タイトルはありません。私の家にたびたび訪れる青年は実に本の好きな人でした。
「本田さん!本田さんは漱石先生にお会いしたことはあるのでしょうか?」
京よりも幾許か温暖なこの地にも天からの手紙が届き始めたある日。烏羽色をした学帽とトンビを薄っすらと白く、しかしながら鼻や頬は真っ赤に染め上げた青年は私が玄関扉を引いたのと同時に叫びました。息せき切って走ってきたのでしょう。ぜいぜいと上下する肩は勇ましいもので、よもや猪を思わせる風格です。私はそんな青年に気圧されながらもこくりと一つ頷いてみせると、青年は春がやってきたのかと錯覚するほどに破顔しました。
「どんな方だったのですか?英語の授業をされていたとのことでしたが、やはりとてもハイカラな考えをお持ちな方だったのでしょうか?」
「ま、待ってください。確かに会ったことはありますが、私も詳しくはないんですよ。」
「えぇ?何故。」
「ほんの数年だけ帝国大学の生徒として彼の授業を受けたことがある程度です。あなたがたの知る彼と大差はありません。」
「そんな。」
あからさまに意気消沈した青年に私はかける言葉がありません。どこで聞きかじってきたのか、青年は私が人為らざるものであると知るのも早かったように思います。