安らかなれ、マイ・レディ①ベイカー街外れに位置する、赤煉瓦の3階建。「蛇と狼の魔法探偵事務所」の看板の傍で、不死川実弥がドアブザーを鳴らす。
冬のロンドンは雲が垂れ込め、小さな雪さえちらついてきていた。邪魔くさがりの不死川は、一応コートは引っ掛けて出たものの、マフラーも手袋も着けていなかった。首筋に入る雪が冷たい。
何度目かのドアブザーで、ガチャリとドアが開いた。
「オゥ、伊黒ォ。悪りィな」
異彩の瞳にホッとして詫びた途端、バフッと頭からバスタオルを掛けられた。
「雪の中にコート1枚で出る奴がいるか。あと、鍵は持て。俺はドアブザーの音は嫌いだ」
いつもの聞き慣れた嫌味は、いっそ帰宅の証。不死川が気にする風でもなく、バスタオルで雪に濡れた髪の毛をわしゃわしゃする。
「今、茶ァ淹れてやるから。機嫌なおせって」
ガサガサとコートを脱いで、コート掛けに掛ける。ごくシンプルなノルディックニットは、よく鍛えられた体躯をほのかに映し出して包んでいた。
不死川がキッチンに立ってしばし。暖炉が暖かく燃えるリビングに、柔らかな紅茶の香りが広がった。
「おら。今日のおやつだ」
不死川が、袋から出したミートパイを皿に盛った。
「お茶請けかね。…しんなりしている」
伊黒が一瞥して評した。伊黒は少食だが、胃に入れるものの選定は厳しいのだ。
「あーもう!今、オーブンで乾かしてやらァ。ちょっと待ってろ」
不死川がミートパイの皿を持って、キッチンに立ち上がる。
その時、ブーッと無粋なブザー音が鳴った。午後のお茶に取り掛かる気だった伊黒が、思い切り眉をひそめる。
「あいよッ!――ンな顔すんなァ。初の客かもしんねェだろ」
そうだ。忘れそうだったが、「蛇と狼の魔法探偵事務所」の看板を掲げて1週間。ここは探偵事務所だった。依頼人がいなければ、お話にならない。
不死川が、階下に降りてドアを開ける。その先にいたのは、黒いコートに黒いファー・マフラー。黒髪に大きなグリーンの瞳が印象的なレディだった。
「――まぁ。お茶の時間でしたの?申し訳ありません」
リビングに案内された女が、軽く遠慮を示す。ミートパイの香りにちょっと鼻をひくつかせる様子が、上品な物言いに活発な雰囲気を添えて、好もしい。
不死川が、砕けた様子で彼女にも椅子と茶を勧めた。伊黒は、じっと女の様子を窺っている。
「美味しいお茶だわ。初めまして。私、ケイティ・リトルと申します」
伊黒と不死川がそれぞれ名乗る。ケイティは、3日前にタウン紙に載せた広告を見てやってきたのだという。依頼を待ち侘びていた不死川が、身を乗り出した。
「魔法探偵――私の悩みにぴったりだと思いましたわ。悩みというのは…」
ふ、とケイティが目を伏せる。
「私の、元の主家である、ダックワース家のことなんでございます」
「…ダックワース?」
紅茶を啜っていた伊黒が目を細める。聞いたことのない名だ。地方の豪家か。
「はい、ノーフォークの奥、ブラックフェン村に古いお屋敷があるのですが…そこに怪異現象が起こるのでございます」
ノーフォーク地方。広大な湿地帯が広がる場所だ。ぬかるむ泥地、年中、陰鬱な霧をまとっている。
「今は、誰もいないんですの。なのに、物音がしたり、灯りがついて窓に人影が映ったり…!!」
「…怪異というより、不良が入り込んでいるんじゃないのかね」
あくびを噛み殺す伊黒の言を、身を乗り出した不死川が塞いだ。
「いやァ、それにしたって対策は必要だろうがよォ。ケイティ、女の身じゃ、そんな田舎の家を確認するのも大変だろ。俺たちがしっかり調査してくるからなァ!」
この際、怪異でなくてもいい。なんだったら探偵というより“お遣い”でもいい。とにもかくにも、初依頼だ。貴族の伊黒は気にしないかもしれないが、庶民の不死川には“仕事がない”なんて居心地が悪くて耐えられない。
「まぁ!ありがとうございます。良かったわ。――あの、お2人とも、猫は平気ですか?」
ケイティが小さく笑顔をのぞかせる。
「猫ォ?まぁ、動物は好きだぜ」
請け負う不死川に、ケイティはにっこりと微笑み、そっとその腕に触れた。
「それなら、平気ですわね。ダックワース家に怪異が起きる晩は、いつも猫の声が響くんだそうでございます。村の者は、“猫の祟りだ”――なんて申しておりますけど」
大きなグリーンの瞳がランプの灯を受けてきらめく。
「私、猫びいきなんですの。猫は、むやみに祟ったりなど致しませんわ。きっと、何か相応の理由があるんです。…不死川様、必ず、明らかにしてくださいませね」
「お、オゥ…」
美女に熱い瞳で頼られて、不死川が腕にかかった手を包み返した。
――フランス人かもしれんな。
紅茶を注ぐ伊黒の瞳がその手を眺め、口の中で、舌打ちにも似た音を立てた。
ブラックフェン村。
ノーフォーク湿地のさらに奥、地図の余白に押し込まれたような地に、数十軒の家が湿原の泥に沈み込むように建っている。冬は霧が地表を這い、夏は腐った泥と枯れ草の匂いが村全体を覆う。
その村の中央に位置するのがダックワース家だ。かつて領主屋敷と呼ばれたその家は、長い間、暖炉に火が入ったことがない。石造りの壁は濡れ、軒下には蜘蛛の巣と水垢が層を成している。
ケイトが生まれたのは、その冷たく、暗い屋敷の中だった。ささやかな財を管理する若夫婦のもとに生まれた赤ん坊は、村を明るくした。子供達は彼女を見ると笑顔になり、通りすがりの旅人ですら足を止めて声をかけた。まるで、あの家の中で唯一、陽光のきらめく色を知っていたかのように。
やがて、その光は湿地の霧の中に飲み込まれた。残されたのは――…
――待ってて、ケイト…。きっと、私が救い出してあげる。
霧が流れる。湿地帯の泥は音を吸い込み、ただただ静まり返っている。
〈つづく〉
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