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    かも@ねふぁ

    @ne_fa_hoya
    ネとファの間にある親愛にやられた新人賢者。だんだん箱推しになりつつある。

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    かも@ねふぁ

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    *もちふた2展示*
    パス外しました。人生初のサークル参加だったのですが、とても楽しかったです。来てくださった方々、主催者様、ありがとうございました。

    現パロ、バウムクーヘンエンドのネファ。全年齢です。

    電気が点かない部屋のエピソードは友人の実体験です(許可得てます)。Gさん素敵なネタをありがとう。

    #ネロファウ
    neroFau

    ウェディング・ベルは彼を知らない


    プロローグ

    「もしもし、ネロか?」
     耳にしっくりと馴染むその声を聞くのは、かなり久しぶりだ。「僕だ。ファウストだ」と簡潔だけど礼儀正しく名乗るのを聞く前から、もちろん電話主が誰かなんて分かっている。
     ファウストが電話をくれるなんて、珍しいことだった。彼が向こうへ移ってからもときどき葉書が送られてきていたので、連絡自体が途絶えていたわけではなかったけれど。こないだのは何だったか、たしか暑中見舞いの時季に届いたグリーティングカードか。いつも通りの彼らしく趣味の良い絵葉書に、二言三言メッセージが添えられているものだった。ときどき送られてくるそれらはしみじみと嬉しいもので、ネロは毎度欠かさずに返事を返す。といっても、洒落た絵葉書なんかどこで買えばいいのかも分からないし飲食業の身ゆえ時間もないので、短いメールでの返事だが。ともかく、声を聞くのは久しぶりのことだ。
    「元気そうだな。店は忙しいの?」
    「まあ、ぼちぼちだ。年末にはどうせ忙しくなるから、こんなこと言ってられるのも今のうちだけどな」
    「繁盛してるみたいで何よりだ」
     ネロの料理は美味しいから、当然だけど。そう言われて、思わず頬がゆるむのを止められない。相手を喜ばせるためだとか、そういうことよりもまず、自分が思ったことを端的に言う。この人の言葉には、いつでも嘘がなかった。ファウストのそういう話しぶりがまったく変わっていないので、昔に戻ったような気がする。あの頃より声が少し低くなって深みを増していることだけが、年月の経過を感じさせた。さぞかし良い男になっていることだろう。そう思うと、姿が見たくなってくる。
    「帰国の予定とかないの?」
     うちの店で料理を食べさせたいし、閉店後に一杯やるのもいい。うちの店じゃなくたって、どこか喫茶店でも、場末の居酒屋でも、ファミリーレストランでもなんでもいいから、会って話をしたい。ファウストとなら、ブランクなんか関係なしに打ち解けて話ができるような気がした。積もる話もたくさんある。
    「それなんだけど、」
     ファウストは言葉を切った。一瞬の静寂に、スゥっとひと呼吸入れる音が電話越しに聞こえる。
    「実は、結婚が決まったんだ」
     ケッコン。って、あの結婚のことか? 誰が。誰って、そりゃあ。
    「それで、式をそっちで挙げるから、……ネロ?」
     呼ばれて、我に返る。
    「あ、すまん、ちょっと聞こえづらくなってた。結婚するって? すごいな、おめでとう」
     言われたことの意味がうまく飲み込めないまま、一息でそう言ってしまったあとで、やっぱりこらえきれずに訊いてしまう。
    「一応訊くんだけど、ファウストの話だよな?」
     ファウストの答えがイエスであってほしいのかノーであってほしいのか、自分でも分からない。
    「そうだよ」
     その瞬間、どちらの答えを望んでいたのかが分かった。分かってしまった、痛いほど。







    1. 電気の点かない部屋
     
     「あれ、この部屋、電気は点かないのか?」
     六畳一間、安アパートの一室。目の前にいる部屋の主は、ファウストの問いかけに対して「あー……」となぜかきまり悪そうに目を逸らす。だが、特段隠したいわけではないらしく、ややあって「実は、そうなんだよ」と首肯した。
     「あれ、あそこにあるの、火災報知器なんだけどさ」
     ネロが指差すのにつられて、天井を見上げる。そこあるのは、たしかに何の変哲もない火災報知器だったが、場所が悪かった。電灯の取り付け口と近すぎるのだ。あれでは、よくある輪型の蛍光灯を設置するのは不可能だろう。これまでは昼の明るいうちにしか来たことがなかったから、気がつかなかったんだ。ファウストはそう思ったが、なんとなくそれを口に出すのは憚られた。
     「なるほどな。大家に相談はしたの?」 
     「大家っつーか、管理人さんだけど……聞いたよ。そしたら、なんか特殊な形の電球があるから、それ買ってこいって」
     でも、億劫でさ。どうせそんなに長く住むつもりもないし。ほら、俺は先生と違って夜までお勉強したりもしないから、玄関が点けば十分だよ。いや、十分なわけはないだろう、とファウストは思ったが、本人がそこまで言うならとそれ以上口を出すのはやめた。
     「はは、ツイてないよな」
     「笑い事か、ネロ」
     「この部屋だけらしいんだよ。なんだってそういうの引いちまうかなぁ、俺は」
     蛍光灯の件を自分の先天的な運の無さに帰して、抗わず受け入れている。彼にはそういうところがあった。ファウスト自身も大なり小なりそういう気質はあるから、気持ちはわからなくもないけれど。
     「まあ、だからってわけじゃないけどさ」
     ネロは話の矛先を変え、いたずらっぽく微笑むと、ファウストの袖の肘のあたりをそっと引いた。そのまま座布団代わりのクッションからゆっくり立ち上がるので、ファウストもつられて腰を上げることになる。狭いワンルーム、卓袱台のそばには先ほどまで背もたれにしていたベッドがある。
     ゆるやかに導かれるまま、ネロから一瞬遅れてベッドの縁に着地した。と思ったら、ものすごく近くにネロの顔があって、あ、と思ったときには唇に触れられている。触れては離れて、表皮を柔らかく食むだけの口付けは、そのくせ長く続く。途中でつい目を開くと、ネロの両眼がこちらをしっかりと捉えていたので、ふわふわしていた心臓が急に忙しなくなる。蜂蜜色の瞳が、夕方と夜のちょうど狭間の、薄闇の中でよく光った。視線を絡め取られたまま逸らせないでいると、ふいに彼が目を伏せ、ぬるりとした感触が侵入してくる。おずおずと舌を差し出すと、間髪入れずに絡め取られた。料理人の修行中の、至高の一皿のために研ぎ澄まされた彼の舌が、今はファウストの味を確かめようとしている。背筋がぞくぞくする。
     気付いたらシーツに背中を全部預けてしまっていて、どこまでも優しい目でこちらを見下ろす男が、「いい?」と囁く。ここまでしておいて赦しを乞うのだから、本当にたちが悪い。さっきまで情けなく笑っていたくせに。目を逸らしながら「好きにしなよ」と言うのがやっとだったが、その代わり彼の首に手を回して、ぐっと引き寄せた。鼻先が彼の首筋と触れそうになって、彼の匂いが急に濃くなる。僕じゃない人間の匂い。バランスを崩しかけて、すんでのところで肘で上体を支えることに成功したネロが、「うわっと……もう、大人しくしてよ」と笑い含みに言う。経験がないからって子供扱いするな、とむっとしたが、「優しくしてえんだからさ」なんて耳元で囁くので、肚の中を直接くすぐられているような、いてもたってもいられない気持ちになって、以降はその夜じゅう、ただただ口をぱくぱくさせるしかなかった。
     そんなわけで、僕の恋人は、電気の点かない部屋に住んでいる。






    2. カーテンを買いに

     暗い焦げ茶色のカーテンのことは、ずっと気になっていた。
    「本当に大きなお世話かもしれないけれど」
     ちゃんとしたのを買った方がいいんじゃないか。案の定、何を?と訊かれる。カーテン。確か、もらいものなんだろう。シックで悪くない色だけど、ただでさえ暗いこの部屋には合ってないと思う。それに、あんまり洗ってないだろう。体にも良くないよ。思い切って話し始めると、ファウストの口からは滔々と言葉が出てきた。ネロは、すでにある家具を買い替えるという発想自体が無かったかのように、きょとんとした顔でこちらを見ている。よく話すなあ、くらいに思っている顔だ。
     踏み込みすぎかもしれない、けれど。
    「カーテンが明るい色だと、部屋も明るくなる。絶対に」
     依然としてあまりピンときていない様子のネロを、半ば強引に連れ出した。
     
     電車で数駅先にあるリーズナブルな家具量販店は、週末は混み合っているのだろうが、月曜の昼間となると客もまばらだ。二人が出かけるのは、たいてい平日だった。ネロは自宅から歩いて10分のビストロで、アルバイトをしつつ調理師の資格を取ろうとしているので、土日はむしろシフトに入ることが多い。一方ファウストは文献学研究に勤しむ文系大学院生なので、休むも働くも自分次第だ。だから、ネロの週一の休みに合わせて、ファウストも休日を設けることにしている。自分達がこういう関係になったのは、そういう意味で互いに都合の良い相手だったことも大きいだろう。
     思えば、生活スタイルの話だけではなく、僕らは互いに「丁度良い」相手だった。ネロも僕も、履歴書を書かせると穴ができるタイプの人間だからだ。ネロは最初に入学した高校を揉め事で中退し、別の高校に入り直したらしい。そのせいで料理人としての修業を開始する年齢も少し遅れてしまったことに引け目を感じている。ファウストも似たようなものだ。初めは理系のゼミに所属したのだが、そこでパワハラに遭い、厭世的になって引きこもっている間に読んだ本に感銘を受け、今の専攻を学び直した。そのため、やはり周りの院生よりやや年を食っている。
     僕らは二人とも、これまでの人生において意図しない回り道を強いられてきた。初めて話した日から不思議と馬が合ったのは、そういう背景が似ていたせいだろう、と思う。一緒にいると、何でもない話をしているだけでどこかほっとするのだ。
     そう、だから、踏み込みすぎるべきではない。今日この店に連れ出したのだって、きっと余計なことだったのだ。だが、そうだとしてもファウストは、どうしてもあの部屋をもう少しだけ明るくしたかった。ネロに、明るい部屋で暮らしてほしかったのだ。
    「カーテンをお探しですか」
     不意に店員に声をかけられ、何も後ろめたいことはないはずなのにギクッとしてしまう。ネロもあまり店員と話すのは得意ではない。強引に連れてきた責任で、ここは僕がしっかり受け答えすべきだろう。
    「ああ。全面窓用のものを探しているのだけれど……」
     寸法を尋ねられ、測ってきた数値を答える。いくつか品物を紹介されて、あの部屋を脳裏に描きながら、どの素材のどの色が良いかを吟味するのに夢中になっていく。
    「これがいいかもしれない」
     吟味の末、一枚のカーテンを選んだ。店員は「とても爽やかな色味ですね」と微笑んだあと、差し出がましいのですが、と付け足した。
    「ご一緒に住まれるのでしたらお二方とも納得のいくものを選ばれた方が」
     言われて、はっと我に返る。慌てて否定した。
    「いや、一緒に住むわけではないから……そうか、口を出しすぎたな」
     すまなかった、と謝る。ネロの部屋のことなのに、本人をそっちのけに僕ばかり突っ走ってしまった。ああ、もう、何をやっているんだ。だが当のネロは、ふふっと笑って言う。
    「いまさら何言ってんの、先生」
     俺ん家のことなのに、黙って見ててごめん。ファウストが人のカーテン一生懸命選んでるの、なんか可笑しくて。でも、嬉しかったよ。
    「これ、会計します」
     レジへと移動する間、ネロがこちらを宥めるように手を繋いでくる。普段なら絶対に、人前でそんなことしないのに。踏み込んだ分、許すから、大丈夫だから、と言われている気がした。彼の方を見る。髪の間から覗く耳殻が、赤く染まっている。少しくすぐったくて、でも嬉しかった。






    3. 影絵劇の台所

     ガコッ、バタン。ネロが冷蔵庫から食材を取り出した音で、ファウストは目を覚ます。ぼんやりした目を瞬かせ、そっと首を動かすと、こちらに背を向けて包丁を使うネロの立ち姿が見える。そうだ、今日は夕方からネロのもとを訪れていたのだ。珍しくシフトの入っていなかった彼が、夕食は腕を振るうからと部屋に呼んでくれて。二人で買い出しへ行って、戻って料理をするはずが、なんだかんだそういう雰囲気になって。
     気怠い体を緩慢に捻って、時計を見る。そう長く眠っていたわけではないらしい。午後十一時に、もう少しで届こうとしているところだ。この時間、蛍光灯の取り付けられていないこの部屋は普段は真っ暗になる。それにもかかわらず彼がいま料理できているのは、台所には作業灯があるためだ。ネロはこの備え付けの作業灯さえあればいいと言って、未だに例の電球を買いに行こうとしない。いつのまにかファウストも、スマホのライトを点けることもなく深夜にベッドを抜け出して、水を飲んだり手洗いに行ったりできるようになってしまっている。こうなってはもはや、あまり不便を感じなくなるのも事実だった。
     ネロはよっぽど機嫌がいいのか、珍しく鼻歌さえ歌いながら、調理台に向き合っている。まな板と包丁が奏でる小気味良いリズムが耳に心地良い。プールの授業のあとのような倦怠感が身体中を包んでいる。まだ起き上がるのは億劫だ。布団にくるまったまま、小さな灯りに照らされた料理中の彼の姿をぼんやりと眺める。
    (あぁ、こうしているの、好きだな。)
     台所の小さい灯りは、まるで一人きりの役者を照らすためのスポットライトだ。ただし、通常の舞台と違ってこちらからは逆光になるのだけれど。光に縁どられ、ネロの輪郭や、首から肩にかけてのラインがくっきり見える。ネロのかたちをした影が、無駄のない滑らかな所作で動く。この男は、台所に立っているときが最も美しく絵になる男だと思う。
    (影絵劇の特等席だ。僕だけの)
     もっとよく見ていたくて、眼鏡を探す。すっかり慣れた手つきで外され、枕元に置かれていたはずのそれは、いつの間にかきちんと畳まれて卓袱台の上に避難させられていた。ファウストが意識を手放している間に、彼がそうしてくれたのだろう。起きていることをなんとなく知らせたくなくて、音を立てないよう気をつけながら眼鏡を取りあげる。
     俄に良い匂いがしてきた。この匂いはアヒージョだけれど、きっと彼のことだ、それだけでは終わらない。よくもまあ、あんなに狭い台所で何品も作れるものだと、ファウストは毎度感心させられる。うちにあるような、一人暮らし向けの冷蔵庫を置くスペースすらない。その代わり、流し台の下部にもともと冷蔵庫が備え付けられている。冷凍機能もない簡易なものだ。冷蔵庫が備え付けで、しかもかなり小さいことに初めは驚いたが、こういう部屋はそれほど珍しくないのだそうだ。そんな環境でも、ネロはネロなりに厳選した調理器具を揃え、凝った料理も作れるように整えられていた。食器類はファウストが来るようになってから、いつの間にか二つずつになっている。しまう場所も狭いだろうにと初めは申し訳なさも感じたが、彼はもてなしの際の気遣いも含め楽しんでいるのだと、今では思える。
    (やっぱり、僕はネロが好きだ。)
     再確認して、胸が痛んだ。もう何度目かの再確認だ。ここのところ、同じことを繰り返してしまっている。ファウストは、ネロに言っていないことがある。
     先日のことだ。ファウストの研究はずっと評価されず、資金難に苦しんでいたが、ようやくチャンスがまわってきた。教授が推薦してくれて、海外の研究者の目に留まり、研究員として受け入れてくれるらしい。願ってもないことだった。ただし、最低三年間は海外で研究活動をするという条件で、その先も戻ってこられるかわからない。実家とほとんど絶縁状態で大した貯金もないネロは、資金面から言って海外に一緒についてくるわけはないし、珍しく水が合うらしいこの街で、一日でも早く独立したいと願っていることをファウストは知っていた。
     いっそ研究なんかやめて、この街で仕事を探そうか。もっと広い部屋を二人で借りて、そうしたらネロとずっと一緒に生きていける。だがファウストとて、簡単に辞められるほど生半可な気持ちで研究を続けてきたわけではない。それに、ファウストにようやく人生の飛躍のチャンスが訪れているときに、迷わずそれを掴みに行けない原因がほかならぬネロだと知れば、やはり彼は気にしてしまうだろう。仮にそうなったとしても、ファウストに彼を疎んじる気持ちなど、爪の先ほどもない。そんなことはネロも重々承知してくれる。そう確信できるほどには、ともに過ごす時間を積み重ねてきた。その上で、それでも息苦しさを感じずにはいられないのが、彼の性分なのだ。
     打ち明けたら多分別れることになるだろう、というのが、ここしばらくぐるぐると考えた結論だった。
    (言いたくないなあ……)
     ネロとは生まれ育ちは違ったけれど、彼ほど自分のことをよく理解している人間は他にはいなかったし、多分一生いないだろう、と思う。二人でいると、他の人が相手のときとは比べ物にならないほど、二人ともよく喋った。かといって、ふと会話が途絶え、二人して黙りこんでいる時間も苦ではなかった。話していても、黙っていても居心地がいい。そんな相手は、人生で一人、出会えるか出会えないかの相手なのではないか。本当に別れないといけないのか? 本当に?
     今後の話し合いをするにしても、早く打ち明けなければならない。こういうことは、時間が経つほど言い出し辛くなってしまうものだ。すでに、今までに何度も機会を逃している。
     今日こそ言おう。今日こそは。
    「ネロ」
     呼びかけると、菜箸を持った背中が、おお、先生起きたか、水飲む?と言って屈められた。足元の冷蔵庫から、ペットボトルを出そうとしてくれているのだろう。
     言え、言うんだ。大きく息を吸い込む。
    「実はきみに、聞いて欲しいことがあるんだけど。聞いてくれる?」
    「ん?もちろん。もうすぐ飯できるから、待ってて」
     ファウストの好きなものも作ったんだ。なんだと思う? そう言って振り返った彼の表情は、ファウストには見えない。だけど、逆光に照らされ濃い影に縁取られた頬が、あまりにも好みの形に笑っていたから、息が止まりそうになる。……やっぱり、今日も言えないかもしれない。





     
    4. 雨の多い街:電気の点かない部屋II

     電話越しに、強い雨音が聞こえる。こちらは曇りだが、ネロのところは雨らしい。いつもだったら気付かないかもしれないが、背後の雨音にも気付いてしまえるほど、今日の電話は沈黙に支配されがちだ。
     別れ話の、ほとんど最終確認のような電話だった。すでに何度も話し合って、互いのためだと納得して、諦めもついている、はずだ。少なくとも僕はそのつもりでいる。
     電車で数十分かかる彼の街は、思えば、雨が多かった。外出時に持ち出す傘は、初めは二本だったのだが、一本になったのはいつからだっただろう。二人ともガタイが良いとは言い難い体格とはいえ、大の男が身を寄せ合うにも限界がある。濡れ鼠になった体で転がり込むように玄関のドアを開けて、やっぱり一本じゃあ無理があるよなって笑って、ネロがタオルを取ってきてくれて。もはや数えきれないほど何度も訪れた、あの古いアパートの……
    (ネロ。)
     瞬間、彼の姿が、はっきりと見えた。雨の日は驚くほど暗くなるあの部屋で、たった今電話で別れ話をしている彼の姿が。土砂降りの窓を見つめながら話しているネロ。電気の点かないあの暗い部屋で、独りで悲しみに堪えているネロ。電話越しだと膜を隔てたように柔らかく聞こえる雨音も、窓越しの彼にはどれだけ鋭く響いていることだろう。
    (ああ、どうか……)
     あの寒々しい部屋で、きみが今晩風邪を引かないといい。どうか暖かくして。きちんと食事は摂ってから寝て。きみは自分の世話をするのがあまり上手くないから。体のことだけではなく、心も。電話を切ったあとで、きみは泣くかもしれない。そう思うと、「やっぱりやめよう」と口から出そうになる。でも、そのどれをも言ってはいけないということが、解っていた。
     僕が何も言えないでいると、話は終わりだと思ったのか、ネロが「じゃあ、元気でな」と言う。聞こえてきた声は微かに震えている。それでようやく、僕の呪縛も解けて、言うべきことがはっきりした。言いたいことは、本当はたくさんあったけれど。せめて、ありったけの祈りを込める。
    「きみも、どうか元気で」






    5. お日柄もよく

     いよいよ指輪を交換する段になって花嫁と向かい合った、ちょうどそのときだ。式場入り口の扉が細く開いて、スーツを着た細身の男がするりと身を滑り込ませるのが見えた。そのまま遅刻したことを詫びるように身を縮めながら、素早く参列席の最後方に腰掛ける。物音をほとんど立てずに着席した彼の動きを、気に留めた者はいないらしい。だが、真横を向いていたファウストの視界にはちょうど入ったのだ。思わず、そちらに顔ごと向けそうになる。彼だ。間違えようがない。会場の扉を閉めてくるりとこちらを向いた、その背と肩の丸めかたがあまりに彼らしくて、十数年前の彼が寸分違わず現れたような、奇妙な感覚に陥った。
     ピントの合っていないレンズ越しの物語のようだ。ネロだ、と分かった瞬間から、目の前のすべてがぼやけて遠くなってしまう。神父が何か話している声も。そっと指輪をつまみ上げ、目の前のほっそりした指に嵌めている自分の見慣れた両手も。
     本当は僕はまだ二十歳そこそこの学生で、これまでのことは全部夢なんじゃないか。渡欧して研究員になり、彼女と出会い婚約したことは、全部僕が空想でつくりあげたストーリー。本当の僕は今、ネロの部屋でまどろみながら夢を見ている。
     だが、実際のところそれは、一瞬のことだった。どちらが夢でどちらが本当か、ファウストにはよく分かっている。そして、自分の選んだ現実に対する後悔も無い。ほんの一瞬、ただの白昼夢。ファウストの意識は再び、式典に集中していった。

    「やっぱり当たりだな、ここの料理」
     丁寧に作ってるとこって写真でもう分かるんだよな。地域で人気の料理店の店主が、したり顔をしている。彼に声を掛けることができたのは、披露宴も佳境に入った頃だ。
    「さすが、きみの見立てた通りだったな。助言をもらえて、助かったよ」
     晴れの席のTPOに合わせてか、正装した姿が見慣れない。料理人らしく控えめだが、香水もしていることに驚いた。まるで大人の男みたいだ。じっさい、お互いもう充分すぎるほど大人と言ってよい歳になっていた。いい男になったと思う。何より、顔色が良いのが嬉しい。
     彼とはかつていろいろあったけれど、それでも、心から大事な友人には違いなかった。大事な友人には、こういうライフイベントは真っ先に知らせたいし、祝ってもらいたい。ネロも、同じように思ってくれていたらいい。
     それから、少しの間だけ話した。改めておめでとう、と言ってもらったり、かしこまった場が苦手なファウストが挙式に踏み切ったいきさつを聞かせたり。彼が店を持ったばかりの頃は寝泊まりもそこでしていたことなど、短いメールでは知れなかったことだ。積もる話はいくらでもあった。
     奇妙なほど穏やかな時間の中でそうしていると、別のテーブルから新郎を呼ぶ声がした。今日一日封印していた、面倒そうな顔をここぞとばかりにしていると、「行ってやれよ」と苦笑したネロが背をぽんと叩く。後ろ髪を引かれながら「うん、じゃあ。今日は本当にありがとう」と離れようとして、ふと聞きそびれたことを思い出した。来賓をあまり待たせるわけにもいかない。急いで身を翻し、数歩の距離を戻る。
    「今住んでる部屋は、電気は点くの?」
     ネロは急に戻ってきたファウストの唐突な質問に目を丸くしたが、しかしすぐに破顔した。あの頃のようにいたずらっぽい微笑みで。
    「点くよ。……あの頃じゃ考えられなかったくらい、良い部屋に住んでる。なんとワインセラー付き」
     それを聞いて、ファウストは心から満足した。なんて晴れやかな日だ。式を挙げて良かった。鐘が鳴り始める。それはたしかに、祝福されるべき瞬間だった。






    エピローグ

     良い式だった。ネロは、夜道をぶらぶら歩きながら、昼間のことを思い返している。新郎も新婦も品が良くてお似合いで、料理も美味くて、みんなが祝福してた。本当に良い式だ。
     酒で少し火照った頬を、夜風が撫でるのが心地良い。乗り換え駅でそのまま降りて、ふた駅分歩くことにする。
     半年前に電話で報告されたときは、後頭部を殴られたような衝撃を受けた。ふふ、やっぱりくすぐったいな、こういうのは。ファウストが照れ臭そうに笑った、気がする。式に来てほしいと言われて、なんと答えたのか、はっきりと記憶がない。気付いたら電話は終わっており、ネロの出席が決まっていた。しばらく電話を置くこともできずに立ち尽くす。自分がショックを受けていること自体がショックだった。
     いつかはこんな日が来てもおかしくないと、頭で分かっていたはずだ。だって、俺たちが付き合っていたのは、もう十年以上も前のことなのだから。
     嫌いで別れたわけじゃない。だから、今は無理でも、いつか状況が許せばまた元に戻るもんだと漠然と思っていた。何か約束をしたわけでもないのに、何故かそう高を括っていたのだ。別れ話をしたときだって、ネロはそこまで深刻に事を捉えていなかった。ファウストは、そうではなかったと言うのか。あの頃、彼はどんな様子で、何を語っていたか、思い出そうとした。ほとんど何も思い出せなかった。思い出せることは断片的で、楽しかったことばかりだ。金がなくて生活は常に苦しかったが、あの信じられないくらいボロいアパートに彼はちょくちょく来てくれて、俺の作った料理を一緒に食べて……。あの頃の彼は、何を思っていたのだろうか。当たり前だがそれは、本人にしか分からないことだ。
     式を挙げるの、本当は気乗りしなかったんだ。披露宴の終盤に、わざわざ俺のテーブルまで来てくれたファウストは、そう言った。両家の親たちの要望に、しぶしぶ付き合って挙式したらしい。「でも、今きみに祝ってもらえて、こういうのもわるくないって思ったよ」。そう言われると、最高の気分と最低な気分が一度に襲ってきて、泣けばいいのか笑えばいいのか分からなくなる。そういえばファウストは、一度も泣いていなかったな。あくまで真面目に坦々と式をこなしている様子が、いかにも彼らしかった。
     ほろ酔いで歩いていたら、いつの間にかマンションの下に着いている。エレベーターに乗って、自室のある13階を空いている右手で押す。異様なほど静かに上昇する箱の中で、左手に持った小ぶりな紙袋がかさり、と音を立てた。引き出物は、大きさからいって洋菓子だろう。鍵を開けて部屋に入る。ジャケットを脱ぎ、ソファに座ると、急に疲れを感じた。しばらくそうしていると、今度は小腹が空いてくる。
    (菓子だったら、いま食べようかな。)
     箱から出てきたのは、バウムクーヘンだった。一人暮らしでは消費しづらい代物だが、まあ定番の品だし、ハズレがない。湯を沸かして、コーヒーを淹れる。ケーキナイフで一切れ取って、皿に乗せる。それらをダイニングテーブルに運んで、食べた。普通に美味かった。音楽を聴く気にも、ラジオを聴く気にもなれない夜、防音設備の整ったマンションは静かだ。明るくて築浅の1LDK。駅からも、自分の店からも遠くない。良い部屋に住んでいる、とつくづく思う。電気すら点かなかったあの部屋とは大違いだ。ファウストも、安心してくれたみたいだった。だけど。
    「俺は、あんたさえ」
     独り言にしては、はっきりと響いた。口を噤めば、またすぐに元の静けさが訪れる。
    (なんにもない部屋だって、俺はあんたがいてくれるだけでよかったんだよ、ファウスト)
     ああ、ファウストの炎は、永久に俺のものにならない。あの頃、抱き合うたびに、彼の中に自分にはない炎が燃えているような気がしていた。だから、部屋にいてくれるだけであたたかな火が灯されたような心地がするのだと、納得していた。あの炎が、俺の心に直接に火を灯してくれることは、もうない。俺が失恋したのは、十年前じゃなく今日なのだとようやく解った。
     ファウストがもし、ここにいたら。冷蔵庫からいそいそと缶ビールを取り出すファウスト。ベランダのハーブに水をやるファウスト。空想が勝手に膨らんでゆく。そうはならなかった、別れたからこそ今のお互いがあるのだということは分かっていた。だが、止まりそうにない。自分を傷つける空想の歯車に巻き込まれて、制御できなくなってしまう。まずい、このままでは。
     不意に、空気を入れ換えるために開けておいた全面窓から、風が入ってきた。緑色のカーテンがはためく。それは鮮やかな緑色だ。いつから使っているのかもはや覚えていないが、ネロはそれをとても気に入っていた。この南向きの部屋は、直射日光だと温まりすぎる。そんなときカーテンを閉めると、光が透過して若葉のような色になって、それも気に入っていた。いまは夜だから、もっと落ち着いた、だが明るさも感じるグリーンだ。
    (いつ買ったんだっけ、あれ……)
     ぼうっとしてよく思い出せない。色々ありすぎたのだ、今日は。だが、カーテンが揺れているのを見つめているうちに、自然と心が落ち着いてきた。
    (こうなったら、思うさま感傷に浸ればいい。)
     思いっきり浸って、恋の弔いをする。その方が、自分にとっては良いだろう。大丈夫。大抵の苦味は、よく眠って、よく働いて。美味いものを食って、風呂で体を癒して。日々を暮らしをこなしているうちに、薄れてゆくものだ。自分を癒す術も、いまでは随分身についている。昔はそういうことが本当に苦手だった。大人になったからできるようになったのだろうか。それとも、何かきっかけがあったのかもしれないが。
     南向きで明るい、緑色のよく映えるこの部屋で、もうしばらくは暮らしていく。
     いつかその弔いを完遂できたなら、ファウストを招いてみようか。その「いつか」は今でないことは確かだが、それでもいつかはやってくると、不思議と確信できる。来たるべきその日には、こないだ買ったばかりのワインも熟して、ちょうど飲みごろになっているかもしれない。アテには鴨のパテを作ろう。そいつで一杯やりながら、「俺たちもずいぶん熟したよな」なんてベタな冗談を言い合うのだ。ネロはふ、と笑みを溢す。悔しいことに、悪くない未来予想図だった。

    fin.
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    かも@ねふぁ

    DONE*もちふた2展示*
    パス外しました。人生初のサークル参加だったのですが、とても楽しかったです。来てくださった方々、主催者様、ありがとうございました。

    現パロ、バウムクーヘンエンドのネファ。全年齢です。

    電気が点かない部屋のエピソードは友人の実体験です(許可得てます)。Gさん素敵なネタをありがとう。
    ウェディング・ベルは彼を知らない


    プロローグ

    「もしもし、ネロか?」
     耳にしっくりと馴染むその声を聞くのは、かなり久しぶりだ。「僕だ。ファウストだ」と簡潔だけど礼儀正しく名乗るのを聞く前から、もちろん電話主が誰かなんて分かっている。
     ファウストが電話をくれるなんて、珍しいことだった。彼が向こうへ移ってからもときどき葉書が送られてきていたので、連絡自体が途絶えていたわけではなかったけれど。こないだのは何だったか、たしか暑中見舞いの時季に届いたグリーティングカードか。いつも通りの彼らしく趣味の良い絵葉書に、二言三言メッセージが添えられているものだった。ときどき送られてくるそれらはしみじみと嬉しいもので、ネロは毎度欠かさずに返事を返す。といっても、洒落た絵葉書なんかどこで買えばいいのかも分からないし飲食業の身ゆえ時間もないので、短いメールでの返事だが。ともかく、声を聞くのは久しぶりのことだ。
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