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    shibari_

    @shibari_

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    shibari_

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    お空綺麗〜

    サバイバル・ロッタリー 後編ヒステリックに叫びながら銃を乱射するCPを、まるで果物のように潰していく。
    巨大な手を幾本も生やし、蜘蛛のようになったそれは己に敵対するものに対して慈悲の欠片もなかった。
    それともこれは彼女の意思なのだろうか。それを問うのが恐ろしい。
    眼前で行われた殺戮をただ黙って見るしか無かった。
    やがて誰も声もあげられなくなった研究室で、無機質な機械音がじりじりとスモーカーの臓腑を締め付ける。
    一瞬で狂気が支配した研究室は地獄の形をしていた。
    目なんてないはずなのに、それらが明確にスモーカーへと意識を向けたのが分かった。
    CPが全滅すれば次に狙われるのは自分だ。
    ひたりひたりと、素肌と床が擦れる音がする。
    相手が飛びかかってくるのと、スモーカーが十手を振り抜いたのは同時だった。

    「だめ、モクモクちゃんはだめ」

    化け物ではなかった。代わりにいたのは少女だ。
    十手はすんでのところで止まっていた。あと数センチ踏み込めばそれは簡単に少女の頭を潰しただろう。
    本能でもその選択肢を選んだ自分が恐ろしかった。
    少女の意思に従うように、それはスモーカーの周りから引いていく。
    「ごめんね、モクモクちゃん」
    「……それは、なんの謝罪だ」
    CPを殺したことか、自分に今襲いかかってきたことか。
    それともこうなることを初めから知っていたことか。
    少女は謝罪の理由を語らない。
    たくさんの肉塊に囲まれているのに、ぽつんと一人孤独を噛み締めているようだった。
    「こいつらは、一体なんなんだ」
    かつての夢で見たそれを、スモーカーは命として問いかける。
    「……お母さんの子供。だから、わたしのきょうだい」
    「あのドクターが生み出したのか?」
    こくんと少女は頷く。
    彼女の周囲を徘徊するそれは、まるでお預けを食らった犬のようにスモーカーに狙いを定めている。スモーカーが襲われていないのはひとえに少女がそれを許していないからに過ぎない。
    「お前が操っているのか」
    「手足がないと歩けないから、歩けるようになれってお願いしたの」
    それは答えでは無い。いや、そもそも意思疎通が出来ているのか。
    彼女のお願いがこの生き物を生み出したのか。
    彼女は、アリスは一体何者なのだろうか。それを問うための言葉が出てこない。
    一言、お前は誰だと聞いてしまえばいいのだ。
    だがその正体に名前が付くことを恐れた。もしかしたら彼女の口から自分が普通の人間では無いと語らせるのが怖かったのかもしれない。
    少女の青い瞳はまるで鏡のようにスモーカーの今の気持ちを映す。
    「いつかわたし達からきょうだいを奪いにくる人が来るってお母さんいつも言っていたの。そうなったらお手伝いしてねって」
    少女はそんな母親の願いで、まるで料理をするように簡単に命を捻り潰したのか。
    「わたし達はお母さんと一緒に楽園を作らなきゃいけないの」
    少女は祈るようにそう言う。
    母親の望みは娘の望みではあるまいに。少女はまるでそれが自分の使命なのだとばかりに言うのだ。
    「ごめんね、モクモクちゃん」
    ここから逃げてね。そうでないと、
    「邪魔をするやつはお片付けしろって、お母さんが」
    スモーカーは研究室から飛び出した。



    モニター越しに全てを見ていたローは安堵の息を吐く。
    スモーカーがやられるとは思っていないが相手は未知の生物だ。加えて自身はこの有様。
    「四皇と中将を人質に取って立て篭もるのは分が悪いんじゃねえのか」
    モニターを見つめる女史の背中に投げかける。
    ここを楽園にするだの、誰にも奪われないようにするだの。たしかにドクター・キャロルの計画はCPを欺くには十分で、現に海兵や海賊までもが翻弄されている。しかしそれを許すほど世界政府も海軍も甘くはない。
    「そうですね。じきに気付かれてしまいますね」
    「分かっていてどうして」
    「分かっていてもどうしようもなかったからですよ、ドクター・トラファルガー」
    研究室にあった無数の培地からは新しく手足を生やしたそれらが次々と出現する。
    今しがた研究室から逃げ延びたスモーカーの背を負うようにして館内を徘徊し始めた。
    モニターに映るその光景をじっと見ていた女史は冷たい表情でそう言う。
    「だって先に逃げ道を潰してきたのはあっちですよ」
    「それで娘に化け物の真似事をさせるって?」
    「まさか化け物だなんて。本当にそう思っているのなら私、ドクターへの対応間違えてしまったかしら。あなたならこの命の貴さを理解してくれると思っていたのに」
    「細胞の革新さとあんたがやっている行為は別物だろう」
    「いいえ、一つに繋がっていますよ」
    話し合いは平行線だ。ローと女史では立場も目線も何もかも違う。
    「……手足がないように設計したんじゃないのか?」
    噛み合わない会話を横に置いて、ローは話題を変える。
    「ええ、そうです。中身だけを欲しがる世界貴族のためにそうせざるを得なかった」
    「手、生えてるように見えるんだが」
    「生やしたいと願えば、細胞はそれを叶えてくれるわ。成長促進剤を投与したから彼らに合わせて最適な身体を手に入れられるはずです」
    誰がそれを願ったのか。その命そのものが生きたいと願ったからなのか。あれが生存欲求の果てなのか。
    しかしその割には一番足りない物は一向に生えてきていない。
    その疑問がローの中でぐるぐると巡っている。
    「貴方は彼らを命だと思いますか?」
    「……心臓が鼓動していて身体が動いているなら、そこに生命活動はあるだろう」
    「期待していた回答とは違うけれど、よかった。彼らを命だと認めてくれるんですね」
    今まで自分以外の誰かに認められたことなどなかったのだろう。いいや、この分ならこの実験自体女史一人が行っていたのかもしれない。
    一人で何もかも背負い込んで、一人で決めてしまったのだ。
    「中将さんは自然系なのね。なら放っておいてもかまわないわね」
    モニターで館内を駆けるスモーカーを見つめる。その気になれば煙になっていくらでも欺けるだろう。
    元よりスモーカーをどうしても対処しなくてはならない理由もないのだろう。
    女史はこの館内にいる残りのCPも始末するつもりだ。そのために彼女の娘は化け物を引き連れて子のミレニアムガーデンを闊歩している。
    「俺とスモーカー中将は何故あんたの計画に必要だったんだ?」
    「同志になってほしくって」
    「嘘をつくな。俺に薬打って海楼石で繋いでいる時点でそんなことちっとも期待していないだろう」
    「冗談ですよ、冗談。私にも世界政府にも正義なんてありませんから。こんなこと誰にも強要できません」
    なんてことのない顔で言う。だが罪科の天秤はどちらにも傾かない。ヒトを作れと言った天竜人も、それを拒否できずに作り続けた女史にも救いは無い。
    「中将さんは民間人の避難のために必要でした。軍艦で来てくれれば職員も患者様も保護してもらえるでしょう?」
    「一応巻き込まない配慮なんて存在していたのか」
    「彼らは何も知りませんから。こんなことに付き合わせるのは可哀想でしょう?」
    貴方は、と女史は言う。
    「これから先あの子たちが延命をする上でその能力が欲しかったからです」
    身体が強ばった。究極の悪魔の実、オペオペの実。その能力を欲してきた人間はごまんといる。
    「……まさか、俺がこんなことされて素直に協力するとでも?この海楼石が無くなれば俺はすぐにでもあんたをねじ伏せられる。それは分かっているだろう」
    「もちろん。大海賊である貴方が私に協力なんてするはずがない。貴方がたとえ医者で、あの子たちを命だと認めていても」
    そこまで分かっていて何故ローは巻き込まれたのだろうか。
    その答えはすぐに分かった。
    「ベガパンク先生は血統因子によってその能力者の能力までも再現することを可能にしていました」
    「おい、まさか」
    女史の言わんとすることに目を見開く。
    「あなたはオペオペの実の能力者。でもあなたに命令できる人なんてこの世に存在しません。だったら、オリジナルには及ばなくてもその血統因子は必ず助けになる」
    かつてセラフィムがオリジナルの能力を再現していたように、オペオペの能力をあれらに付与しようとでもいうのか。
    無限に増やすことの出来るその命達に血統因子を与えれば無敵の軍団となるだろう。
    だがそんなことをすればますます闘いは終わらない。互いに全てを無にするまで止まることは出来なくなる。
    「安心してください。眠っている間にもう体液は摂取させていただきました。あれだけあれば十分血統因子を作れます」
    だからどうか、特等席でご覧になっていてくださいね。
    女史はそう告げた。
    ローは奥歯を噛み締めて顔を歪める。
    女史の覚悟を読み違えていた瞬間から後手に回ることは必須だったのだ。
    ふいに、プルプルプル、と音が鳴る。電伝虫の着信音だ。
    ローはその音源へと視線をさ迷わせる。
    操作盤の横に見覚えのある電伝虫が置かれていた。それは今回この施設に訪問するに当たってセンゴクから持たされた電伝虫だ。
    気絶している間にローから取り上げたのだろう。
    「あら、貴方にお電話みたい。出ますか?」
    「……まさか、この状況で出ろと?」
    「かまいませんよ。もしかしたら大事なお話かもしれないですしね。ただ私も聞かせてもらうことになってしまいますけど」
    たしかしこの状況でローが外部に助けを求めても、中の状況を説明しようとも誰にもどうにも出来ない。女史の余裕は自身が優位を取っているからこそのものだ。
    女史の手によって目の前にまで持ってこられた電伝虫の受話器が持ち上げられる。
    『お・か・き〜!』
    電伝虫からよく知る声が聞こえてきた。
    あまりの大きな声に電伝虫の真横にいた女史はまあ、と目を丸くしていた。
    「……あられ」
    彼との符号はローが小さい時から変わっていない。
    『ロー!お前、今まで何をしていた。何度も連絡したんだぞ』
    「ああ、……それなんだが」
    ローは女史へと視線を向ける。彼女は微笑むばかりだ。
    「ちょっと身動きが取れない状況でな。だからあんたからの連絡も取れなかった」
    『ミレニアムガーデンが襲撃されたそうだな。G5からは民間人救助のために援軍要請が来ている。今しがた近隣の支部から何隻か船を出した』
    センゴクの言葉にローは女史を見る。彼女は何も言わずにただそれを聞いていた。
    『敵は海賊か?お前達で既に排除したのか?』
    「……いや、海賊では無いが既に粗方片付けられている」
    『何?』
    どういう事だと問い質される。ローの口ぶりでは自分達が手を出していないことは分かるだろう。
    どうもこうも外部の襲撃に偽装したのはドクター・キャロルで、今中で戦いを繰り広げているのはCPの謎の生き物たちだ。
    『ロー、今どこにいる』
    「……」
    『ロー、状況は?』
    「この通話は」
    一度言葉を切った。女史が止める素振りは無い。
    「この通話はドクターも聞いている」
    『ドクター?ドクター・キャロルの事か』
    「そうだ」
    『……、スモーカーはどうした』
    「鬼ごっこ中だ」
    『何?』
    「一足遅かったんだ。潜伏していたCPは半壊状態で俺は今動けそうにない。敵の手に落ちていないのはスモーカーだけだ」
    電伝虫の向こう側でセンゴクは息を呑む。
    『……そういうことか。ドクター・キャロルが事の首謀者なんだな?』
    ローは女史を見た。まだ通話は切られない。何故だ、いずれ発覚するにせよこうも早く暗躍が露呈しても得は無いだろうに。
    『なるほど、だからこそ同時か』
    「何の話だ?」
    センゴクの含みのある言い方に、ローは自身の置かれた状況も忘れて聞き返す。
    「外で何かあったのか?」
    『今しがた連絡が来たから私も詳しいことは分からん。だが、現在何人もの世界貴族が突如として意識不明の重体、それからまるで夢遊病患者のように錯乱した症状が発現している』
    「!」
    ドクター・キャロルが笑みを深めた。
    センゴクの次の言葉は予想できる。おそらくその世界貴族は、
    『共通点はミレニアムガーデンへと視察に行った者だ』
    その世界貴族がこの施設に来て何をしていたかなど想像に容易い。
    女史の慟哭も、研究室のあれも、そのために舗装された地獄への、
    「あんた、まさか」
    はたして誰にでもなれる細胞は、本当に誰かへと成るのだろうか。
    「ここまで」
    がちゃん、と電伝虫が切られる。
    自分が首謀者であると露見してでもここまで通話を引き延ばしていたのは彼女の目的があったからだ。
    「……あんたが外から聞きたかったのはこれか」
    自分の計画が成功したかどうか。この目で確かめる術がない今外部から連絡が来るとすれば、思惑があって乗り込んだ者達に向けてだ。
    「身体を与えるつもりか」
    「元は彼らの命ですよ。先に奪っておいて自分は奪われたくないだなんて、都合が良すぎると思いませんか」
    「臓器移植しただけじゃあ身体は乗っ取れない。脳みそは本人のものだろう」
    「ええ。でもいずれは彼らのものになります」
    「馬鹿な」
    考える。本当にそれだけなのだろうか。
    いかにALiC細胞が優秀だったとて、臓器一つから本人の細胞は侵食出来ない。人間は脳みそに支配される生き物だ。
    例えば臓器移植された人間がドナーの記憶を保持しているなんて話も聞くが、記憶と人格は違う。本人は本人であるという意識のまま、他人の記憶を保有しているだけだ。
    だから例えば臓器の主導権を握られたとして、すべてが彼らのものになるはずがない。
    だが女史のこの自信はどこから来るのだろうか。何か別の理由があるはずだ。
    何か。
    足りなかった違和感を思い起こす。
    彼らはなりたい姿になれると言った。歩くための手足を手に入れ、自分達に敵対する者を殺す力は手に入れた。
    だがそこまでしても一つだけ生えていないものがある。なぜそれを望まないのだろうか。一番に考えるならそうではないのか。
    元は移植のために臓器だけを生かす器とはいえ、その身体が水槽から飛び出し何の補助もなく動いているのならば必要なものがあるはずだ。
    何故。
    「……ドクター・キャロル」
    「はい」
    「あのアリスという少女は、何故他と違うんだ」
    一人だけ違う違和感。彼女が娘と呼んで愛する対象。計画の名前。
    彼女の呼びかけに彼らは反応していた。
    「さあ、なんでだと思いますか?」

    館内を再びけたたましい警告音が走り抜けた。

    所変わって館内ではスモーカーが駆けまわっていた。
    他にも潜伏しているだろうCPも、彼女がきょうだいと呼ぶそれも、この瞬間から全てがスモーカーの敵になったのだ。
    少女の突然の豹変も、研究室の設備も、そもそもスモーカーの認識が間違っていた。
    あの母親と行動を共にしていた恋人は今どうなっているのだろうか。
    そこらかしこで銃声が響く。スモーカーが最初に目算した数よりもずっと多くのCPが潜んでいたらしい。
    道理で避難の数が合わないわけだと思い、はたと気付いた。
    この訳も分からない状況の中、また民間人はシェルターにいるのではないか。スモーカーがあの場所を離れてから随分と時間が経ってしまったが、帰ってこなければ先に保護してもらえと伝えたはずだ。
    物陰に身体を隠し懐から電伝虫を取り出す。掛ける先は部下が待つ戦艦だ。
    「おい、今現場はどうなっている」
    『スモやん~!あんた今まで何してたんだー!良かったー!』
    途端煩い声にスモーカーは思わず懐の中へ電伝虫を戻した。自分が連絡するまで連絡するなと伝えてあったからか、しばらくの間何もなかっただけでいやに激情的な応対だ。
    「声を抑えろ。今あまり状況が良くないんだ。それよりもさっき頼んだ民間人の保護はどうなっている」
    『それが、あんたに言われてすぐ周りを哨戒したけど敵影らしきものはさっぱりで。おまけに避難船の一つも上がってこねえ!』
    「あ?どういうことだ」
    『そりゃこっちが聞きてえよ!つまり周りに敵なんていないってこった!』
    スモーカーはしばし考え込む。つまりCPから始めた喧嘩ではないということだ。
    やってくれる、とあの柔和そうな顔をした女博士を思い浮かべて眉を顰めた。
    『それよりスモやん、大変なんだよ。俺達他の支部に援軍を頼んだんだが、どういうわけか様子が可笑しい』
    「端的に言え」
    『敵影もないからただの人命救助になるってのに、他支部の艦が九隻こっちに向かってきてる!それに多分ありゃあしこたま火薬を積んでる艦だ』
    「は?」
    スモーカーは耳を疑った。こちらの施設の規模に対して艦九隻。民間人を乗せるだけならG5の艦だけで十分だ。加えてもしこの施設に攻撃を仕掛けてくるような敵がいるのならば援軍は必要だが、それでも精々二、三隻が関の山だろう。
    だがどうしてそんなに都合よく艦を集められたのか。九という数字になにか嫌な予感を覚える。
    「……分かった。いいか、お前らは継続して民間人の保護を最優先にしろ。中からは俺が様子を見る。くれぐれも早まったことはするなよ」
    『ちょ、スモやん!?早まったことってなんだよ』
    「悪いがもう切る、たしぎにうまくやれと伝えておけ」
    がちゃり、と電伝虫を一方的に切り眉間に手を当て考える。
    今はローも側にいない。確信の無いことは言えない。だが長い海兵人生でこうした悪い予感というものは良く当たるのだ。
    とにかく先ほどの避難シェルターへと行かねばならない。一刻も早くこの危険な館内から脱出を図るべきだ。
    だが一つ、スモーカーが気がかりなことはあの女博士と消えたローのことだった。
    こんな状況でも彼の気配を感じることがないということは、彼はあの女史に捕まっているのだろうと容易に想像できる。かの四皇が女性一人に捕まるというのもおかしな話だが、昔から妙なところで女性や子供に甘い。民間人であるのならなおさら。
    悶々とした中、スモーカーの電伝虫が震えた。今度は外部からの連絡だ。G5にはあちらから連絡はするなと言い含めている。しかしスモーカー個人へ繋がる電伝虫の番号を知るものなどそうはいない。
    周囲を確認して、スモーカーはそっと電伝虫の受話器を取った。
    「こちら、スモーカー」
    『スモーカー中将だな。センゴクだ』
    「!」
    意外な人物からの連絡に目を丸くする。確かに彼ならばスモーカーの電伝虫に掛けてくることは可能だろう。だが。
    「大目付、なぜ」
    『それよりもどうやら大変な状況らしいな、スモーカー中将』
    電伝虫越しにそう言うセンゴクは限りなく声の大きさを抑えている。そういえば確かに大目付は電伝虫に独特の掛け声で出るのではなかったかと思い出す。恋人が「あられ」だのなんだの、変な返事で出ていた光景を見たことがあった。
    その大目付が既に状況を理解しているかのように通信をしてきている。
    スモーカーの沈黙を察したのか、大目付は言葉を続ける。
    『大体のことはさっきローと通話して分かった。CPも乗り込んでいるのだろう?』
    「ローと会話が?」
    思わず名前に反応する。
    『ああ、だがあちらはあちらで身動きが取れないらしいがな。横に首謀者がいる中で会話をさせられておった』
    「あの女博士ですか」
    『ああ、そうだろうな』
    やはりローは敵の手の中に落ちているのだ。当たってほしくは無かった予想が現実となりがちりと奥歯を鳴らす。
    しかし同時に疑問にも思った。
    いくらローと親しくしているとはいえ、こんな状況で現場にいる中将のスモーカーより先に海賊に連絡をするのは変ではないだろうか。
    あくまで今回の件は招待された四皇と監視の将校なのだ。現場の責任はスモーカーにある。
    レストランでのやりとりとローの口ぶり、そしてここに来るまでの周到さを思い出しため息を吐く。
    「……そうですか、最初からここに来たのはあんたがあいつに言ったからですか」
    『そうだ。あれに仕事を頼んだのは私だ。まさかここまで自体が急変するとは思っていなかったが』
    「CPが既に入り込んでいるとは思わなかったと?」
    『完全に何も知らなかったと言われれば嘘になる。だが誓ってお前達を不利な戦況に置くために送り出したのではない』
    スモーカーは長年元帥に身を置くセンゴクを見てきた。その正義は揺らぐことがなかったし、だからその下に付くスモーカーを初めとした海兵達も己の正義を掲げることが出来ていた。
    それになにもローとて言われるがままにここに来たのではないはずだ。彼にも彼なりに思うところがあってこの施設へ足を運んでいる。
    「……通信の内容をどうぞ」
    スモーカーは言いたいことの全てを飲み込んで大目付の言葉を待った。今優先すべきは責任の有り所ではない。
    センゴクは小さく咳払いをして、ことさら声を抑えてスモーカーに告げる。
    よく聞くんだ、と。

    『ミレニアムガーデンにバスターコールが発令された』

    スモーカーは思わず十手を握りしめる。悪い予感はよく当たる。
    「……馬鹿な。まだ民間人も残っているんですよ。誰がそんな発令を」
    『要請をしたのは世界政府だ。その要請を海軍本部が受理し、先ほど正式に元帥より発令された』
    それではあまりにも用意周到だ。
    「……世界政府はなぜこの施設を消したいんですか。この施設はあっちの肝煎りだったはずだ」
    理由なら分かる。先ほど見たすべてが消される理由足り得るのは理解できた。
    しかしここでやってきたことそのものが、そもそも世界政府の知るところでは無かったのか。
    『ドクター・キャロル、およびALiC細胞に関わる全てを殲滅せよとのことだ。それ以外の理由は聞くな』
    センゴクは押し殺したような声で言う。
    「……まるで隠蔽のような言い草だ」
    『迂闊なことを言うなスモーカー』
    誰が聞いていてももはや関係ない話だ。これは正しく隠蔽なのだ。
    『発令に際し任務に当たる海軍本部中将五人のうちの一人に君も入っている。G5はこれよりバスターコールの任に当たることになる』
    拒否権などもちろん無い。元帥がそう決めて、既に近海には火薬が摘まれた艦が来ているのだ。
    「あんたがこの連絡をしてきたのは何故ですか」
    バスターコールを発令するだけならば彼でなくともよい。もっと言うのならばスモーカーにすら知らせず強行することだって出来たはずだ。
    そこにいる何もかもを無にするまで攻撃をする。それがバスターコールだ。
    『私の一存で現場への連絡を止めている。バスターコールはまだ始まらない』
    「そんなこと……」
    『ああ、いつまで持つのか保障もできない。中に援軍を送ることもできない。だが、我々にはまだやらねばならないことが残っている』
    民間人をと。
    こんな事のために失われていい命は一つもない。
    「ローは知っているんですか」
    『発令が出たのは今しがた。この話をしたのも君が最初だ。まだ救える命があるのなら、スモーカー中将。それはそこにいる君にしか実行できない正義だ』
    大目付はついぞそこに死の外科医の名前を上げることは無かった。
    おそらくもう大した時間は無い。シェルターに向かうか、それともどこにいるか分からない彼を見つけに行くか。二つに一つ。
    深呼吸をする。
    もしここにローがいたのならば鼻で笑っただろう。
    自分は彼と恋人になると決めたときから、彼を己の天秤に乗せることはしまいと誓っていた。
    スモーカーは海兵で、ローは海賊で。決して交わることのない立場を歪めてしまった時に、それでもスモーカーがこれだけはと心に決めたことだ。
    今できる全てを。自分の正義を全う出来なければ魂は死んでしまう。ならばその自分の正義とは何か。
    はなから二つの選択肢など存在しない。

    「なんの警告音だ」
    「……安心してください。今度はちゃんと仕事したみたい」
    モニターを見ながら表情を険しくさせた女史を見上げ、ローは口を引き結ぶ。
    「ある一定の範囲内に敵影が見えたら警告音が鳴るんです。事前通告がない艦には全て反応します。これが本来のこの要塞施設の機能」
    レーダーに映る影は施設周辺に一つ、そして徐々に近づいてくる艦が九隻。その一つはロー達をここまで運んできたG5の艦だろう。
    「これで合計十隻ね」
    ドクター・キャロルがぼそりと言ったその艦の数にローは心当たりがあった。冷や汗が背を伝う。
    「……なんだ、自分たちの命のためには手放せないと思ったのに」
    ナイフのように鋭く冷たい声音が吐き出される。
    「結局四皇がいても、民間人がいてもこうなってしまうのね」
    それは紛れもない、バスターコールの発令だった。



    少女は寂しい研究所内を歩いていた。
    母の言いつけを守って、きょうだい達を傷つけようとするものから守った。
    服は血まみれ、靴もボロボロ。母と同じ色の髪はボサボサに絡んでしまっている。
    自分たちに銃を突きつける悪い人達は少女の事などお構い無しに弾丸を放つ。
    その度にアリスは酷い痛みと傷が塞がる反動に呻き声をあげるのだ。
    頭は割れるように痛い。ぼわぼわして、風邪をひいてしまった時に似ている。
    だがその痛みがアリスへと絶えず情報を与えていた。
    「大丈夫、お外のおともだちは皆眠ったよ」
    そばにいるきょうだい達へ語りかける。
    母はこれを必要な事だと言った。楽園を完成させるピースになると言っていた。
    少女もまたそう理解した。外の情報は既に思うままに彼女に入ってくる。
    館内にいるきょうだい達を奪おうとした人間たちはもうほとんどいなくなったはずだ。
    他の階を見ているきょうだい達もそう言っている。
    気がかりは先程少女と別れた海兵だけだった。
    アリスの眼を綺麗だと言い、同じ色の飴玉をくれた親切な海兵さん。
    彼は他の人間と違うと知っている。だから彼が逃げるのを何もせずに見送ったのだ。
    ぱちり、ぱちりと何度か眼を瞬かせてアリスは脳裏に映るひとつの光景を捉えた。
    思わず壁に駆け寄る。両手を壁にぴとりと這わせ、額を着けて外を『視る』。
    遥か海上では十隻の艦が揃おうとしていた。
    彼女はそれが何を意味するのかをつい先程知った。
    「だめ、だめ!まだ終わってない!」
    少女は叫ぶ。
    その叫びに呼応するかのように、肉塊たちはざわざわと蠢き始めた。
    再び少女は館内へと意識を戻す。まだ多くの人間の気配がこの施設の中に存在していた。
    「あと少しで終わるのに」
    この施設で働いていた人達、病気を治しに来た人達。アリスに挨拶してくれた人達、アリスがイタズラしたら笑って許してくれた人達。
    アリスが何者かも知らなかった人達。
    誰も失いたくはなかった。
    「……うん、お手伝い。おねがい。でも戦っちゃだめだよ。邪魔するだけ」
    水中を伝う意思が返事を返す。
    「ありがとう。無理しないでね」
    鼻の奥がつんと痛い。思わず手で抑えると、べっとりと血が着いていた。
    少女は袖でゴシゴシと拭うと泣きそうになるのを我慢した。
    「モクモクちゃん……」
    少女は頭上を見上げた。


    G5の艦の甲板ではたしぎを始め海兵達が民間人の避難シェルターが上がってくるのを今か今かと待ち続けていた。
    後方には近隣支部の援軍である軍艦が次々と現れている。その異常な数にG5の面々には緊張が走っていた。
    「大佐ちゃん、あれって」
    「分かっています」
    艦はどれも海軍本部中将が乗艦しているものだ。その数四名。
    このG5の艦と合流することになれば計五名の中将と十隻の船がこの場に揃うことになる。
    ここまで来てその意味が分からない彼らでは無い。
    「俺らに指示は来てるのか?」
    「まだ上からは何も。バスターコールは発令していません」
    たしぎが明確に言葉にしたことによって、そばに居た海兵はへにょりと情けない顔をした。
    「でもよぉ、大佐ちゃん」
    時間の問題だ。艦が用意されているということは既に発令自体は決定しているのだ。あとはゴーサインが出るのを待つのみ。
    しかしそれではまだ避難していない民間人も、そして今施設内にいるであろうスモーカー達も取り残されたまま攻撃を開始することになってしまう。
    「……スモーカーさんは『早まるな』と言っていたそうですね。私たちの任務はあくまで民間人救助が最優先です。たとえバスターコールが発令したとしてもそれは変わりません」
    刀の束を握りしめたしぎは悔しげに言う。
    「なんだって急にバスターコールなんか」
    初めはただの施設訪問と近海演習。そして次は外敵からの襲撃。暫くして音沙汰もないところにこの騒ぎだ。たった数時間で目まぐるしく変わった事態に疑念を抱く。
    だが彼らに異を唱えることはできない。一度発令すれば全てを無に帰すまで続くのがバスターコールだ。
    そうなる前に民間人もスモーカーも、そして同行している四皇トラファルガー・ローも救い出す必要があった。
    「だけどよお、死の外科医にかかればとっくに全員移動して来てるんじゃねえのか」
    海兵の一人がそうぼやく。
    オペオペの実の能力でいつでも彼らが移動できるように、G5の甲板には入れ替わってもいいような樽や木箱が置かれていた。
    この距離であるのならば既に能力の有効範囲に含まれていても可笑しくはない。しかし一向に音沙汰は無い。
    「移動できない理由があるんです、きっと」
    スモーカーからの最後の通信では中の状況はあまり良くない様子だった。
    死の外科医が能力を使えない状況なのか、それとも自身の上官が危機的状況なのか。
    トラファルガー・ローが一人で離脱してくる可能性は限りなく低い。その逆はあっても、かの四皇がスモーカーを置いてくることは決してない。
    それは海兵であるたしぎが海賊なんかに抱いている唯一の信用だった。
    「スモーカーさん、お願いです」
    早く民間人を。
    彼らが抗える時間は残りわずかだ。艦が完全に揃う前に間に合わなくては。
    その時、低く深い、響くような鳴き声が絶海に響き渡った。
    腹の底から響くそれは彼らの身体を震え上がらせる。
    「これはなに……?」
    一度や二度では無い。一匹や二匹では無い。
    「大佐ちゃん、下だ!」
    甲板の端に慌てて駆け寄った。海を覗き込んだ海兵達は、自分達の艦の下を蠢く大きな影に息を呑んだ。
    その身体に触れた艦はぐらりと揺れ、海兵達はその場でたたらを踏んだ。泡立つ波が甲板に叩き付けられる。
    「大変だ!大佐ちゃんっ。このままじゃ」
    「いえ、っ」
    これは自分達ではない。
    その影はぐんぐんと速度を増してG5の艦の下をくぐり抜ける。
    たしぎは思わず振り返った。
    行先は視線の先、こちらへ向かってくる軍艦の方だ。
    まるで会話をするように彼らは鳴く。
    その影は海面に大きなうねりを作り、そのまま海上を割り裂いて顔を出す。
    「海王類が」
    その巨躯が大きな弧を描き軍艦の群の上を飛び越えた。
    高く跳ね上がった身体と太陽が交叉して、たしぎは漏れた光に思わず目を細める。
    青い眼を爛々と輝かせた海王類の群れが海兵達の行く手を阻むかのようにその牙を剥いた。


    「……アリス」
    少女が外へと呼びかける光景はコントロールルームのモニターからも見えていた。
    心配そうに見つめる母親の背にローは問いかける。
    「海王類にも細胞を?」
    「……ええ、医療技術への転換の時に。あらゆる生物への適応試験の一環で、魚人族に対する臨床試験の前に選ばれたのが海王類や海獣です」
    エコーロケーションのようなものだろうか。
    互いに秩序だって動く海王類はそれ以上海軍の艦が近づくことを防いでいた。ご丁寧にG5の艦を避けてである。
    まるで誰の船か理解しているようだ。
    「何故まだ避難していないの」
    女史はモニターの前で操作しながら独り言のように零す。
    監視カメラの映像は切り替わり、退避シェルターがある格納庫を移していた。
    未だシェルターは民間人を乗せたままその場から少しも動いていなかった。
    「注水エラー……?なぜ」
    パネルを叩き、はじき出された結果に眉を顰める。
    「なんだ、最初の爆発で建物に不具合でも起きたか」
    「……あの爆発の衝撃は外に逃げるように計算しました。建物そこ派手に揺れましたが、そのくらいの衝撃なら施設の設備は十分耐えます。ここは海中要塞ですよ」
    そこまで言って女史ははたと気付いたようだ。
    「まさか、外に逃げないようにシステムを切ったんじゃ」
    ドクター・キャロルは苦々しげに言う。
    何度かパネルを操作しても全てエラー音が出てしまう。
    つまりこのままでは民間人の避難が完了しないままバスターコールが始まってしまうのだ。
    「……あんたにとってはそれが必要な犠牲にはならないのか?正直ここまでの事を起こしたんなら、はなから無傷で済むわけが無い」
    「……」
    女史はじろりとローを見た。
    「……我らの楽園は我らの尽力で持って成すべきことです。そこに他人の命を使ってしまったら、彼らと同じになってしまうでしょう?」
    「ご立派だな」
    その楽園とやらが本当に出来ると思っているのだろうか。
    バスターコールは発令され、今は処刑宣告を待つのみ。海王類を操っているようにみえるが、それだって攻撃を完全に防いでくれることはないだろう。
    第一相手はきっとこの場所が無くなるまで何度だってやってくる。
    そのことを分からないはずもないのに。
    ローは目を細めた。
    彼女の言う楽園はきっと。
    ふいにモニターの端に人影が映った。シェルター近くの映像電伝虫が映し出したものだ。
    はは、と笑った。
    きっとそうだろうと確信していた。この状況でも冷静に、そして己の判断を誤らない。
    「……スモーカー」
    ローの口から滑り落ちた名前にドクター・キャロルもまた視線を向ける。
    モニターにはシェルターへと走る一人の海兵の姿が映っていた。



    海王類の鳴き声は海中にまで届いていた。
    「なんだ……?」
    退避シェルターへと向かっていたスモーカーは思わずその足を止める。
    見聞色の覇気が施設周辺に潜む海王類の気配を知らせてくる。
    攻撃の意思は無い。穏やかに施設をぐるりと囲むように泳いでいる。
    海楼石で出来た施設は彼らにとって海の一部の様なものだ。だがこれは違う。彼らはこの施設を認識し、その上で何もしてこないのだ。
    スモーカーはふっと、一息ついて再び走り出す。
    こちらを害する意図が無いのであれば、今はそれに構っている時間は無い。
    退避シェルターのある階は比較的上層であり、CPや少女たちの姿は見えなかった。
    シェルターのある格納庫の扉を押し退けて入る。
    スモーカーはシェルターの外に一人だけぽつんと立っている人物に思わず目を丸くした。
    それはスモーカーが最後にやり取りをしていた職員だ。
    「お前、なんでまだ中に入っていないんだ!」
    スモーカー声にびくりと肩を震わせて振り返る。職員は酷く真っ青な顔をしていた。
    「あ、あの、海兵さん」
    「俺達には構わず行けといっただろう。もうこの施設は危険だ」
    そう言いながらスモーカーは近くまで駆け寄る。既にその職員以外の姿は無い。
    「他は全員中に?」
    「は、はい。全員では無いですけどほとんどの人は既に中にいます!」
    ここに戻ってきていないのは患者や職員に扮していたCPだろう。
    「海上には海軍の艦が近くまで来ている。今すぐここを抜け出さないと二度と外へは出られなくなる」
    バスターコールが発令されているとは言えなかった。要らぬ混乱を招きたくは無い。
    だがスモーカーの真剣な表情に事の重大さを感じ取った職員は「そんな、でも」と手で口を覆った。
    「外に続く隔壁が開かないんです」
    告げられた内容にスモーカーは息を呑んだ。
    格納庫から続く隔壁は、たしかに固く閉ざされたままだった。
    「開かないってのはどういうことなんだ」
    「本来はこの格納庫自体に海水を注水して、それから扉が開く仕組みなんです。でもいくら注水の指示を出しても全然始まらなくて」
    スモーカーは辺りを見回す。海水の一滴すら入り込んでいない。
    「何故出来ないか分かるか」
    「と、扉は問題ないと思います。あれは余程のことがない限りは歪まないように出来ていますから、最初の揺れ程度ではビクともしません。だから問題があるとすれば注水の方だと思います」
    僕は専門外なんですが、と職員は不安げに呟く。
    「注水が始まらない限りは隔壁の開閉も出来ないようになっていると思います」
    「二つは連動した機能なのか」
    「そうです。そもそもこの建物は常に外からの海水の圧が掛かっています。それを防ぐための注水システムです。もし注水せずに隔壁を開けたら一気に流れ込む海水に押し流されます」
    格納庫はシェルターよりも二回りは大きい。この空間を満たすための海水が一気に流れ込めば無事では済まないだろう。
    だがシェルターというくらいだ、その装甲は頑丈に出来ているはずではないのか。
    「もし注水せずに隔壁が開くなら、艦で無理やり外に出ていくことは出来ないのか」
    「……退避シェルターは潜水艦という程ではありませんが、浮上するためにある程度艦としての機能を有しています。でもあの水圧を振り切れるかどうかは……」
    「分からないってことか」
    スモーカーが思い浮かべる潜水艦と言えばポーラータング号だ。数々の海を行く死の外科医の母船。
    きっとあの船ならばこんな絶望的な状況でも切り開くことが出来たに違いない。
    「だがそう言うってことはつまり別々に切り離して動かすことは出来るんだな?」
    スモーカーの言葉に職員はばつの悪そうな顔をする。
    やってる所を見たことは無いですけど、と前置きを置いて格納庫の扉の横を指さした。
    「一応手動で開けるための非常用レバーがあるんです。でも多分それも注水しないで使うことを想定してないと思います。あくまで点検用のものですから」
    「非常用レバーか」
    なんだやはり方法があるのではないか、スモーカーは息を吐く。しかし職員がそれを言い出さなかったのは、そのレバーの操作者が無事でいられる見込みがないからだ。艦をも押しのける海水をただの人間が防げるはずも無い。
    そう考えて初めてスモーカーは何故職員が一人だけ外に残っていたかを理解した。
    「お前、まさか自分があのレバーを引くつもりだったのか?」
    真っ青な顔で不安げにしていたのは、隔壁が開かないことへの焦りだけではなく、自分が果たさねばならない責務に竦んでいたからだ。
    スモーカーの言葉に職員は口を噤む。どうやら図星だったらしい。
    「シェルターの中には職員だけではなくまだ身体の不自由な患者さんも乗っています。いつまでもこんな場所にずっといるわけにはいきません。だから、万が一の時には無理やりにでも出ていこうと……」
    そうしてその万が一の状況が来ないことを祈りながら一人シェルターの外にいたのだ。
    そして今その万が一が来てしまった。たとえバスターコールのことを知らなくても、今が危機的状況であることは察しているのだろう。拳を固く握り締め、勇気を振り絞ってここにいるのだ。
    スモーカーの判断は一瞬だった。
    「お前は今すぐシェルターに乗れ」
    「え、いやでも」
    「そしてこいつを動かすやつに隔壁が開いたら全力で外に向かえと伝えろ」
    職員はぽかんと口を開けた。
    「俺がそのレバーを引く」
    職員はぱくぱくと口を開閉させた後に、やっと言葉を思い出せたのか半ば興奮気味に叫んだ。
    「え、ええ!そんな、だってそんなことをすれば」
    今度はスモーカーがただでは済まされない。
    「そっくりそのまま返す。俺は海兵だ。民間人を守るのも仕事のうちだ」
    職員が患者を守ろうとしたように、スモーカーはここにいる全員を守りたかった。このレバー1つを引いて多くの命が助かる可能性があるのならやらない理由は無い。
    スモーカーが強く睨めば、職員はこくこくと頷いた。
    「で、では、せめてダイバー服を着てください。」
    壁際に掛かっている服を指さし泣きそうになりながらそう言う。
    「そんな時間は無い。そもそも俺は能力者だ。どの道海水に浸かれば泳ぐことなんてできない」
    「じゃあ尚更……!せめて空気貝を使ってください!少しの間なら顔の周りに空気の層を作って息が出来るんです!」
    「……分かった、分かった。俺がその空気貝とらを使って隔壁を開けるから、早く乗ってくれ」
    懇願のあまりこのままでは土下座でもしそうな勢いの職員をしっかりと立たせて、スモーカーは備品の貝を手に持つ。こんなものを使っても高々数分の命だろう。分かっていても互いのためにスモーカーは受け取ることにした。
    「いいか、海上に俺の部下が乗った艦が来ている。G5の艦だ。真っ直ぐに、脇目も振らずその艦だけを目指して行け」
    職員の背中を叩いて奮起させる。ついには職員もボロボロと泣いてしまっていた。
    そんなに泣かれてしまうとスモーカーもなんだか悪いことをしているみたいである。
    職員は何度も振り返りながらシェルターの中へと入って行った。
    もう時間は残されていない。今すぐ飛び出してもギリギリ間に合うかどうか。しかしやらないという選択肢は無い。
    スモーカーは二本の葉巻を取りだして火を付けた。
    研究室なのだから今日一日は禁煙だ、と朝から言い渡されていたのだ。数時間ぶりの煙が身体に染み渡る。
    深く煙を吸ってその香りを味わった。
    先程の職員は随分と勇敢だったなと笑う。
    スモーカーなんていつもの葉巻に火を付けて、やっと身体が動くのだ。
    自分がここに残ると言ったことを後悔はしていない。
    一人の海兵と何百何千もの民間人。その命を天秤にかけた時選ばれるべきは後者だろう。もしかしたらたとえスモーカーが海兵ではなくても、己の正義が何度でも同じものを選ぶに違いない。
    「……」
    まだ残っている大海賊にはなんと言おうか。
    彼程の実力ならば自力で脱出することも出来るだろう。
    その命を選ぶことすら出来ないスモーカーには心配する必要も無いのかもしれなかった。
    退避シェルターの駆動音が聞こえてくる。
    恋人には謝らなくても、きっと理解してくれると信じていた。
    非常用レバーを前に、スモーカーはもう一度煙を吐き出した。


    全身に叩き付けられる海水と意味もない空気貝の歪んだ景色の中で、スモーカーはもう一人の影を見た気がした。



    電伝虫の映像は砂嵐のように掻き消え何も移さない。
    女史も、そしてローもその映像を最後まで見ていた。
    ゆっくりと目を瞑り細く長く息を吐き出す。胃の奥からせり上る愁嘆の思いを身の内に閉じ込める。
    退避シェルターの信号はモニターから消えていない。今は海上を目指して浮上していた。あの状況でよくぞ持ちこたえたものだ。
    彼女の肩から一つ荷が降り、その背は小さく丸まっていた。
    やはりどうにもちぐはぐだ。違和感が拭えない。
    最初に出会った時の細胞に掛ける思いも、患者を思う心も、娘達に祈る姿も。
    天竜人や世界政府に盾を突き、CPや海軍を襲った姿も。
    彼らだけの楽園だなんて、本当に作りたいのだろうか。それともその楽園は言葉通りの意味なのだろうか。
    「……ドクター、あんた俺から血統因子を採ったなんて嘘だろ」
    女史の指が微かに震えたのを見逃さなかった。
    薄々そんな気がしていた。何故ならばローの力を欲するにはあまりにも。
    「気絶してても自分の身体に針が入ったかどうかくらいは分かる」
    「もしオペオペの実の能力を血統因子によって増やしてしまったら、きっとまた世界政府はあの子たちに価値を見出してしまうんでしょうね」
    「なぜそんな嘘を、……いや」
    ローは眉を顰めた。
    「最初から、狙いはバスターコールか」
    バスターコールの発令を悟った時、女史が浮かべていたのは諦観だ。
    「この技術を世界政府が危険視するようにすることがあんたの目的か」
    四皇である海賊をねじ伏せ、天竜人を操ってみせる。そしてその情報はローに通信してきたセンゴクを介してまんまと海軍本部、世界政府に伝わったのだ。
    「あんたが作ろうとしているのは墓場なんだな」
    楽園の捉え方は人それぞれだ。
    誰にも害されない、彼らだけの楽園。
    たしかに墓場だとすればこれ以上他の何者にも奪われることはないだろう。
    「貴方も薄々気づいていらっしゃるでしょう。あの子たちには栄養を取り入れる口も無ければ排泄器も無い。水槽の中で灌流されていなければ二日と持たない命です。今は細胞の再生の方が早いから動けているに過ぎません」
    元より他人に与えられるためだけに作られた命だ。
    もし口も、排泄器も、そして頭さえも作ってしまえば彼らは何になってしまうのだろうか。それを与えなかったのはドクター・キャロルの愛だろうか。
    「バスターコールが発令した今、世界政府はALiCの全てを消そうと動くでしょう。自分達が都合よく使っていた技術が得体の知れない恐怖の塊になったんですから」
    それでも彼らを命と認めた女史は彼らの行き場を作ろうとしている。
    「設計図の完成版は私の頭の中にしかありません。私やこの施設がバスターコールで消えればもう二度とALiCを生み出すことが出来なくなります」
    全てはそのための布石。
    今日、まさにこの日を選んで計画を実行しなくてはならなかった。
    「そうなればもう二度と、私の可愛い子供達が誰かの命になるために生み出されなくなる。もう二度と死ぬために生まれることはなくなるんです」
    彼らに魂があるとすれば、どこに行くのだろうか。どこにも行けないのだとすれば帰る場所が必要だ。
    ドクター・キャロルの祈りを理解する。同時にローはそこに言い知れない怒りを覚えた。
    「お前の娘はどうするんだ」
    今まさに母の願いを成就するためにその身を費やしている少女はどうなってしまうのだろうか。
    水槽から出てしまったきょうだい達に残された時間はなく、母親はこのまま共に終わろうとしている。
    空を綺麗だと思い海を見たいと笑った少女はその身に似合わない血を纏わせて、では一体彼女をどうしようというのか。
    「あなたももうお分かりでしょう。あの子は特別です」
    女史は静かに語る。
    「あの子には明日があります。これからはなんにだってなれるし、あの子を縛るものはありません。今までこの施設で閉じ込められるように過ごしてきて、何も与えられたかった人生はもう終わるんです」
    自由だと、そう語る女史の表情は穏やかだ。
    まさか、穏やかだと。ローは唇を震わせた。
    「……自由だと。こんなことをさせて、あんたのために人を殺しているんだぞ。このままじゃああいつはここで一緒に終わることになる。ALiCの全てをゼロにするなら、あいつもそうだろうが」
    少女の正体はローの中で既に検討がついていた。もしそうであるのならなおさら、彼女が自由の身になれるとは思えない。
    「特別にしたのはあんただろう。自由に歩ける足だけをやったつもりか?あいつに力を与えて、ヒト以上の何かにしたのはあんただ」
    母親のことが大好きで、母親のためにあんなことまでしてみせて。
    「それを勝手に放り出して、一人で自由になれだと。そんなもの、あんたが勝手に思っているだけだ」
    一緒に世界を旅したかった。かつてそう願った子供の自分を重ねて吐露する。
    「私のエゴでもいいんです」
    憤るローの言葉に女史は首を振る。
    「親なんて、そんなもんですよ」
    子供がどう思っているかなんて関係ない。親はいつだってそういうものだ。
    その思いが簡単に片づけられてしまった気がして、ローはそんな女史になおも言い募ろうとして、ぐらりと揺れた建物に舌を噛みそうになった。
    破壊音とミシりと軋む建物の支柱。海王類の微かな悲鳴にも似た鳴き声が漏れ聞こえる。
    ついに始まってしまった。
    「そう、シェルターはもう上に着いたのね」
    民間人の避難が完了し、バスターコールを待つ理由も無くなったのだ。
    「お願いがあるんです」
    女史はローの側まで寄り、床にことりと鍵を置いた。それはローの首に嵌っている海楼石のものだとすぐに分かった。
    「あなたならあの子を連れ出してくれますね」




    意識がはっきりするにつれ、自分が天井をぼんやりと見上げていることに気づく。
    途端に身体は激しく活動を始め、飲み込んでしまった海水を吐くためにげほげほと咳き込む。
    この程度で済んだのは、案外空気貝とやらのおかげだろうか。
    スモーカーは全身海水だらけになった身体を起こす。
    格納の隔壁が開き海水に呑まれてしまった後から途切れてしまった記憶を繋ぎ合わせようと辺りを見渡した。どのくらい気絶していたのだろうか。
    いやそれよりも、何故自分は無事なのだろうか。
    ここはシェルターの格納庫ではない。スモーカーは格納庫の手前に位置する廊下にまで辿り着いていた。
    無理に隔壁をこじ開けてシェルターを逃がしたせいか、水圧に耐えきれずに廊下はスモーカーの足首あたりまで海水が盛れ出していた。
    シェルターが無事に脱出できたか確認しようにも、元きた道を戻れば海の中に逆戻りだろう。
    あの時スモーカーは押し寄せる海水に為す術もなく気を失った。海の中では沈むしかない能力者が自力で脱出し館内に戻って来られるはずもない。
    誰かにここまで引き上げられなければ尚更。
    その時ころんと、海水の中に転がる丸いものを見つけた。
    スモーカーは腰を折ってそっとそれを拾い上げる。
    『私と同じ青だ……』
    そう言ってキラキラとした目でこの青い飴玉を眺めていた。
    「……アリス」
    ここにいたであろう少女の名前を呼ぶ。
    助けられたのは二度目だ。
    「結局食べなかったのか」
    はっ、とスモーカーは笑った。命の駄賃にしては安すぎただろうか。
    どおん、と地から響く衝撃に壁に手を着く。ぱらぱらと天井から石屑が落ちてきた。
    スモーカーは舌打ちをする。どちらにせよ命の危機には変わり無かった。
    民間人はすでに外、バスターコールが始まった今、重い責務を肩から降ろしたスモーカーはやっと己の恋人のことを想う。
    海水に濡れてしまったものの、移動程度であればもう能力も使える。
    足を煙にし、スモーカーはもはや意味を成していないガラスを乗り越え吹き抜けを降下する。
    施設は所々に亀裂が入り、水鉄砲のように海水が侵入している。
    このまま水位が上がるか、建物自体が崩壊するか。どちらにせよ良い状況とは言えなかった。
    スモーカーはまともに視界も確保できない中、見逃すまいと各階層に目を凝らす。
    数百メートル降りた先、拉げた廊下の先で見知った帽子が動いた。
    「ロー!」
    割れたガラスを飛び越え、そばに駆け寄る。壁に手を這わせながら歩いていたローの背を支えた。
    「はは、よく無事だったな。スモーカー」
    再会して早々減らず口を叩くローにスモーカーは安堵の表情を浮かべた。
    「お前の方こそ」
    「俺はこの通り、まだ打たれた弛緩剤も抜け切ってない。さっきまで首に海楼石まで掛けられていたんだ」
    「あの女博士か」
    「ああ。まあその女博士もこの状況でどっかいっちまったけどな」
    周囲に敵影がいないことを確認したスモーカーはその片腕にローを抱きかかえた。
    「おい」
    「いいから黙って抱えられていろ。その分じゃまともに動けないだろうが。このまま抱えて移動する」
    「……あんただって割と満身創痍に見えるけど?」
    「うるさい」
    このぐらいの強がりは許してほしい。
    「どうやってあの場を切り抜けたんだ?あんたが海水に飲み込まれるまでは、映像電伝虫でしっかりと見たんだが」
    「よく分からねえ。多分……、あいつに助けられた」
    「……アリスか」
    謎の多い少女の力を考えれば、スモーカーが助かった理由にも納得がいく。
    スモーカーは重々しく口を開いた。
    「あいつが銃に撃たれたのも見た。まわりのやつらをきょうだいとか言って従わせているのも見た。綺麗な海と同じ色の瞳にしたとも」
    「ついでに言うなら海王類も操って、天竜人も昏倒させたらしいぞ」
    ローは笑いながら付け足す。
    スモーカーはローを抱える手の力を強めた。
    彼女は一体なんなのだと、そう聞きたいのだろう。だがそれを一度口にしてしまえば、スモーカーの中で少女が少女ではなくなってしまう。
    しかしローはそれを察して黙っていてやるほど親切ではなかった。答えは出すものだ。
    「何人もの人間に電伝虫と、電伝虫の番号リストを渡す」
    「あ?」
    「もし自分の電伝虫が鳴ったら、自分が持っているリストの番号全てに掛ける。着信が続く限りその掛ける作業を永遠の続ける」
    「……おい、何の話だ」
    まあ聞けよ、とローは言葉を続けた。
    「有名な思考実験の話だ。この電伝虫が脳の神経細胞の役割を担っているとしよう。それぞれの電伝虫が常に通信し合い繋がっている状況は神経細胞同士が繋がっていることに見立てられる。働きだけ見れば、一つの脳味噌を表しているんだ」
    ローはゆっくりとスモーカーを見上げた。
    「このとき、その巨大な繋がりに意識は宿るのか」
    ローの言わんとすることを理解し、しかしスモーカーは眉を顰める。
    その電伝虫は、かれらきょうだいに他ならない。
    「そんなことが可能なのか?」
    「現象的意識が宿るのかどうかと言われれば俺にも分からない。だがあいつらは頭も脳も無く、一体どうやって動いているんだ。手足の先まで信号を送る大元が無ければ話にならない」
    だが彼らの一人一人が、そしてその全てが巨大な意識集合体を持つ時。彼らには共通の脳があると言えるのではないだろうか。
    「ドクター・キャロルはその空論を細胞を使って実現させたんだ」
    しかしスモーカーはローの話に一点気がかりなことがあった。
    「その、最初に電話を掛ける奴が必要だろ」
    何事にも始まりが必要だ。最初に電伝虫を掛ける人物がいなければ次に掛けることは無い。
    神経細胞が電気信号を送るなら、そうしようと生み出さなければならない。
    永遠につながり続けるその最初の信号。
    「ああ、だから一人だけ作っちまったんだろ」
    彼ら、彼女達の中で唯一の存在。それが誰を指しているのか気付き、スモーカーは知らず知らずに口元を震わせた。
    だから少女は外にいる天竜人も、海王類も操ってみせたのだ。
    じろりと、隈の酷い目が虚空を睨みつける。
    「脳味噌があるやつを」


    はたして、女史はそこにいた。
    吹き抜けの最下部、すでに崩れた瓦礫と足元まで上昇している海水の上に立っていた。
    崩れていく建物の中、上をじっと見上げていた女史を見つけたスモーカーは、ローを抱えたままその上空へと浮遊した。
    「ドクター・キャロル」
    「ああ、良かった。中将さん、生きていらっしゃったんですか。これでもう貴方達が外に出るだけですね」
    「……あんたの娘に救われた」
    その答えに、女史は笑みを深くした。
    「そう、ですか。さすが……私の娘」
    今度はローを見て言葉を続ける。
    「ドクター・トラファルガー。約束は果たしてくださいますか」
    「俺はあんたの娘の意思を尊重する。それだけだ」
    「それで結構です」
    その意思が母子で通じ合っていると確信しているような口ぶりだった。
    どうだろうか。自由に歩ける足を貰った彼女の自由な意思とははたして母の思う未来と同じだろうか。
    「なあもう一度聞いていいか」
    「なんですか」
    こんな状況で、こんな最後に。そんな視線を感じながら、ローは女史へと問いかけた。
    「なぜ、俺を呼んだんだ」
    あの日何故彼女はこの施設に来いとローを誘ったのだろうか。
    監視役の海兵が必要だったからか、血統因子が必要だったからか。外部とのつながりにするためだったからなのか。
    嘘と本当と、何もかもごちゃまぜで、何もかもが違う気がした。
    「あなたには分かると思ったからです」
    女史は崩れ落ちる建物の中、脇目も振らずににローだけを真直ぐ見る。
    「オペオペの実の能力者、トラファルガー・ロー!」
    初めて女史は医師ではないローの名前を呼んだ。
    「あなたなら、思いの形は確かにあると証明出来るから!自我を自由自在に入れ替えられるというあなたなら!」
    くしゃりと顔を歪ませる。
    「だからあなたに会いたかった!」
    ただそのために彼女は必死にローの論文を読み、ローのことを調べ、今日ここに呼んだのだ。
    ドクター・キャロルは叫ぶ。彼女の楽園へと響き渡るくらいの魂の慟哭を。
    「この子達は確かに命ある、誰かなのだと!そこに思いはあるのだと!あなたなら理解出来るでしょう!?」
    そうして彼女の意思を受け止めて、ローは息を詰まらせた。
    「ふ、」
    「ふざけるな!」
    ローの言葉を遮るようにしてスモーカーが叫ぶ。その怒りをローが覚える前に叫ぶ。その悲しみが零れる前に叫ぶ。
    ローを抱える腕にぎゅう、と力が入った。

    「ならなんでお前は、その思いを道具にしたんだ!」

    一瞬時が止まったように感じた。
    それでもローは、女史がその顔に安堵と絶望の色を乗せたのが分かった。
    きっと彼女は誰かにずっと責めて欲しかったのだ。
    ドクター、とローは名前を呼んだ。思わず手を伸ばす。
    今さら差し伸べてももう遅いというのに。彼女に後悔をして欲しくなくて手を伸ばした。
    しかし、それも一瞬だった。
    破壊音と、濁流音、ついには壁面は崩れ落ち、海水がロー達の眼前でまるで水鉄砲の如く吹き出す。
    か弱い女性の身体などものの一瞬で掻き消えた。
    「……、ッ」
    二人は血の気の引いた顔でその光景を見下ろす。
    もう間に合わない。たとえローの能力で引き上げようと、この状況で助かるとは思えなかった。
    「お母さん!」
    悲鳴のような声が反対側から聞こえた。
    二人は声がした方へと視線を辿らせる。少女は真っ青な顔で母親が消えていった方を見つめていた。
    「アリス!」
    スモーカーは思わず少女に向かって手を伸ばした。
    もうこの建物は間に合わない。彼女がいる場所もまたいつ崩れてもおかしくは無かった。
    其処は危ない。一緒に来い。助けてやる。何を言えば良かったのだろうか。
    どれも違う気がした。
    だがスモーカーの命は彼女に救われた。今度はスモーカーがその手を差し伸べてやる番だと思った。
    その手を見る少女の顔は今にも泣きそうなくらい歪んでいた。静かに首を振る。
    周りを囲むきょうだい達も少女のそばで静かにその時を待っていた。
    「……お母さんのそばにいなきゃ」
    少女は己の手をぎゅっと握りしめる。
    己を映す青い瞳はまるでスモーカーの一瞬の心の隙間を映しとったようだ。
    「手が大きくなくても、身体が大きくなくても、わたしが子供でも」
    スモーカーは目を見開く。
    最初に彼女へそう言ったのはスモーカーだ。
    そばにいるだけで、それでいいのだと。少女の愛を証明するために吐いた言葉が己に降りかかる。
    「そうでしょ、モクモクちゃん」
    足を浮かせたのは一瞬だ。
    「アリス……!」
    あっけなく少女は海の底に身を投げた。
    深い深い海に向かって。彼女が望むマリンブルーではないけれど、彼女が本当に見たい景色に向けって飛び立った。
    助けられる力があったのに二人は黙ってそれを見ていた。
    しばしの沈黙が流れる。
    「……スモーカー」
    「……」
    「あんたのとこの艦に飛ぶ。もう持たない」
    建物も、そして二人の体力も。
    ローは身体に巻き付く腕を叩いた。
    「スモーカー」
    もう一度強く名前を呼んだ。
    「いいな」
    スモーカーは頷く代わりにローを抱きしめた。


    「シャンブルズ」


    堅い甲板にどさりと転がる。
    二人は身体を打ち付けた痛みにも構わず、ただぼんやりと空を見上げていた。
    突然降って沸いたスモーカー達にG5の海兵達がやんややんやと騒いでいる。だがその言葉もまるで霞が掛かったように二人の頭に入ってこなかった。
    果ての楽園への攻撃は、二人が戻るのを皮切りに星のように降り注いだ。遠く響く音を聞きながら、間の波音に目を瞑る。
    「空が、」
    「あ?」
    「青いのはなんでだっけな」
    浅瀬の海の色、晴れた空の色。小さな飴玉の色。
    ローの問いかけに空を見上げたままのスモーカーはぽつりと答える。
    光の吸収がどうとか。広がりがどうとか。難しいことを言っていたなと思い出した。
    ちくしょうと。暫くは見たくもなくなるだろう空に顔を歪めて、単純なただ一つの答えを口にする。
    「そりゃ、それが綺麗だからに決まってんだろ」
    隣に寝転ぶローはスモーカーの返事に「そうか」とただ返した。
    スモーカーさん、と副官の呼ぶ声がする。
    この船の指揮官はスモーカーだ。いつまでも感傷に浸って寝転がっているわけにはいかない。
    バスターコールが終わればさらにスモーカー達は事情聴取だの、緘口令だの、面倒くさいことに巻き込まれるに違いない。
    それでも億劫な身体を起こし、いまだ空を見上げる傍らへと声をかける。
    「なんであの施設に行きたかったんだ」
    先ほどの女史への問いかけのように、スモーカーはローの真意を問うた。
    大目付からの話が無くてもローは最初からあの施設に興味を示していた。
    それを聞くたびに曖昧な返事でのらりくらりと躱していたのだ。
    だがいまなら答えてくれる気がした。
    「パンクハザードの」
    「あ?」
    思わぬ言葉に首を捻る。いや、今思えばへんてこな愛称を持ち出してきたのももしかしたら。
    「あんたが保護した子供達はまだ一人も家に帰れていないだろ」
    シーザーに実験台にされ、まるで巨人族のようになった少年少女達は数年の治療を経ても元の人間の大きさには戻れていなかった。
    少しずつ年齢を重ね年を重ね成長と共に正常な大きさへと近づいていた。
    だが彼らをまだ家に帰すことは出来ていない。
    人心の理解を得られないであろう彼らを守ることがスモーカー達大人に責任のある正義だった。
    そのことを数年経った今でも彼はずっと心に留めていたのだ。
    「一度見た患者の責任は持つ。それが医者だ」
    「……そうか」
    その彼が希望を抱いたものは、スモーカーが守りたかったもう一つのものは海の底へと消えてしまった。
    「そうか」
    それが残念でならなかった。



    ――おーい。
    どこかで聞いたような声だ。
    能天気そうな声音を無視してスモーカーはさらに深い眠りの谷へと意識を落とそうとする。
    ――おい!ちょっと、なんで勝手に熟睡しようとしてるんだ!
    今回の声は中々に煩い。いや、前回もうるさかったがもう少し遠慮というものがあった。
    「おい、スモーカー!」
    肩を揺さぶられるような衝撃に、スモーカーはぱちりと目を開ける。
    といってもこれは夢の中なのだから可笑しな話だ。
    「……またあんたか」
    「よ、元気だったかー」
    首が痛くなるほど見上げなくてはならない場所にある顔へスモーカーは呆れた視線を投げた。
    「うるさい地縛霊だな」
    「酷くないか!」
    「人の夢に出てきて安眠を妨害するんだから怨霊みたいなもんだろう」
    スモーカーがそう言えば巨体を屈めてしくしくと泣き真似をする。そんなにチャーミングな男だっただろうか。少しの間一緒に仕事をしただけの、恋人の過去に見え隠れする程度しか情報の無いスモーカーは子供の癇癪が終わるのを待つように黙っていた。
    「ま、いいか。こんなことするために出てきたんじゃないしな」
    嘘泣きを引っ込めて、にんまりと笑う。ピエロメイクと相まって顔が怖い。その笑顔で子供に泣かれたりはしないのだろうか。
    「ありがとうな、スモーカー」
    「……礼を言われるようなことはしていないと思うが」
    「でも俺のお願い聞いてくれただろう?」
    数日前の夢を思い出す。
    そういえば突然押しかけてきて仕事を押し付けられたのだったか。
    「あんたが言ったのは名前を見つけてこいって話だろう。結局そんなもんは分からず仕舞いだった」
    「ん?いやいや、そんなことはないぞ。ちゃんと見つけてくれただろ」
    「……、細胞の名前か?」
    「そんな寂しいもんじゃなくてよー」
    「じゃあ、アリスか」
    「それは違う子の名前だろ?」
    大男に言われて口を噤む。スモーカーだって本当にそうだと思って口にした訳では無い。ただやるせない気持ちを誰かにぶつけたくて、目の前に都合のいい人物が現れただけなのだ。
    やれやれ、と男は肩を竦めた。
    「私の可愛い子供達って、呼んでくれてた人がいただろ」
    良い名前だよなあ、喜んでたぞ。
    もうここにはいない彼らのことをまるで自分のことのように喜んでみせる。
    スモーカーはぱちりと目を瞬かせた。
    青い海の底に沈んだあの母子を思う。なんだ、と肩を落とした。
    単純な話だったのだ。ただそれだけで。
    「それだけで良かったのにな」
    スモーカーの言葉をどうとったのか、大男は「んー」と頭を掻く。
    「人間なんてそんなもんだ。どうしようもなく愚かで、どうしようもなく愛に満ち溢れている。でも一歩踏み外したら積み木が崩れるみたいにもう二度と戻りはしない」
    いやに含蓄のある言葉だなと思った。
    「あんたの話か?」
    ロシナンテはにこりと笑う。
    「ローは、俺達の愛の象徴だった」
    「俺達?」
    「俺と兄上」
    「……」
    「そんな顔するなよー。兄上だってあれは愛の裏返しだって」
    だから嫌なのだ。
    「いつかは積み上げたものも崩れるって言いたいのか」
    「いいや、ローの中に積み上がった物はあいつがしっかりと自分で守っているから。だから崩れたりしねえさ」
    受けた愛を二度と崩さないように頑丈で大きい囲いの中で大事にしている。
    「だからスモーカーも一緒に守ってあげてほしい。あの子が二度と崩れないように」
    両手でピースを作って、メイクも歪むくらいヘタクソは笑顔で笑った。
    「そんでお前は崩れようのないおっきなのひとつどーんと置いてやれよ」
    それなら崩れないだろ?
    そう言って、スモーカーはまたもや思いっきり背中を叩かれた。
    「俺はまだしばらくここで待っているからさ」
    せいぜい俺に取られないように、お前らはゆっくり来いよ。


    「……また夢見が最悪だった」
    海軍本部の食堂で重い頭を俯かせていたスモーカーは、トレーの上に乗った粥を突いていた。
    「そんなんで体力持つのか?風邪を引いた時だってそんなの食べない癖に」
    「うるさい。半分はお前のせいだ」
    「はあ?」
    謎の言いがかりにローは顔を顰めた。
    「お前の恩人がまた夢にでてきてやんややんやと騒いできたんだ。どうしてくれる」
    「どうもこうも、どんな夢を見るかはあんたの責任だろうが。逆にその夢の見方を教えろよ」
    「こっちが知りてえよ。見ない方法をな」
    良く知りもしない、しかも恋人が生涯愛している男の夢を何故スモーカーが見なくてはいけないのだろうか。
    大体頼みごとをするのならば駄賃くらい置いていくものだろう。自分は恋人と違って動いてやる義理もなければ、そもそも願いを聞き届ける義務もないのだ。
    今回はたまたま強制的に巻き込まれ、なぜか願いを聞いてしまった形になりお礼まで言われてしまった。
    夢は夢、自分の妄想に過ぎないことだが夢の中で自分よりも大男が出てくる恐怖を考えて見てほしい。
    大体なんであんなピエロの化粧なんか。笑顔も怖すぎるだろう。
    全てではないが夢の内容をそうやってぐちぐちと漏らしたスモーカーに、ローは「あれ」と首を傾げた。
    「あんたに話したことがあったっけ」
    「何を」
    「コラさんが当時ピエロみたいなメイクしてファミリーに潜入してたって」
    「……」
    すう、とスモーカーは深呼吸した。
    やけに夢にしては現実味があるなとか。見たことも無いピエロメイクを大して会ったことのない先輩の顔によく適応させられたなとか。
    色々目を逸らしていた部分はあったのだが、これだけは言わねばなるまい。
    「やっぱり、夢枕に立つ相手間違えてんだろ」
    いくらドジっことはいえこれはさすがに。


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