利き手のネイル「シュウ、やって~」
廊下を通って、ミスタの声がシュウの部屋まで届いた。
やりかけの作業を止め、「今行くよ」とミスタほどではない声量で返事を返す。この声が届いているのかはわからないが、たぶん聞こえているんだろう。
隣同士の部屋に足を踏み入れると、窓際にわざわざ椅子を持って行ったミスタが塗りたてのネイルを乾かしているのか、それとも見せびらかしているのかわからないけれど、綺麗に塗られた手をこちらに向けて振っていた。
「あれ、今回は一色だけ?」
ふふ、と笑いながら近くにあった椅子を持ってくるとミスタの向かいに座り、その爪を確認する。
「今日はシンプルにしたかった気分! はい、シュウ。お願い」
ミスタが利き手をすっと差し出す。
手の差し出し方に文句をいうつもりはないけれど、まるでエスコートを求めるような手の出し方に、なんとも複雑な気持ちを抱いてしまう。
その理由がなんなのか、自分の気持ちがわからないわけでもないシュウはその手に視線を向けたまま、手を取った。
きっと顔は上手く作れていない。期待の気持ち半分、不安の気持ち半分でミスタの顔を見ることはできないし、見てはいけないような気がした。
「……それじゃあ、左手も同じがいいよね」
指の隙間から見える床を見て冷静になろうと瞼を閉じて息を吐き、そのままの体勢で尋ねた。
「それはシュウに任せる」
耳に入ってきた言葉に思わず顔を挙げそうになり、数ミリ頭が動いたところで理性が止めた。
声が震えていたようにも聞こえるし、目に映る手がぴくりと動いたようにも見えた。
自分のいいと思う方向に考えたくなる気持ちをぐっと抑えたつもりが、手を思わず握る力に働いてしまう。
「そ、っか……わかった。せっかくだからちょっとだけなにかいれようかな」
冷静に言えただろうか。たぶん言えたはずだ。
さっきまで胸をバランスよく半分に割っていた気持ちの片方が、その境界線をぐっと広げようと押し広がる。そのせいで心臓がさっきより少しうるさい。
夜風が意地悪く窓から入り込み、熱を持った頬を自覚しろ、と言わんばかりに撫でていく。
わかってるんだよ、ちょっと嬉しいんだから。
それまでもミスタの利き手にネイルを頼まれることはよくあることだった。
綺麗だし、面白そうだと一緒に動画を見たり、デザインを探したり――気づけばシュウ自身もミスタほどではないがたまにネイルをすることも増えた。
互いにネイルをするようになってわかったことがある。
利き手のネイルはとてもやりづらい。
そんなある時、ミスタが塗りかけの爪でシュウの部屋に飛んできた。
「なあ、俺天才かも!」
「ミスタ? 何、急に……」
「あのさ、シュウ! 俺の利き手のネイル塗って!」
それにはさすがのシュウも「天才」と返さざるを得なかった。
それ以来、どちらかがネイルをする時、あるいは一緒に時間を作って塗っている時は相手の利き手のネイルをするというのが当たり前になった。
その時から、一つだけシュウはミスタに隠し事をしている。
バレてもいいし、バレなくてもいい。たぶんバレていないはず――。
そんな風に思いながら、ある爪だけいつもアレンジを加えたり、右手のデザインをその爪にだけいれてみたりしていた。
ただ、今回はワンカラ―。ラインも入っていなければストーンの一つも右手にはない。
それなのに「任せる」という言葉はずるい。
いっそ、「同じにして」と言ってくれればよかったのに。
思わず握っていた手を一度離して、窓際に置かれたポリッシュを手に取る。
キャップを捻り、刷毛についた塗料を削いで、左手でミスタの左手をしたから支える。
「ねえ」
親指、刷毛を戻して削いで人差し指、戻して含ませて削いで中指、薬指、小指と塗り、乾かしてからまた塗り重ねる。
綺麗に塗り終えてしまった爪を見つめ、シュウはどうするべきか悩んだ。
任せる、と言われた手前、何かしたほうがいいに決まっている。
いつもなら、他のデザインに巻き込ませる形でできるけれど、右手に何もない以上、ミスタの指にいれられるのはせいぜい一つ、そしてシンプルに済ませたほうがいい。
もういっそばれてもいいか、と腹を括りとあるネイルポリッシュを手に取り、その指にアレンジだけ加える。
トップコートを塗り終えたところで、顔を見るのが怖いなあと完成したネイルを見つめていると、
「シュウは爪、塗らないの?」
頭上から声がした。
「……どうしようかな」
「塗り直しなよ……。俺も塗りたい」
視界に映る手がつんつんと手のひらを小突いてくる。
「なんで……?」
誘ってるのかと言いたくなる口を一度噛んで、聞き返しながら顔をあげて視界に映る相手の表情を見て後悔した。
見なきゃよかった、という後悔ではない。
もっと早く気づけなかった自分に後悔した。