「葉月」
ジャワジャワと蝉の鳴き声が降ってくる。夏の陽光が通りを照らし、濃い葉陰をそよりと風が吹き抜ける。
白い日傘がくるりと回った。藤色の浴衣の裾がひらめく。
――おかしくないかしら…
店のガラス戸に映る、自らの姿に目を走らせる。隊服じゃない自分なんて、久しぶりに見た。いつもの、引っ詰めた夜会巻。蝶々の髪飾り。いかにも清楚な、藤色の浴衣。
そっと日傘を畳んで、からりと戸を引く。店内の女たちのお喋りが溢れ出してきた。
――あのね、松竹の粟島すみ子が次にやる役は…
――観た観た!あの新派劇の着物…
別の卓では少女雑誌『少女の友』の付録を広げる音がした。つい、チラリと覗いてしまう。夢のように鮮やかな、色刷りの口絵。頬を寄せ合う、袴姿の女学生。
色とりどりの銘仙の着物、結び目にリボンのついた小さな帽子。彼女たちは、最新の色と香りと物語に包まれて、きらきらと夏の光そのもののようだった。
私は、そんな賑わいの中を静かにすり抜ける。
血、泥、泣き叫ぶ被害者の声。鬼殺の澱にまみれたこの身は、この華やかな世界に、いかにも不釣り合いに思われた。
約束の席についた途端、ふっと甘やかな香りが漂った。
柔らかく広がる、白椿と薄荷のような清冽さ――資生堂の「花椿香水」。
香りの主が、顔を上げる。窓からの光を受けた若草色の瞳が、ニコッと微笑む。
「お待たせしました、甘露寺さん」
思わず、私も笑顔を引き出される。甘露寺さんは不思議な人だ。おんなじ鬼殺隊士なのに、彼女は――汚れない。今だって、こんなに愛らしい甘味処の空気に良く馴染んでいる。
この人は、特別。私の、特別。
「何か、読んでらしたんですか」
甘露寺さんが閉じた本に目を惹かれた。活字を目で追うのは、私も癖になっている。といってもその本は、私が普段読むような医学論文や症例集の類ではないようだった。綺麗な箔押しの装丁。
「うん、あのね!吉屋信子の『花物語』。女学校で、上級生と下級生が仲良くなって…素敵なのよ」
女給が、かき氷を2つ、運んできた。甘露寺さんが、おすすめだよ!と笑う。
私のかき氷は、紫蘇と梅の蜜。控えめで爽やかな酸味が気に入った。甘露寺さんは苺の蜜に練乳を回しかけた、洋風のもの。
甘露寺さんは、楽しそうに笑いながら、いろんなことをお喋りする。
久しぶりに帰省した実家の猫のこと。化粧水は、やっぱり資生堂のオイデルミンがいいわ。ねぇ、宝塚歌劇って聞いたことある?大阪にあるんですって。女の子だけの劇団で、男役がそれはもう素敵らしいの。いつか、しのぶちゃんと観に行きたいわ。
私は、曖昧に微笑んで、かき氷を口に運ぶ。
いつかの約束、なんて、鬼殺隊では意味をなさない。明日、鬼の牙に倒れるかもしれない。次、いつ会えるか――保証なんて、ない。
それでも、甘露寺さんは明日の話をする。いつかの、話をする。
「だって、生き残るかもしれないでしょ?その時に楽しい予定がなかったら、困っちゃうわ!」
甘露寺さんは、そう言って笑っていた。明るい人。どこまでも明るくて、強い人。
私の心の灯を灯して、いっとき華やいだ気にしてくれる。
この人は、特別。私の、特別。
「はい、どうぞ!」
気がつくと、苺練乳のかき氷がスプーンに乗って差し出されていた。
「え、と。これは…?」
「一口、交換!私も、紫蘇のかき氷、食べてみたいわ」
きらきら笑う甘露寺さんにつられて、私はそっとスプーンを口に含んだ。愛らしいピンク色は、優しく甘いミルク味。氷がひんやりと溶けて、私の喉を滑っていく。
甘露寺さんは、なんだか満足げだ。どう?どう?と感想を求める顔つき。
「…とっても美味しいわ。その、」
――これが、貴女の唇に乗っていた味。
甘露寺さんのきらきらを、飲み下したみたいだった。
「私のも、どうぞ」
紫蘇のかき氷を掬って差し出したスプーンは、かすかに震えていた。
甘露寺さんが、桜色の唇を開いてスプーンを受け入れた。つるん、とスプーンが抜けていく時に、濃い紫蘇色が甘露寺さんの口元を汚した。
「あ…ら!いけない!」
私は思わず、指で甘露寺さんの口元を拭う。甘露寺さんの手がそっと、私の手を取った。
「…手、冷たいよ?しのぶちゃん…大丈夫?ちゃんとご飯食べてる?」
藤毒を溜め込んだ、冷たい体。私の体は、姉を殺した鬼への復讐に捧げられている。
泣きたくなった。甘露寺さんの世界に、この甘味処のような華やかな世界に、私は触れてはいけなかった。きらきらと笑う貴女をそばで見ていられるだけで、幸せだったのに。
ふと、視界の端に、なんだかもっさりとした黒っぽい塊が映った。次の瞬間、呆気に取られる。甘味処のガラス戸を引き開けて入ってきた2人は――…
「あ♡伊黒さーん!不死川さーん!」
甘露寺さんが、屈託なく手を振る。2人の男はびくりとこちらに目線を投げた。卓の間を、むさ苦しい野郎どもがのしのしと近づいてくる。ちょっと、待って。他のお客様が振り返って、見てるじゃない!!
「甘露寺に、胡蝶かァ…何してんだよォ」
「何してる、は、貴方がたですよ」
不死川さんに言い返した私の言葉に、後ろに立っていた伊黒さんがスッと異彩の瞳を逸らした。
「俺は、おはぎ食いにきただけだァ」
「俺は…評判の甘味処だから、甘露寺と来ようと思って、下調べに」
野郎どもはドカッと、私たちの隣の卓に腰を下ろした。
この人たち、いかに自分が甘味処に不似合いか、とか考えないのかしら…?頭痛がしてくるような気がして、私はこめかみを押さえた。
おーい、姐さん。おはぎだァ。
俺は、玉露で。
ふぅ、と息をつく野郎どもは、縮こまる様子もない。さすがに隊服でくることは避けたようだが、それでも傷だらけの顔や腕、口に巻いた包帯。異様なことこの上ない。話題も、堂々、鬼殺のことと、あとはアホみたいに稽古の話をしている。
「全く…少しは、控えようと思わないんでしょうか…」
武骨な影丸出しの野郎どもに聞こえるように、ちくりと刺す。
ン、と不死川さんが目を上げた。
「なんでェ、金なら持ってるぜェ」
そういう問題でなく!!
「俺は、甘露寺の笑顔を拝む準備には手を抜かん主義でな」
伊黒さんが、憮然と玉露を啜った。甘露寺さんがにっこりと大輪の微笑みを浮かべる。
「うふ!伊黒さん、優しいのね!ね、しのぶちゃん?」
…そうですか?私にはただの恋愛体質に見えるのですが!「好きだ」以外なら、何を言ってもいいと思っていませんか!?
「…ふん、何を気にしたって、鬼殺の匂いは隠せんだろう。お前も、甘味処にいる時ぐらい、思い切り笑えばいい」
伊黒さんの金と碧の瞳が、私を射抜いた。いつもの嫌味、いつもの無愛想。
でも、なんだか心の氷が少し解けた気がした。
そう、私は鬼殺の女。毒の女。でも、この瞬間は生きている。笑い合う甘露寺さんがいる。それに、少なくとも――この人たちよりは、甘味処に似合っている!!
笑みが零れた。少しだけ、いたずら心が湧いてくる。
私は、紫蘇のかき氷を掬って、甘露寺さんに差し出した。
「じゃぁ、勝手に楽しませていただきます。はい、甘露寺さん、あーん」
甘露寺さんは嬉しそうに、私の贈り物を受け取る。
「美味しい!私からもお返しね♡しのぶちゃん、あーん」
私は苺練乳のかき氷を口に含みながら、ちろりと、伊黒さんに視線を投げた。狙い通り、伊黒さんは羨望と嫉妬と、少しだけ眩しさの入り混じった目でこちらを睨んでいた。
了