加虐の話 自らの立場上、「知らなくてもいいこと」なんてものはないと思っている──などと。いつかのトーマの笑顔と声を、どうしてかふと思い出す。
星が見えないほどにまばゆい月が、ぽっかりと浮かぶ夜だった。ひとり屋敷の庭先に立ち、綾人は冷たい空気を吸った。
足音を立てず歩くことも、ある程度息を止めることも、容易ではあるがあえてしない。元素の刃を取り出して、月にかざせば淡く輝く。そして綾人は、そのきらめきを自らの首に──
「そこまでですよ、若。世を儚んでいるわけでもないのでしょう?」
「……おや、トーマ。どうしたんだい、こんな夜更けに」
「それはオレのセリフですって……真夜中に主君が寝間着のまま抜け出していったら、後を追わない従者なんていないでしょう」
言いながらも皮一枚、既に犠牲となっていた。うっすらにじむ血をぬぐい、困りましたねと眉を下げるトーマを見ると、胸中にぐるぐる渦巻くものがある。綾人はそれが何なのか理解しているつもりではあるが、きっとトーマからすれば嬉しくないものだろう。
だから言わない、という選択肢もある。けれど「だからこそ」言う、という選択肢も同時に存在した。
「……ふふ、お前はどう思う? 私がそんなことをするような人間でないのは、おそらく知っているだろうけど」
「そりゃあもちろん。だからこそ、どうしてそうしたかが気になるんですよ。
見たところ熱もないようですし、目の焦点だって合ってる。となれば理由が分からない、それはオレにとって由々しき問題なんです」
言いながら、トーマは綾人に歩み寄る。屋敷の入口から月明りの下へ、金の髪が晒されて光るのを。綾人は少し、目を細めながら見た。
「どうかご自愛を。それができないというのなら、オレにその理由を教えてください」
まぶしいものだった。綾人とは正反対の色をした、太陽のような炎の子。
「……お前を困らせることになるよ」
だからそうしたくない、とは言わない。だって本心ではなかった。それにどうせ、手を伸ばしたとて今と何かが変わるわけでもない。
「お前は、私の籠の鳥。しばりつけたのは私だが、出ていこうと思えばお前は逃げられる。けれどお前はそれをしない、だから私はお前と共に在る」
「それは語弊があるのでは? それではまるでオレが、逃げたいのを我慢しているように聞こえますが」
「……お前を、傷つけたくて仕方ないんだよ。今のまま、私のそばで飛び回るお前をいとおしく思っている。けれど同時に、どうしようもなく羽をむしってしまいたい。道理なんてものはどうにでもなってしまうし、何より私がそれを嫌だと思わないことが問題だ」
そうだろう、と再び、綾人は水の刃をつくり出す。そのままトーマの首元へ、先ほど自らへとそうしたように──否、触れる寸前で止めて。
「簡単だ。かき斬ることも削ぐこともできるし、そうなればお前を閉じ込めるだけの理由にもなる。それは素晴らしいことだと、私は本気で思っているんだよ」
「……オレを怖がらせたいんですか?」
「いいや、お前が仕えているのはそんな人間だと言いたいだけだ。この傷だって、私がこうすればお前は止めに入るだろう。要するにお前の注意を引きたいだけだよ、なんと幼稚なことだろうね」
トーマは何も言わない。緑の瞳がまっすぐに、綾人の両目を見つめている。
「こんな話を聞いたことがあるかい? 性的な知識を何一つ持たず、育った夫婦の夫が妻を殺害したという話だ。性欲を持て余してなお、発散の方法を知らなければ傷つけてしまうだけだ。
……いいかいトーマ。お前にだって人生があるんだ。拒んでくれない限り、私はいつかそれをする。私がそれを厭わないだけで、それがお前のためでないことも知っているんだ。だから逃げろ、とは言わないし、そうされれば全力で追うが……言いたいことが、わかるかい」
「……いいえ、残念ながら。ですから若、左手をお出しください」
けれどひとつ、ため息をついて。差し出された綾人の左手薬指に、トーマはガリ、と歯を立てた。
「お望みならば、オレはどうとでも。ですが主人をこうして傷つけたのですから、オレの処遇は若がお決めください」
指輪のように残るあとに、綾人が目を向けたのは一瞬。それが何を意味するかを、理解できないほど馬鹿ではない、が。
「……お前は本当に、私のことが好きだね」
「それはもう。傷つけられるのもやぶさかではありませんよ、動けなくなるようなものは少し抵抗はありますが」
「その言い方はどうかと思うよ、他の人に言ってはいけないからね」
「お互い様でしょう」
「はは、違いない」
言って綾人は、乾きかけていた首の傷を擦る。そして指についた血を、トーマの右頬にひとすじ走らせた。
「……ああ、やはりお前は赤が似合うね」
「お褒めいただきありがとうございます。
……さて、若。体を冷やす前に戻りましょう、手当のこともありますしオレの部屋まで。
ああ、それと──」
「それと?」
「……その、満足させられなかったらすみません」
言う彼の耳の先までもが赤いことを、綾人はもちろん知っていた。