上げたら、顔の血色が薄れた彼がいつもより速いスピードで、弱いながらもちゃんと息をしていることに気づく。
「まだ、まだ息が……っ、司くん、一体何が、ねぇ、お願い、目を開けて……っ!!」
「ロゼ様、これ……!」
振り返ると、僕がくるまで彼に触れるか迷っていたようだったメイドが、調味料入りの小さな瓶を持っている。よく見れば彼女の後ろの机には、数時間前に一度目にした料理らしきものが並んでいた。
「それは……またたび……?」
「……少し前のことですが、昼食を温めるよう、陛下自ら厨房にいらっしゃいました。その時にマタタビを借りていくと仰っていて……シェフが用法用量を伝えていたのですが、陛下の様子がいつもと違っていたので、心配で見に来てみたら……!」
厨房のマタタビが新調されたのはつい先週のはずだけれど、そう説明する彼女の手に持っている小瓶は、もう半分も残っていない。
「あの……! シェフが言うには、猫族がマタタビを摂取しすぎると、」
呼吸困難や、ひどい場合、命に危険が及ぶことも。
「っ、い、医者……医務官を……っ、!!」
「はい! もうこちらへ向かっているはずで……っ」
「ロゼ様! 医務官を連れてまいりました!!」
ドタバタと、二、三人の白衣を着た医務官がハンドバッグを持って部屋に入り、間もなく司くんは僕の腕から剝ぎ取られ、ベッドへと運ばれた。その横でメイド達は机周辺や料理の片付けを始める。
苦しむ彼の何の役にも立てず立ち竦んでしまう僕は、混乱が収まらないまま、震えが止まらない手で、今まで放置されていた王冠を拾い上げた。菱形のジュエリーがぶつかり合って、小さな音を立てる。
クロゼットの上に設置されている専用のクッション台に王冠を置き、ぼんやり靄がかかったような視界の中、医務官に囲まれている小さな体を眺める。彼の命に関わるこの瞬間でも、無能にも祈ることしかできない自分を呪いながら。
◇
類のやることが理解できなかった。
いや、理解したつもりだった。だがそれも、間違っていたようだ。
確かに、類はオレのことを好きだと考えれば、全ての辻褄が合う。しかしここまで長く一緒にいて、あらゆることで好意的であると表現されたとはいえ、愛情、という意味で「好きだ」と伝えられたことは、思えば、たったの一度もなかった。
もしかしたら、そもそも類はオレのことを、愛情の意味で好きではなかったなら。
オレと婚約を結ぶよりも、あの日誓った忠誠を貫きたいのなら。
泣き腫らした目がじりじりと痛む。涙で濡れてしまった衣服もぐちゃぐちゃだ。もうすぐ昼食の時間になるが、こんな姿を類に見せたくない。なのに無情にも鐘は鳴った。
それから暫くして、ドアをコンコン、といつものように叩かれた。
「陛下、昼食の用意ができました」
そしていつものように、ロゼが食事に迎えにきた。それを何とか断ったら、当然、困らせてしまった。
「陛下、……いや、司くん、僕っ……」
ロゼは慌てていた。今までこんな風に、ドアも開けずに食事を拒むことは一度もなかったのだから、きっと、どうしたのかと、心配しているのだろう。
「……申し訳、ありません。お召し上がる際は、いつでもお呼び下されば、」
「わかった」
「……では、僕は……事務室に、おりますので」
そう言ったロゼは、しかしドアの前から離れる様子は、音は、しなかった。役目を遂行できなかったり、何か失敗をしてしまうと、ロゼはいつも自分を責めていた。きっと今も、ドアの向こうで、自分を責めているのだろう。
お前は本当にいかなる時も、オレのたった一人のロゼとして、最善を尽くしてくれていた。あの日、生涯の忠誠を誓ってくれて、その神聖な誓いに恥じない行動をしてきた。
それなのにオレは、お前にほかの肩書きを……お前が望みもしない肩書きを、押し付けようとしていた。
「………るい、いるか?」
「い、いるよ!」
「……るいは、ろぜになって、よかったって、おもうか?」
「勿論、勿論、だよ……!」
「……しぬときまで、ろぜ、つづけたいか?」
「もし、もしできるのなら……!」
そんなお前に、
「……わかった。たべるときはよぶから、いまはさがってくれ」
こんな一方的な気持ちを押し付けたら、きっと迷惑だろう。
「畏まりました……!」
さっきと比べて、断然晴れやかになったロゼの声が、それを肯定しているようで、コツン、コツンと離れていく足音が、オレをここに独りに残して去っていった。
「はは……はずかしいかんちがいして……かっこう……わるいな」
類はオレのロゼで、オレは……オレは、この国の王だ。王たる者、王としてふるまい、国民が笑顔になる人と結ぶべきだ。ロゼもまた、オレの大事な国民の一人。
ロゼが選んでくれた人達の中から、選ぶんだ。
そのためには、誰をも笑顔にできないこの気持ちが邪魔になる。なら、忘れてしまえばいい。
「……どうしたら、わすれられるだろう」
せめてもの目標を決めたオレは、それを達成するための手段を探ろうと、閉まったままのドアから離れて本棚を向かうが、途中で、ソファーの隅に静かに置かれている、青薔薇の抱き枕に目が留まった。
「……これ、は」
ロゼの手作りだ。シンプルな形だが、オレの身長に合っていて、これを抱いて寝ると、気持ちよく眠れる。
「……そういえば」
確か、中に「マタタビ」を入れていると、前に聞いたような気がした。料理にも時々入れてくれているようだ。マタタビ入りの料理を摂ると、すこしぽわぽわした、いい気分になる。
「ちゅうぼうなら、おいてあるかもしれない」
食べる時は呼ぶとロゼに言ったが……マタタビを入れてほしいと言ったら、また心配されるだろう。オレはなるべく軽くドアを小さく開いてはまた静かに閉じ、猫族らしく音一つ立てずに、厨房へ向かった。
◇
「シェフ、しょくじちゅうにすまない。ここにマタタビはあるか?」
「!? へ、陛下、何故ここに、あっ、はい、ございますとも!」
もう少し遅くなってから来るべきだったかもしれない。使用人達はオレよりも後に食事を取るのだから、今はちょうど彼らのランチタイムになる。
幸いオレは足音がしないのだから、他の人の休憩を邪魔することなくシェフの所まで辿りつけた。(シェフには誠に申し訳ないと思っている)
オレから指示を受けたシェフは、食べかけの皿を置いてすぐにマタタビを棚の中から取り出してくれた。
「かんしゃする。しばらくかりてもいいか?」
「はい! 勿論!」
渡された小瓶には粉末のまたたびが詰まっている。これをいつもロゼは、オレの様子を見て、料理に入れるよう厨房のみんなに伝えたり、枕に詰めているのだろうか。
「……と、使う時は慎重に……陛下、聞こえてますでしょうか? あまり元気がないように見えますが……」
「えっ、あ、だ、だいじょうぶだ! ちゃんと聞いているぞ!」
小瓶一つでまたロゼのことが頭いっぱいになってしまった。随分と重症のようだ……こんな病、早く治さなければ……
「きづかいかんしゃするぞ! ……そうだ、すまないが……みんなのしょくじがおわったあと、でいいから、ちゅうしょくをあたためて、しんしつまではこんでもらえるか?」
またたびを摂るにも、このまま粉末で、とはいかなそうだ。誠に申し訳ないとは思うが、料理を温めるよう伝えた。
「? ダイニングじゃなくて大丈夫ですか? あ、ロゼ様をお呼び……」
「まて! ろ、ロゼにはいうな。……きょうは……ひとりでたべたいんだ」
壁の備え付けの電話に手をつけようとするシェフを、急いで止めた。困惑した顔をされてしまったが、それでも従ってくれた。これもオレが王だからであろう。その王として全うするためには、これを……
小瓶を握り締めて、オレは一足先に寝室へ戻った。
◇
パタン、料理を運んでくれたメイドが寝室のドアを閉じて、空気の流れを止めた。瞬く間に、部屋の中が温かい料理の匂いに満ち溢れる。寝室で食事をすることはほぼなかったが、たまになら悪くないかもしれない。
小瓶の蓋を回して開けると、中からバラのような香りが溢れ、鼻腔をくすぐる。ロゼが細心の注意を払って育てている、庭のバラのような匂いだ。思わず口元が緩んでしまう。……って、いかんいかん。ロゼへの気持ちを忘れるためにこれをもらってきただろうが……!!
そういえばどれくらい入れたらいいか聞き忘れたが、とりあえず一握りだけ、シチューに混ぜて食べてみると、少しぽわぽわしてきた。抱き枕を抱いて寝ている夜のような心地よさだ。
「るい……」
しかし、まだちっとも胸のざわざわは消えそうにない。それどころか、久々の独りの食事で、ロゼが隣にいない状態を寂しいと感じてしまった。
――『陛下、シチューの温度は大丈夫そうでしょうか? まだ熱かったらもう少し冷ましましょう』
ここにロゼはいないのに、机の向こうに紫がちらついたような錯覚が起きる。スプーンを優雅に持って、少し猫族にも似ている薄い唇からふぅー、と料理を冷ましてくれている。
「……だめだ!!」
こんなんじゃ全然気持ちを抑えられない。それどころか、ますます会いたくなってしまった。もっと。もっと入れないと。何も考えられなくなるぐらいにならないと、ロゼの笑顔を、甘い声を思い出してしまう。ぶんぶん頭を振り目に映る幻覚を無理に消し、開けっ放しで放置されていた瓶を掴んだ。
サッ、サッ、サッ。
土色の粉末が白いシチューを覆っていく。料理の美味しさも白い部分と共に消えてしまいそうだが、粉末を直接食べるよりはマシだろう。シェフには後で謝る。
「むぐ……」
粉で咳が出そうな気分を何とか堪えて、一口、二口と土色になったシチューを口の中へ運ぶ。
ロゼを好きな気持ちを、忘れるんだ。
「はぐ……、む……っ、」
暫くすると、心なしか目の前が少しぼんやりとしてきた。
「はぁ、やっと……いまなら……」
――『陛下。食事はゆっくり召し上がらないと』
後ろからロゼの声がして、はっと振り返ると、そこにいないはずのロゼが微笑みながら立っていた。
「ちがう……おまえは……ここにいるはずが……」
カラン。
指からすり抜けたスプーンが机に落ち、ぶつかった時の金属音が頭の中で異様に大きく反響し、ガラン、ガランと脳内を打ち付ける。
――『おいで、司くん』
「おれ、おれは……おまえを、『ここ』から、おいださないと……っ」
ゆらゆら揺れる視界の中、体中の血管の鼓動が早まり、圧迫されてズキズキ痛み出した胸を押さえても、奥から滲み出る痛みは増すばかり。
幻覚が醸し出した甘い誘惑を振り払おうと立ち上がったら、ぐらりと重心が崩れ、意識がふっと途切れるのと同時に、目の前が真っ暗になった。