この世界に入ってからというもの、何人もの鳴り物入りのルーキーが壁にぶち当たり、人知れず消えていくのを見てきた。
セリエAは猛獣ひしめくサバンナだ。生き残ることは容易ではない。世知辛い話だが、現実はそう甘くないのだ。
だから、あの男が消えた時も、そうだと思っていた。
***
「──ダビィさん。次の試合の……ヒューガって、チームメイトでしたっけ?」
ブライアンにそう言われ、ダビィは改めてその名を見た。確かに、彼はチームメイトだ。いや、だった、と言ったほうが正しいだろう。デビュー戦で散々な結果となり、レンタル移籍でセリエCに行った彼。ダビィは、彼が戻ってくるとは微塵も思っていなかった。
「一応、元、だな。気にしなくていい。こいつはそんなに脅威じゃない」
そう告げると、ディフェンダーのクゥーマンが応じる。
「そうなのか? しかし、日本の不動のエースストライカーではあるんだろう」
ダビィは、ふんと鼻を鳴らした。確かに彼は全日本の九番を背負っている。とはいえ、ユーベのチームメイトとして見た時の日向はお粗末だった。とにかく、体のバランスが悪いのだ。
「怖いのは、右足だけだ。──それでも日本では、オオゾラツバサっていう最高峰のゲームメーカーがいるから、シュートが強けりゃモノになるんだろうよ」
「右足だけ……か。なら、密着マークしてシュート体勢に入らせなければいいか」
「ああ、それで構わない。シュートの威力だけは一級品だがな、バランスが悪いから、止めるの自体は簡単だぜ」
ブライアンもクゥーマンも、納得した様子だった。元より、ブライアンの興味は翼に向いているし、ダビィも警戒すべきはまず翼だと思っていた。……日向に仕事をさせない。それは、言うまでもなく簡単なことのはずだった。
しかし、その見込みは試合で覆されることになる。
前半終了間際。翼のシュートを止めるため、マークするディフェンダー。その裏を掻いて岬にパスした翼、そして岬からの絶妙なスルーパス。日向に、ボールが渡る。
フリーでボールを受け取るかに見えたその動きを、しかし、ダビィは察知していた。中盤のダイナモと呼ばれるその運動量は伊達ではない。ブロックを間に合わせれば、日向のシュートは、刈れる。駆け寄る勢いのままに一気に足を延ばし、スライディングブロックに入ろうとして──。
ボールに触れた瞬間、何かがおかしいことに気付いた。
動かない。
「──」
倒れない、動じない。
背筋が粟立つ。
日向のことは侮っているとはいえ、手加減をしてやる義理はない。シュートブロックだって、今まで幾度も、セリエAのライバル相手にやってきたことだ。その数多のライバルたちのシュートを止めるようなつもりで、今、こうしてダビィはスライディングをしたはずだった。落伍者に引導を渡すつもりでいた。
だというのに、その猛虎は止まらなかったのだ。
刹那のぶつかり合い、短い時間の中で、ボールというものを介し、ダビィはすべてを悟った。
天性のサッカーセンス、ボールに食らいつく嗅覚、破壊力を秘めた右足。
──それに、身体のバランスが、合わさったら。
日向は、跳んだ。まだボールをその足に持ったまま、粘って彼はダビィのブロックを飛び越え、そして即座にシュートモーションに入る。
その時ダビィは一番近くで、日向のシュートを見ていた。こんな風にフリーの彼がシュートする様を、無様に座り込んだ体勢で間近で見ることになるなんて、まさか試合前は想像すらしていなかった。
そして、間近で見たそれを、ダビィは……素直に、綺麗だと、思った。
無茶な体勢ながら、しかしボールの芯は外さぬそのシュートは──日向の右足を、日向が存分に活かせるようになった証でもあった。
「よし」
シュートを決め静かに着地した彼は、当たり前のようにその成果に対して一つ呟いて、それから座り込んでいるダビィに目をやった。
その時ダビィは自分が見下される側にいることを、嫌でも意識させられた。立ち上がろうとしたが、どうも体に力が入らなかった。日向はダビィを特に嘲笑うこともなく、手を差し伸べてきた。それを拒否することに何か意味があるとは思われなくて、彼の手を借りてダビィは立ち上がったが、その瞬間に凄まじい悔しさが波のように襲い掛かってきた。
シュートを決めた日向のほうへと、チームメイトたちが駆け寄ってくる。日向はダビィから視線を外し、そちらへ歩いて行った。言葉はなかった。何も言うことはないと言わんばかりだったし、それはその通りだろう。
今の交錯だけでダビィは、十分に察した。
あの男が、ダビィが想像していなかったほどの成長を遂げているということを。
***
「ダビィさん、試合お疲れ様です」
ジェンティーレはちょっとした悪戯心で、日本とオランダの試合が終わった夜、電話に出られるであろう頃を見計らって、ダビィに電話をかけた。
馴染みのチームメイト二人が出場するこの試合は、もちろんジェンティーレもリアルタイムで視聴済みだった。なので、負けたダビィを少しからかってやろうなどと考えて、こうして通話するに至ったわけである。
それを察しているのか、それとも単純に負けたからか、不機嫌な声が電話口から聞こえてくる。
『おまえ、いつもは電話なんかしねえくせに、こんなときだけかけてきやがって』
「はははっ、いやいや、ヒューガとの対戦の感想でも聞かせてもらおうかと思いまして」
『やっぱりかよ、帰ったら覚悟しろよ!』
「そうしておきましょう。それで──実際、どうでした?」
すると、ダビィは少しの間のあと、答えた。
『……すげえよ。おれは何度も、セリエAから落伍した人間は見てきたが……あんなに力をつけてきたやつは、珍しい』
存外、素直な誉め言葉だ。それを言うしかないほどに、日向は実力を示したということなのだろう。ジェンティーレは我がことのように嬉しくなった。ユースのころからエースストライカーとして頼りにしてきた日向が評価されるということは、自分の目に狂いはなかった証左でもあるからだ。
「ふっ、それなら、あいつが戻ってくるのも、もうすぐですね」
『ああ、それはおれが保証する。歓迎会の準備でもしたらどうだ、ジェンティーレ』
「それはあいつ自身にやらせましょうよ、面倒くさい」
『なんだそりゃ。ダンディの欠片もねえ』
「おれはあいつがこのチームからいなくなるとも思っていませんでしたから。歓迎も何も、ありませんよ」
すると、何か引っかかったのか、ダビィの返答にはまた少し間があった。
『どうして、そう思った?』
「え?」
『何をもって、あいつは戻ってくると思ったんだ』
はて、どうしてだろう。そう思った時、ジェンティーレの顔には不本意ながら、日向と並んで葵の姿が思い浮かんだ。彼がワールドユースでジェンティーレに見せてくれた、直角竜巻フェイント──。
「……日本のサッカー選手は、壁が高ければ高いほど、それを乗り越えて強くなる奴らなんですよ」
『なるほど、な……ジェンティーレがそういうのなら、そうなんだろうな』
「ええ。あいつらを見ていると、おれも立ち止まっていられないな、って思います」
『…………そうか』
電話先のダビィが考えていることはわからない。ただ、彼は随分と静かに応じるものだから、ジェンティーレは少し不安になってきた。
「ダビィさん、まさかとは思いますけども、今日のことで落ち込みすぎないでくださいよ?」
そう言うと、しかし、ダビィはからからと笑い声を返す。
『おれが落ち込むもんか。ただ──ちょっと、な。悔しくて悔しくて、たまらねえんだ』
「悔しくて。……何が、ですか」
問えば、彼の吐息がわずかに通話口から漏れ聞こえる。
『なんだろうな。ヒューガに負けたこと……、じゃねえな。悔しいんだ、ああそうさ、おれは──今までちょっと長い間セリエAでやってこられたからって、入ってくるルーキーどもを見定める側になったつもりで。獣みたいな貪欲さで成長し続けて、このサバンナで生き残る、その意識がどっか行っちまってたのが……途方もなく、悔しい』
「……」
『ヒューガは成長した。そんなのは、見りゃわかる。でも、おれが同じだけ成長していりゃ、今日のシュートはブロックできたはずなんだよ。今日あいつに負けたのは、おれのせいだ』
ジェンティーレは、その強い後悔を聞いて、ふっと笑った。
「おれから見りゃ、あんたがユベントスレギュラーのボランチに収まっているのは、そういうとこだと思いますよ、ダビィさん」
『あ?』
「その後悔ができるだけ、マシってことです」
また間があった。今度の間は、さっきほど張りつめてはいなかった。
『……ちっ。それは、そうかもしれねえが。おまえに言われると、なんだか腹が立つ』
「ははは、じゃあデレピさんにでもかわりましょうか」
『勘弁してくれ! この後更にデレピにも今日の試合をいじられるなんてまっぴらごめんだ!』
そのダビィの反応に、ジェンティーレは吹き出しそうになり、必死に笑いをこらえた。
それからも少しの間会話を交わして、ジェンティーレは通話を切った。一人になり、スマホをしまい込むと、ふう、と一つ息をつく。
「……おれもうかうかしてはいられないな」
一つ確かにわかったことがある。
ユベントスというチームはまた強くなるだろう。それは、日向の帰還という意味でもそうだし、加えて──。
***
日向はダビィとジェンティーレの予想通り、すぐにユベントスに呼び戻された。
そして、彼が練習に加わってすぐの紅白戦。日向とダビィは、別チームに配置され、あの時のようにまみえることになった。
「よろしくお願いします」
「お手柔らかにな」
互いの目がぎらついていることを察しながらも、先輩後輩として、試合前の挨拶を済ませる。
日向は無論、負けてやる気は微塵もなかった。同時に、油断する気もない。前回は自分が勝った形だったが、ダビィの実力は良く知っているつもりだ。全力で行かねば、地を這わされるのはこちらだとわかっている。
嫌でもマドリッド五輪のことを思い出し、武者震いが襲う。
「おい、ヒューガ」
「……ジェンティーレ」
声をかけられ、振り向くと、今回は同チームに配置されたジェンティーレが笑みを浮かべてそこに立っていた。
「この紅白戦、うちのチームのエースストライカーはおまえだ。存分に、やって来い」
「言われなくても、だ」
「ふっ。そうか」
彼は頷き、後ろに下がる。ディフェンダーとしてジェンティーレがいてくれるのは、とても心強い。それこそ、ジェンティーレの言う通り、思う存分やれそうだ。
そして、試合が始まった。
「行け、ヒューガ!」
宣言の通り、ジェンティーレは日向にボールを寄こしてくれる。彼はそれを中盤で受け取り、前を睨んだ。
かつてのセリエAデビュー戦を思い出す。トラムにマークされ、最後に日向が選んだのは中盤から勢いをつけた突破だった。それすらも失敗させられたあの屈辱は、一日たりとも忘れることはない。
今日は、決めてみせる。
日向は走りこんだ。
「行くぜ!」
咆哮と共に、突撃する。選手たちを吹き飛ばして、あるいはフェイントを仕掛け、一気に進む。そしてシュートモーションに入ろうとしたとき、あの日と同じことが起こった。
「仕事を、させるか──!」
ダビィがスライディングブロックを仕掛けたのだ。
そして二人はあの人同じように交錯した。
こじ開ける、つもりでいた。もう一度、あの時と同じようにだ。そのために日向はもちろん全力を出していたし、慢心したつもりは一切ない。──だが、日向はその時、異変に気付く。日向の足ごと刈り取らんとするそれは、以前より力強い。どこか執念が乗り移ったようなブロック。
「──!」
それでも、日向は跳んだ。虎の意地だった。バランスを崩さず、空中へとボールと共に飛び上がる。危うく足を刈られそうになりながらも敢行したそれは上手くいった、かのように、思えた。
──刹那、足が伸びてきた。
勢いそのままにダビィが足を跳ね上げて、日向の浮かせたボールを思い切り叩いたのだ。予想していなかった動きに日向の対応は間に合わなかった。
予想していなかった?
いや、その時点で間違いだ。すべきだった。この男が、世界最高峰のボランチが、同じやり方で二度抜かせてくれるなどとは、考えるのもおこがましいことだ。
ボールがラインを割る。その足にあったはずのボールを失って一人着地した日向は、座り込んだダビィに視線を向けた。
「……ふ、ふふっ」
どちらともなく笑い声が漏れて。
「あははははっ」「はははっ」
二人は、笑いあった。日向が手を差し伸べるまでもなく、ダビィは自力で立ち上がると、挑発的な表情を浮かべ。
「同じ手が二度通用すると思ってんのか、ド脳筋」
「一度止めたくらいで随分と喜ぶじゃないですか。その台詞、そっくりそのまま返してやりますよ」
視線の火花が散る。
「言ってろ、次は抜かせねえ。いいや、二度とお前に仕事はさせねえよ」
「ふ、お互い、何言っても無駄っすね。……ま、こっから先の試合で、やりあえば済むことです」
日向とダビィは、闘争心を剝き出しにして言葉を交わす。しかしそれとは別に、ダビィはとても嬉しそうだったし、何より日向も内心、とても喜んでいた。
熱量をもって日向を見つめてくるダビィは、まさしく狂犬のようだ。きっと次自分がダビィの動きに対応すれば、彼もまた、対応し返してくるだろう。それがはっきりとわかるほどに、彼の目はぎらついていた。
だから、猛虎は思わずにはいられなかったのだ。
こんなに幸せな勝負が、ほかにあろうか、と。
***
試合が終わると、だいぶ疲れた様子の二人にジェンティーレは声をかけた。
「随分と楽しそうだったな、お二人さん?」
すると二人は、だいぶ試合の熱が残ったような表情で、ジェンティーレのほうへと振り返った。
「楽しかった……、まあ、そうかもしれねえな」
日向が答えれば。
「ふん、おまえにゴールを入れられなければもっと楽しかったんだがな!」
そうダビィが返す。
ジェンティーレは思わず肩を震わせた。
「お互いやられたらやり返すのを楽しんでいたくせに、よく言いますよ。あのなヒューガ、ダビィさんはな、おまえに負けたのが悔しすぎて一人で特訓してたんだぜ」
「おいこらバラすな!」
ダビィが焦った様子になる。すると、日向は驚くこともなく肩を竦めた。
「そんなの……最初に止められたときにわかりましたよ。あんたが、また一回り強くなったことくらい」
「……」
「けど、次はおれがあんたより強くなります。絶対に」
「言ってろ。おまえが強くなった分だけ、おれも強くなるからな」
そう言って笑いあう二人。まったく、絵に描いたような強敵関係を見せつけてくれるものだ、と思う。
しかし、だ。二人が互いに感化しあう一方で、ジェンティーレもこの二人に感化されていた。だからジェンティーレは二人の間に思いっきり割り込むことにする。
「ヒューガ、忘れるなよ、このおれを。ダビィさんが抜かれようが、おれが敵に回ったときにはシュートは入れさせんぜ」
すると、日向は挑発的に返してくれた。
「そうだな。そん時はおまえもぶっ飛ばして、絶対にシュートを決めてやるさ」
そうして三人は、交わす言葉とは裏腹に明るく笑いあった。
***
セリエAは猛獣ひしめくサバンナだ。だからこそ狂犬は生き残りをかけて、猛虎たちとしのぎを削り、互いを高めあう。
この出会いに、一縷の感謝を持ちながら。
(了)