タルタリヤはまた死にかけていた。
——否、その言い方だと少し語弊がある。もっと事実に近付けて言うならば、人間として生きることができなくなる、という意味で死にかけていた。
「ねえ鍾離先生、今日のこれはどういう意味かな!?」
余も更けて、善良な市民ならば眠っているであろう時間。しかしまあ、鍾離の自宅に窓から侵入するような男が——もっと言うならファトゥス十一位が、「善良な市民」であるわけはなく。加えて室内、呑気に本を読んでいる鍾離もまた例外のうちのひとりだった。
「おや、公子殿。『今日のこれ』とはどういう意味だ?」
「前回は首の後ろ! 前々回は背中! そんで今回は足の裏! 俺が自分で気付けないような位置に、マーキングするのやめてって何度言えば分かるかなあ……!」
「ふむ、もう気付いてしまったのか。あと三日そのままでいれば、俺の庇護下で永遠を生きる存在にできていたというのに」
「サラッと怖いこと言うのやめてくれよ……俺は先生のそういう存在になるつもりはないって、それも何度言ったんだか忘れたわけじゃないだろう……?」
明滅する岩元素のマークは、タルタリヤが気付いて水元素を流し込めば、結晶反応を起こし消えはするものの。不安と不気味さは残ったままで、タルタリヤはげんなりと鍾離を見やる。なんともいい笑顔だった。
「はは、だから見えない位置に刻んでいるんだろう。それに『こう』されたくないのなら、俺から距離を取ればいいとも伝えた」
「嫌だね、先生とは人間と人間っていう距離感で接していたいんだ。単に人の形を選んだだけの人外と、友人になった覚えなんかないよ」
「む、つれないな。俺のことは嫌いか?」
「鍾離先生のことは友人としてそこそこ好きだけどね、元モラクスのこともモラクスのことも嫌いだよ」
「そうか!」
分かってないだろう、と言いかけた言葉を、タルタリヤはなんとか飲み下した。だってタルタリヤが現れたその瞬間から、満面の笑顔を続けている鍾離にはおそらく——何を言っても無駄だということを理解しているので。
「……あのねえ先生、先生にだって守りたいもののひとつやふたつあるだろう? 俺にはあるよ、家族や女皇様への忠誠……そして人間としての尊厳だ」
さすがに窓を閉めた。空気の流れが遮られ、室内の時が停滞したような錯覚。
「俺のことを、気に入ってくれてるんだろうってことは理解してる。けどだからって、ずっと隣に置いておきたいはわがままだろう? いくら友人として好きだって、そういうひとを全員つなぎ止めておけないことくらい……先生も分かってるだろうに」
「俺が隣に置いておきたいのは公子殿だけだ」
「それなら龍体で出直してきてよ。俺が殺して剥製にして、部屋に置いてやるくらいならしてやってもいい」
「……違いがよくわからない。説明してもらっても?」
「嘘つかないでくれ、分かってるだろ? 俺は自由でいたいんだ。ともあれ先生と共に、長い時を生きるつもりなんてないから。
……それを言いにきただけだよ。じゃあね、おやすみ」
言って、窓枠に手をかけたタルタリヤの背後、鍾離がゆらりと立ち上がる。けれどタルタリヤはストールを掴まれるより早く、ひらりと窓から身を躍らせた。
「……おやすみ、公子殿」
だからそんな、寂しそうな声で言うのはやめてくれ。闇に溶けるようにして駆ける間、タルタリヤは重いため息を噛み殺す。
絆されかけていることは、なんとなく理解している。自分に向けられる笑みも、すげなく扱われて寂しげにするその声色も。一度懐に入れてしまえば終わりだと理解しているからこそ、これ以上近付きたくないのだ。
タルタリヤは刃だ。だから鈍ってしまえば存在価値がないも同義なのだから、とまた全身に水元素を巡らせる。パキン、と鈍い色をした結晶が手のひらに現れた。
タルタリヤはまた死にかけていた。だが決して、死ぬようなヘマはしない。人間であることを投げ出すようなこともしない。だがこうして、鍾離の元で「大切なのだ」と言われることを無意識に求めてしまっていることを。本人は決して、それこそ死ぬまで気付くことはない。