その日の日向は、少し緊張していた。
──なんといっても今日の対戦相手がパルマだったからだ。
スタメンを言い渡されたその日、マッツも心配そうに日向に声をかけてきた。
「ヒューガ、くれぐれも、やつらの挑発には乗るなよ。必ずいつぞやの開幕戦のことをネタにしてくるに違いないが、今のおまえあの時とは違うんだ。無視してやればいい」
「わかってるさ、もちろん。奴らにはプレーで一泡吹かせりゃいいんだ」
日向はそう返しはしたものの、やはり、またトラムやカンナバルと対峙すると思うと、緊張の一つはするものである。
あの開幕戦の屈辱を、日向は一日たりとも忘れたことはない。ノーゴールノーアシストの屈辱。前半での交代。日向が一度挫折したあの瞬間、目の前に立っていた高い壁こそ、パルマのディフェンダーの二人だった。そして今日、日向はもう一度その高い壁と向き合わなければならない。
移動のバスの中で、疼く体を抑えるように座っていると、横のジェンティーレが声をかけてきた。
「おい、大丈夫か?」
「大丈夫……って。そんなに普通じゃなく見えるかよ」
ジェンティーレが思ったより深刻そうな顔をしているので、日向は笑って返す。すると、その様子に少し安堵した様子のジェンティーレが応えた。
「まあな。パルマが相手ときたら、誰だって気にするとも。まったく、監督もどういうつもりでヒューガに任せたんだか──」
「なに、リベンジの機会をくれたんだと、おれはそう思ってるぜ」
「めでたい頭だ。だが、そういう気持ちでいられているのなら、平気だろうな」
「ああ」
「いいか、やつらの挑発に耳を貸すなよ。平静を欠いたら終わりだからな」
ジェンティーレも、マッツと同様のことを言う。日向は少し苦笑しつつ頷いた。
「マッツからも言われたぜ、それは」
「あの男も言っていたか。……まあ、それほどおまえを信頼しているんだろう」
「そうなのか?」
「当然だ。わからないか? 平静を欠くな、ということは、平静を保てば勝てる、ということさ」
そう言われれば、悪い気はしない。
武者震いが全身を襲う。やってやろうじゃないか、と日向は気合いを入れた。レッジアーナで、そしてここユベントスで培ってきた肉体と精神。そのすべてをもってすれば、前のように鎧袖一触されることはもうないはずだ。
そうして、気合いを入れ、日向は遂にパルマとの戦いのグラウンドに立った。その彼が、遭遇したものとは──。
「馬鹿にしてんじゃねえぞてめェ! もう一度言ってみろ!」
試合前、トラムとカンナバルの挑発に真っ向から乗っかる先輩、ダビィの姿だった。
………。
………………。
「ふん、何度でも言ってやる。あんな出来損ないの日本人を使うなんざ、ユベントスも落ちたもんだな」
「いっぺん戦った程度でヒューガを馬鹿にするとはいい度胸じゃねえか! 今のあいつを見たらてめえら腰抜かすぜ?」
「はははは! そんなことあるわけないだろう、今日もおれたちが止めてしまいだ。あんなのに肩入れするとはダビィも随分と馬鹿になったようだな」
「あんなの? おれの後輩にあんなのたあ、噛みつかれてえようだなてめえ!」
──多分、その挑発に乗るべきは、せめてダビィじゃなくて自分だったと思うのだが。
喧々諤々、言い争いはひたすら続いている。日向はダビィの後ろで人知れず頭を抱えた。そしてそっと周囲を見回せば、ジェンティーレが同じ顔してあいたたた……と頭を抱えている様子が目に映る。
「どうする、アレ」
そっとジェンティーレに近づき、ひそひそ声で話しかけると、ジェンティーレが思いっきり顔をしかめた。
「どうするって」
「止めないとまずくねえか」
「止まるのか? あの狂犬が?」
言われて日向はダビィを見た。ぎゃんぎゃん言い争っている彼はまさしく獣じみている。
こんな時まで狂犬っぷりを発揮しなくてもいいのに。
「……と、止めなきゃダメだろ」
「どうやって……」
「二人で後ろから、こう、ガッと」
最早味方に対する所業とは思えない相談ののち、仕方なく、日向とジェンティーレはそっとダビィに後ろから近づいた。そして──。
「そこまで!」
「続きはサッカーで!」
二人がぐいと両腕を引っ張ると、流石にダビィもバランスを崩して喋るのを辞めた。振り向いた彼は、とても不満そうだ。
「なんだよ、お前ら」
「なんだよじゃないんですよ」
「ほら、喧嘩してないで! 戻って!」
すると、その無様な(残念ながらそうとしか言いようのない)やり取りを見ていたトラムが、馬鹿にしたように笑った。いや、仕方がない、そう見られても無理からぬ状態ではあるが。
「ふん、相変わらず貧相な体だな」
「……あ?」
その言葉は日向に向けられていた。一瞬反応しかけた日向を、しかし、ダビィが制した。
「おい今ヒューガ馬鹿にしたか? こいつがどれだけ体を基礎から鍛え直して──」
「ああもうダビィさん!」
「ダビィさんストップ──!」
残念なことにトラムの相手なんかしている場合ではなかったのである。この血気盛んな先輩を止めるのに必死で、日向は自分の頭に上った血のことなど忘れ去っていた。
そうしてダビィをトラムから引きはがし、ジェンティーレと日向がため息をついたところで、盛大にデレピに笑われたのは、また別の話だ。
***
やがて、試合が始まった。前線に出た日向を止めようと張り付いてくるのは、以前のように、トラムであった。
きっとパルマの人たちは、日向にとって、トラムがトラウマになっていると思っているだろう。日向に対応するならば、トラムが一番だと。そしてそれは間違いではないかもしれない。日向が彼と相対した時、誤魔化しようのない、得体のしれないぞわっとした感覚が肌を刺した。
それでも日向は冷静だった。ボールを受け取ると、トラムを抜こうとするふりをして、先を走っていたフォワードへのスルーパスへと切り替える。
そのフォワードは迷わずシュートに行った。しかし、ディフェンダーに阻まれてボールがラインを割る。
その時だ。トラムに、ぼそりと話しかけられたのは。
「逃げるのか?」
日向は思わず彼を睨んだ。
さっきのパスは、逃げたつもりなど毛頭ない。それが最適解だと思ったからスルーパスに切り替えただけで、もし前線に日向しかいなければもちろん、トラムに向かって直接対決を挑む気はあった。それを逃げだと言われては、腹が立つのはどうしようもない。
少し、体が熱くなる。
「こっちだ! ボールを寄こせ!」
日向はそう叫んだ。リスタートの地点にいた選手が日向を見て、ボールを投げてくる。日向の足にそれが吸い付く。
「来いよヒューガ」
目の前にはトラムがいる。
わずかにカッとなった頭のままに、日向は突っ込もうとした。この男を黙らせ、自分の実力を証明してやりたい。そのために、必死に練習してきたのだ、やってやれないことはないはずだ。
彼がそうして、自らの欲求に身を委ねかけた時──ふと頭の片隅に、今日のダビィがよぎった。
その無様な、とてもじゃないが目も当てられない、挑発に乗ってきゃんきゃん騒ぐ犬を思い出してしまって。日向は、思わず、吹き出す。
「……?」
トラムが不審そうに日向を見た。それはそうだろう。彼はこのまま、頭に血が上って突っ込んでくる日向を刈るという算段だったはずだ。
そう思ってこの状況を冷静に見て、ふと気づく。トラムの背後には、また別のディフェンダーが目を光らせているではないか。隙を生じぬ二段構え──トラムを突破してもまず捕まった、ということか。
「──ったく」
怒る人を見て自身が冷静になるとはよくある話だが、それでもあんな無様な先輩に助けられるとは思わなかった。日向は薄ら笑い、そしてそのボールを後ろへ回す。オーバーラップしていた、ダビィその人に。
受け取った狂犬は、活き活きと躍動しながら笑う。
「ふん、周りは見えてるじゃねえか! 行くぞヒューガ、ついてこい!」
「はいはい! あんたこそ、遅れるなよ!」
もしこれがダビィの巧妙な戦術だったら、感謝してもしきれないが──彼がそこまで考えていたかどうか。いや、それはもういい。結果的に彼が日向を救ってくれたことは確かなのだから。
『──平静を保てば勝てる、ということさ』
ジェンティーレの言葉が思い出される。視界は開けた。もう挑発に乗ることもないし、緊張も解けている。日向は平静だ。
あとは、このトラムを引きはがすだけ。
先輩を追うようにして、日向は一歩、踏み出した。