魔法舎での、とある夜。
晩酌の後、二人でごろごろとくつろいでいた時のことだ。
「あんた最近太ったんじゃねえ?」
ネロがご機嫌で僕を後ろから抱き込みながら、ゆるゆると腹をさする。
「そうかな、どちらかというと最近あまり食欲はないんだが……」
「そうなの? やっぱりさ……」
ネロは機嫌よく話し始めようとしたが、ふと口を閉ざし何かを確認するように僕のお腹を再びなでなでと撫で回した。
「ちょっと待って」
「どうかした?」
「俺の勘違いかもしれないんだけど……腹、フィガロに診てもらいにいかねえ?」
「……なぜ?」
僕は困惑したが、ネロは焦ったような顔をしていた。
「なんでって……お願い、どうしても」
二人きりの甘い時間を割いてフィガロに会いに行くのはあまり喜ばしいことではなかったが、ネロがどうしても、と訴えてくるので仕方なく部屋を出ることにした。
ほとんど夜中といっていい時間にフィガロの部屋のドアを叩くと、ほとんど寝ていたらしき間抜けた顔の部屋の主が顔を出す。
「フィガロ? 夜分遅くに悪いんだけど……ちょっと先生の腹を診てやって欲しいんだ」
「腹? お腹でも壊したの?」
「いや、そういうんじゃないんだ。俺の勘違いかもしれないから医者に診て欲しくて」
「はあ?」
フィガロはネロの不思議な言動に困惑気味だった。
「僕もなんのことなのかよくわからないんだが……」
そう言いつつも、ネロの表情に察するものがあったのか、フィガロは僕らを招き入れ、ベッドに布を被せると僕を横にならせた。
ネロは緊張した顔をしているし、一体なんだというのだ。
わけがわからないまま、ぼんやりと天井を見ているとフィガロが僕の下腹や胸に触れたりして診察が進んでいく。
「どうかな?」
「ああ……お前らねえ……こういうのは後にしなよ」
フィガロは苛立った様子でネロに返答した。
「ファウスト、座って」
ネロには苛立ちをぶつけたが、僕には優しい声をかけてくる。体を起こしてベッドに腰掛けると、フィガロはネロを椅子に座らせ、僕の手を握った。
「子どもができてる」
「…………は?」
「やっぱり……」
「しかも子は魔法使いだ。魔力の気配がしたからネロは気付いたんだろう。ファウストは少しずつ自分の中で生じたものだから気付かなかった。もう少ししたらさすがに自覚したと思うけどね」
ネロは頷いた。
「ファウスト、落ち着いて聞いて」
フィガロは落ち着かせるように、僕の手を両手でぎゅっと握りしめた。
「きみのお腹の中には新しい命がいる。相手はネロ?」
相手、と言われて思わず赤面する。もちろん相手はネロだが、魔法舎の中でこっそり体を重ねていたので、それがフィガロにバレることになってしまい恥ずかしくてたまらない。
「ああ」
「性行為は合意の上? 二人は恋人?」
「なんでそんなことお前に言わなければならないんだ」
「そうだと俺は思ってるけど……」
隣に座ったネロが急に寂しそうな顔をして臆病風に吹かれるからおかしい。フィガロは僕らの態度で円満な関係を察知したらしく、思い切り苦々しい顔をした。
「ならいい。俺は何も言わない。じゃあ体調に異常は? つわりがあってもおかしくない時期だと思うんだけど」
「特にないな」
「本当に? 吐き気とか倦怠感とか、涎が出る感じとか、日常で困ってることは?」
「いや、別に……少し食欲がないくらいだ」
「そう」
「あ、そういえばちょっと前に、気分が悪くて何度か吐いたな」
「それじゃん」
「それだよ……。今は? 栄養や水分は取れてる?」
「大丈夫だ。良くもないが吐くほどではないよ」
「先生……不調なら言ってよ。食べやすいもん作るからさ」
フィガロは顎に手を当て、今は真面目な顔をして医師として考えていた。
「その程度で済んで運がよかったね。じゃあ、そもそもどうしてこうなったかだけど。女性に変身して性行為した? 女性に変身してその気になってしまうっていうのはまああることだ」
「まさか」
そんな時に変身するのは僕たちにはまだ早い。
「じゃあ、おそらく、子宮だけが後付けで形成されていて、基本的な体の構造は男のままということだろうな」
「なるほど?」
「どうして子宮ができたのか心当たりはある?」
そう言われても困る。特に子どもが欲しいと思ったことはない。僕もネロも、家族を作ることにはどちらかというと反対だったし、自分の体がどうしてこうなるのかてんで理解ができなかった。
「特にない」
「かなり悪趣味な話になるけど、魔法で誰かに体を作り変えられたってことは?」
そう言われるとぞっとした。が、そのような覚えもない。
「それもないと思う」
「俺もそう思う。無理矢理誰かに体を作り替えられた形跡はないんだ。じゃあ君の無意識かな」
「無意識?」
無意識に子どもが欲しいという願望があったということだろうか。
そう思うと、ふと数ヶ月前のフィガロとのやりとりを思い出す。
春のはじめのころのことであった。晴れた日の午後、たまたま中庭でフィガロと一緒になったからたわいもない世間話をしたのだ。だんだん強くなってきた日差しが暖かく、新緑の匂いのする気持ちいい風が吹いていた。
中庭には二匹の猫がいて、仲睦まじくじゃれあっていた。獣にとっても春なのだ。
「この子達は男の子と女の子?」
フィガロが珍しく猫に興味を示した。
「そう」
「子猫、生まれるかな」
「かもな」
子猫が生まれたら僕も少し嬉しい。子猫は可愛く、子の誕生は喜ばしいことだ。
「もしも君が女の子だったらさ。まあそうじゃなくてもいいんだけど、子どもが欲しいと思う? 子は鎹って言うしね」
この時フィガロは僕とネロがどうにかなっているらしい雰囲気だけを察していて、おそらく探りを入れたかっただけだったのだと思う。だが、僕は新鮮な驚きを感じていた。
もし僕が女だったら、子どもを産むことができる。
ーー馬鹿馬鹿しい。
しかしその後フィガロになんと答えたのかは覚えていない。
そしてその日の晩、ネロと体を重ねた。昼間は馬鹿馬鹿しいと一蹴したそれが、情事の間ほんの少し脳裏を掠めた。
愛しい男と抱き合い、名前を呼ばれ、熱を向けられ、それに必死に答える。その中で、僕の体に黄金の雨が降ったのだろう。
「すまない、言われてみれば少し心当たりがある」
僕が言うと、フィガロとネロは僕の顔をまじまじと見つめた。
「詳しくは言えないが……」
俯いて、腹に手を当ててさすってみる。確かに以前よりは少し出ているような気がする。得体のしれない何かが生じている。自分でも自覚はないが。
「そっか」
フィガロは、これでおしまいという風に立ち上がって、必要事項を説明した。
「ひとまず水分はよく取るように。そして、君には酷かもしれないけど今この瞬間からお酒とカフェインは控えて。そして、二人でどうするか考えて。まだやめることもできる時期だから」
『どうするか』……産まないという選択もあるということだ。フィガロの言葉にネロは顔をこわばらせた。
ネロとしては、急な話だしおそらく産むのには反対だろう。彼自身があまり家庭に恵まれなかったとも聞く。このてのしがらみは喜ばしいことではないはずだ。
どうしようもなければ、一人で産んで育ててもいい。
たとえば仔猫とは可愛いものだ。僕はよく知っている。多分、にんげんの、しかも、ネロとの子どもならばもっと可愛い。
たとえネロが協力してくれなかったとしても、幸い僕は魔法使いである。やり方さえ知れば、きっと何とかやっていける。かもしれない。まだ何もわからないけれど。それとも、ネロを苦しめるくらいなら、子なんていない方がいいのかもしれない。今やめられるならやめるべきなのかもしれない。
何の疑いもなく、「産む」と決意している自分と、何かが変わってしまうなら産まないべきだと自然に思う自分がいた。うまく気持ちの整理はつかない。
「とりあえず、二人で話し合って」
いかんともし難い沈黙をあくびまじりにフィガロが終わらせた。
部屋に戻り、再び二人でベッドに腰掛けた。
幸い、あと2ヶ月で魔法舎からは退去することとなっている。魔法舎での暮らしが長くなり、相互理解が深まり、もう家に戻ってもいいのではないかという話が出たためにかなり前に賢者が決めたことだった。だから、産むとして普通に家に帰ればひとまず子どもたちにもばれずに済むだろう。いいや、でも……。
なんと言おうかと考えていると、ネロが僕の膝に毛布をかけてくれた。
「この子だけど、どうする?」
産むのか、産まないのか。人の命のことだと思っても、気持ちはぐらぐら揺らいだ。産んだとして、どうやって、誰が育てるのか? 緊張しながらネロに切り出すと、ネロも神妙な面持ちをする。
「酒って大丈夫なのかな? 結構飲んでたじゃん。なんか影響とかないのかな」
「さあ……」
そういえばフィガロがそんなことを言っていたが、もっと根本的なことが気になって僕としては正直それどころではなく、思わず生返事を返してしまう。
「なあ、とりあえず、俺も一緒に帰っていい?」
「帰る?」
「一人で暮らすの、大変だよ。帰る頃にはつわりは収まってても、腹が大きくなったら転ぶかもしんないし、具合が悪くなって医者に一人で行けるとは限らないし」
そして、ネロははっとした表情をした。
「ああ、あとちょっとだけどさ、子どもたちにも事情話して実践の授業は座学にしたら」
「子どもたちには言わないし、授業は予定通りやるぞ」
「やめとけよ。なんかあったら危ねえって」
「嫌だよ。残りの時間にできる限りのことをしたいんだ」
「そうかもしんねえけどさ、転んだりしたらどうすんだよ!」
ネロが白熱してきたのにおかしくなって、僕は笑ってしまった。
「ふふ」
「……なに」
「産んでもいいの」
ネロはまたしても、あ、という顔をした。
「それはあんたの自由だけどさ……もし産んでくれたら嬉しいよ」
「じゃあ、一緒に育ててくれる?」
「当たり前じゃん」
ネロは恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。
つまり、心配は杞憂であった。僕が、産むべきか産まぬべきかというところで立ち止まっている間に、ネロは一歩もニ歩も先の事を考えていたのだ。
「その、君は本当にいいの?」
ネロの瞳をじっと見つめて問うた。ネロはこんな場面で嘘は言わないと思うが、嫌々言っている可能性はないではなかった。産まれてしまえば、ネロを縛り付けるものとなるだろう。
「うん? いいよ。赤ちゃんとか、子どもはかわいいし好きだよ。あんたも知ってると思うけど」
「ああ、知っている」
「あ、もちろんあんたもかわいいよ。ていうか、あんたとそんな風になるなんて、なんか夢みてえ。あんたってそういう深い相手とかいらないって感じだから、嬉しいかも」
しかも、結構乗り気のようである。意外なまでにテンション高めに笑っている。
「別にそんなことはないよ」
そう言いながら、今も戸惑う気持ちはあった。でも、この言葉だって嘘ではない。家族なんていらないと思っていたけど、ネロとなら、と思う。細くて切れやすい糸をそっと手繰って引き寄せるように。
「……なんならあんた、仕事辞めてもいいよ。俺が食わすから」
ネロが勇ましい申し出をしてくれるが、これにはカチンときた。
「子どもができたくらいで仕事はやめない」
「なんでだよ。俺の料理の腕が不安だって? あんたと子ども食わすくらい稼げるよ」
「そんなことは言っていない。でも……」
でも、どうして反発を感じるのかはうまく言い表せなかった。
「とにかく……辞めるつもりはないから」
思わず、ふん、と鼻を鳴らす。しばらく沈黙したが、ネロが手をとって繋いでくるので仲直りにぎゅっと抱き合った。
「ごめん、ちょっと先走った」
「ううん、僕こそ」
もう日付も変わろうとしていた。
灯りを落として、二人手を繋いだままベッドに横になる。薄暗い部屋の中で、絡ませた指の感触がやけに胸に迫った。家に帰ったら、ネロと一緒に生活することになるのだ。
一緒に食事をし、同じベッドで眠る。
「明日、フィガロのところに産むって言いに行こう」
「ああ」
まだ具体的な風景は思い浮かばない。けれど、そんな未来も悪くはないのかもしれない、と思いながらファウストはそっと目を閉じた。