邂逅 この不景気の中、竈門ベーカリーはとにかくよく売れた。いつでも真っ黒な文字。好景気とはまさに竈門ベーカリーのことだと言っても過言ではないくらいに売り上げは好調だった。
……だったのに。
どれが運の尽きだったのか、長年の酷使が原因だったのだろうか。それとも単に神さまの采配なのだろうか。
竈門ベーカリーの屋台骨が音を立てて折れた。その言葉通りに折れたのだ。つまり、家屋に寿命が来たと言うことで。
そこで開かれた家族会議で、真っ先に引っ越しを提案したのは襧豆子と炭治郎を抜かした弟妹たち。遠慮しつつ、母も挙手していた。
曰く、田舎過ぎて学校の選択肢が少ない! と、憤る中二の竹雄。
曰く、田舎過ぎて駅まで遠いのが嫌だと不満を漏らす小六の花子。
曰く、田舎過ぎて同い年の子がいなくて嫌だと半泣きの四年の茂。
曰く、田舎過ぎて本屋が閉店してしまってショックな一年の六太。
曰く、知人がパン屋を閉めるので、居抜きで店舗を譲渡してもらったと、のんびり屋の母が言った。
最後の母の申し出が決めてとなり、竈門ベーカリーは冬の終わりに店を閉じ、桜咲く春先に新たなる新天地へと引っ越す運びとなった。
新しい竈門ベーカリーは居抜きと言っても新しい店舗だった。聞けば五年前に開いたパン屋であったが、主人が体を壊してしまい田舎へ引っ越すのだという。
立地条件もこれ以上ないというくらいに素晴らしいところだった。駅から徒歩十分。最寄り駅から一時間も電車に揺られていれば都内にも出られる。大きい自然公園の横で、まるで森の中に立てられたパン屋のようだ。イートインも小洒落た作りで、ほんの少しパリのカフェのテラスのよう。そう思ったのは襧豆子だけではなくて、妹の花子が目を輝かせて言っていた。
居住スペースは母と兄弟七人で住まうには少し手狭だったが、前の家から比べると格段に広かった。何せ、花子とふたりで女部屋が貰えるほどなのだから!
自然公園の向こう側には中学校。駅のすぐ近くに小学校。中学校から徒歩十五分くらいのところには大型商業施設があるが、竈門ベーカリーとは競合しない距離感だ。
何も文句の言いようがない最高の門出。荷ほどきの済んでいない荷物を端へ追いやって、母が買ってきてくれたファストフードを食べた。襧豆子は人生で二度目のファストフード。味が濃いめで少しだけしょっぱいけど、家族で笑いながら食べた。
「ねえ、お姉ちゃん。わたしたちの部屋の窓から公園が見えるんだけど、さっき見たら噴水っぽいのが見えたの。お散歩しに行かない?」
「え、今から?」
花子の誘いに襧豆子は少しだけ躊躇った。四月と言ってもまだ一日。エイプリルフールはまだ日が落ちるのは早い。二十時を過ぎた今はもう真っ暗だ。
「えー。だめぇ? だって、明日は新しい中学校に行って挨拶しなきゃだし、荷ほどきもするんでしょう。それに夜桜が綺麗だよ。ねえ、お姉ちゃん、お願い」
「うーん」
「あら。襧豆子と花子は今からお散歩行くの? だったら、みんなで行けばいいじゃない。お母さん、少し歩きたいわ」
母がにっこりと笑うと、嬉しそうに六太が立ち上がった。
「わーい! みんなでお散歩! ぼくねぇ、ずっとあの公園行ってみたかったんだ。兄ちゃん、ブランコあるかな?」
「うん? そうだなぁ。反対側にアスレチックがあるって聞いてたぞ。でも、今日は遅いからまた今度な。少しだけ歩いたら帰ってこような」
炭治郎が六太の頭を撫でた。六太が残したポテトを摘まんでいた竹雄が手を上げた。
「じゃあ、俺留守番してるよ。みんな出かけたら不用心だろ」
「だったら兄ちゃんが留守番してるから、竹雄は行っていいぞ」
「いいって。俺、今からテレビの配線やってみるからさ。どうせ兄ちゃんはこういうの駄目だろ。で、そうなると茂は俺の手伝いしたがるんだろう」
「うん、手伝う! お母さん、いつも朝のニュース見たがるもんね。明日はちゃんと見られるようにするからね!」
「ふふふ。楽しみにしているわね」
竹雄と茂は家に残って、テレビの配線に挑戦。母と手をつなぐ六太と、こんな時にしか炭治郎に甘えられない花子は嬉しそうに兄の腕にぶら下がっていた。襧豆子は四人の後ろ姿を見てから、自然公園を振りさけ見た。
薄ピンクの桜が夜風になびいて、どこか幽玄のなのに、舞い散る花びらはぼたん雪のようだった。
東京ドーム五個分の自然公園は、襧豆子が思っていた以上に広大だった。治安がいいと聞いていたとおり、ガーデンライトが等間隔に道を照らしている。だけど夜間にひとりで出歩くのはあまり賢いことではないだろう。桜を見上げる花子に、兄が口酸っぱく注意していた。
「本当に桜がきれいねえ。ねえ、六太。明日、お母さんがお弁当作ってあげるから、茂と一緒にお昼ご飯を公園で食べる?」
「うん! 食べたい! でも、お店のお手伝いしなくていいの?」
「それはして欲しいけど、ずっとじゃつまらないでしょう。だから、お昼ご飯を茂と一緒に食べたら少し遊んで戻ってきてくれるとお母さん嬉しいなぁ」
「うん! ぼく、すっごいお手伝いするよ!」
「六太は頑張り屋さんだからな。兄ちゃんも期待してるぞ」
わしゃわしゃと六太の頭を撫でる炭治郎と、それに微笑む母と妹。四人の上には満開の桜。襧豆子は知らずに微笑んだ。
こんな幸せがずっと続けばいい。
「明後日まで桜咲いてるよね? わたしもお姉ちゃんと一緒にピクニックしたいなぁ」
「うん。そうだね。明後日のお昼ご飯、公園で食べようね」
妹のおねだりに襧豆子は優しく頷いた。レジャーシートはどこに仕舞ったかしら。家に帰ったら見つけておいた方が良さそうだ。
六太が小さなあくびをかみ殺したのを目敏く見つけた炭治郎によって、夜のお散歩はここで終わりになった。
「そろそろ帰りましょうか。うふふ、お風呂も大きくて素敵だから楽しみね。お母さん、これがとても楽しみだったのよ」
「うん! わたしもあのお家のお風呂見てびっくりしちゃった。ねえ、お母さん、今日は一緒に入ってもいい?」
「ええ。いいわよ。さて、テレビは接続出来たかしら」
「絶対に出来てるよ! だって竹雄兄ちゃん頭いいもん! 茂兄ちゃんは器用だから! ねえ、お母さん早く帰ろうよう」
母の手を引っ張っていく六太に炭治郎が小さく笑って、追いかけていく。
「花子、ほら。みんな先、行っちゃってるよ」
「えー、まだ噴水見つけてないのに」
スマホで桜を撮っていた花子が慌てて三人を追う。花子の後ろを歩いていた襧豆子はふと水音を耳にした。
足を止め、耳を澄ますと水の音がする。家族が行く道と反対の道から確かに音がしていた。
一瞬だけ、妹に声をかけようとしたが襧豆子はやめた。きっと噴水を見つけたら、妹だけではなくて弟まで興奮してしまい、寝るのが遅くなる。だったら、自分が行って場所を確かめてくればいい。そうしたら明後日に噴水に案内すればいい。
先を行く兄と母に内心で謝ってから、襧豆子はそっと道を逸れた。
それが、まさか運命の分かれ道だとは思わなかった。
治安の良い公園だと言われて、ガーデンライトの灯りがあっても、夜の公園はほんの少しばかり怖いものがあった。
ちらちらと散る桜は美しいのに、物悲しく目に映る。きっと散ってしまうから美しくて、落ちてしまうから悲しいのだ。惜春。過ぎゆく春を襧豆子は惜しんだ。
見つけた噴水はあまり大きなものではなかったが、吹き上げる水量は目を見張るほど。
「きれい……」
桜散る月明かりの下。噴水のきらきらと反射する水しぶき。シンプルなデザインの噴水だから余計に際立っていた。
ほう、と小さくため息をもらした襧豆子は少しだけ小首を傾げた。
噴水の向こう側。落ちる水のあちら側に人影が見えたような気がしたのだ。
二歩だけ、横にずれる。かさりと足元の芝生が音立てる。
一番最初に目に入ったのは、桜木の上のおぼろ月。夜の風が桜吹雪を吹かせた。襧豆子はそっと髪を押さえた。
噴水の水がはらはらと風に舞う。
月光と、桜散る、水しぶき。
そこには、月の光が立っていた。
「……っ」
金の髪に、深みの強いオリーブの瞳。
よく見れば男の人だとわかったのに、襧豆子はその人を月の光だと思った。ううん。今でも襧豆子はそう思っている。それほどに静けさの漂う青年だった。
顔立ちは襧豆子よりもひとつふたつ上で、完璧に近いほど整っている。優しげな目鼻立ちをしているのに何故か冷たい雰囲気をしていた。
月の光は、ひどく冷淡な目つきで襧豆子を見てから、興味を失ったように視線を外す。
一瞬、自分が透明人間にでもなったのかと思ったほど、月の光は襧豆子を気にせずに髪を掻き上げた。長い指先が水滴を無造作に払う。
水滴が彼の二の腕を伝わって、引き締まった脇腹を伝い落ちていくのをぼんやりと見続け、そこでようやって襧豆子は気付いた。
男は上半身、何も着ていない。細身の鍛え抜かれた鋼のような体を惜しげも無く晒していた。
真っ赤になって襧豆子は俯いた。
「ご、ごめんなさい……!」
「……」
返答はない。もう一度。
「覗いちゃってごめんなさい」
「……」
そろりと見上げると、月の光はこちらを見向きもせず、僅かに顎を引いた。
「こ、……こんなところで水浴びしてる人が居るなんて、わたし思わなくて」
「……」
くっと小さな声が漏れた。
月の光がおかしそうに口角をあげて、こちらを見てきた。
「こんなところで水浴びなんかするわけないでしょ。物を落としちゃったから噴水の中に入っただけ」
低く笑いながら、男は噴水の中を横切って襧豆子の方へやってきた。
「俺の方こそびっくりした。こんな夜の公園に可愛い女の子がいたから桜の精かと思った」
濡れた人差し指が襧豆子の頬につと触れる。
「ああ、生きてるね」
「あ、……」
そんな風に男の人にさわられたのははじめてだった。怯えた声だったのか、それとも何か分からない衝動だったのか。
男の指が頬から滑って、顎先へいく。くっと持ち上げられたのはまるでキスされるようで。だけど月の光だったら落ちてきても仕方ないと、混乱する頭の片隅で襧豆子は受け入れていた。
会ったばかりの男の人にキスされても仕方ない。だって、この人は……。
「ねずこ?」
「……え?」
月の光が襧豆子の名前を囁く。
「なんでわたしの名前を知っているの?」
「ふーん。ねずこって名前なんだ。俺、耳がいいから。君を探してる声がするよ。行ってあげた方がいい。ひどく焦った心配そうな声だ」
男は心残りもなさそうな素振りで襧豆子から離れていく。
どうしてか襧豆子は焦燥した。
「なまえ! あなたのお名前を教えて……!」
男はさきほどと同じように襧豆子の方を向いてくれず、落ちていたワイシャツを拾い上げる。
遠くで襧豆子の名を呼ぶ兄の声が聞こえてきた。その声に後ろを振り返る。
その時だった。
「来週の土曜日、同じ時間ここにおいで。そうしたら名前を教えてあげるよ。襧豆子ちゃん」
慌てて向き直ると、そこにはもう誰も居なかった。
月光と、桜散る、水しぶき。月の光だけがない。
襧豆子は静かにきびすを返して、必死に探してくれる兄へ声を上げた。
来週の土曜日。葉桜の舞い落ちる噴水で、襧豆子は知る。
月の光は「我妻善逸」という名前で、襧豆子が一生涯愛し続ける男の名前であることを。