君の知らない春が来る この素っ頓狂な世界に来るのは、どうやら今回がはじめてではないらしい。
朧げながら戻りつつある記憶の中には、つい先日『はじめまして』と挨拶を交わした人々の姿があった。その後の少しの気まずさと、蘇る温かさがむず痒い。けれども、ちっとも嫌な気はしなくて、改めて『久しぶり』と声を掛けては笑いあった。
その中で唯一人、俺の『久しぶり』に首を傾げた人がいた。もしやと思って名を告げると、彼女は覚えのある晴れやかな笑顔で『はじめまして』と挨拶した。
「おまえ、へんだぞ」
向かいで飯を食らう甘寧が、肉を頬張りながら言った。
んなめいっぱいに詰め込んで喋るんじゃないっつーの。ぽろぽろ零れる食べカスを見やると、甘寧はへいへいと肩をすぼめて咀嚼に専念した。
「なに、変って」
食べ終えたところを見計らって、飯屋の店員が置いていった茶を渡した。
甘寧は一瞬固まって、恐る恐る茶器を受け取った。身構えなくても、毒なんざ入れないっての。
「これ」
「は?」
「これがまずおかしい」
俺が渡した茶器を、不審物でも見つけたみたいに甘寧が指差す。
「だから、別になにも仕込んじゃいないよ」
甘寧はしばしぽかんと呆けた後、わざとらしくでかい溜息を吐いて、茶を飲み干した。
「そういうことを言ってんじゃねぇんだよ」
「だったらなに」
「お前、俺に飯の時の世話なんざしたことねぇじゃねぇか」
大皿の飯を取り分ける、空いた杯に飲み物を注ぐ、小皿をこまめに取り替える。
小さなことにも気を配れる男になれ、という両親の教えに従い生きている俺に、そういうこと言う?へぇ?
「つまり?俺が気配りの出来ない男だと、思われてたってわけ?あんたみたいに?」
「ちげーわ、その逆」
これは以外な返答だ。食って掛かりそうな上体を、わずかに後ろへ逸らす。
甘寧は、俺を馬鹿にしたことはとりあえず置いとくけどよ……と頭に置いて言った。
「おっさんとか陸遜とか、一緒に飯食いに行った奴の世話をいちいち焼くお前が、俺には徹底してそういうことしねぇじゃねぇか」
「そりゃあ……癪だからね?」
「だろ?」
いや、そこで同意されても。
甘寧はうんうんと頷いて続ける。
「そんな奴が急に飯よそってきたり、食後に飲み物渡してきたりしたら、ちょっと、びっくりするだろうが」
「確かに……けど俺、そんな屈辱的なことをした記憶は、」
「凌統、手元見てみろ」
まあ、愕然としたよね。
飯を食い終わった後、下げやすいように皿を重ねる癖がついてるのは確かなんだけど。
「俺の分の皿まで重ねてやがる」
「え、こわ………」
「だろ!?だからお前今日変だぞっつってんだよ!!」
ようやく理解を得られたことで満足気な甘寧は、俺の分の勘定までして席を立った。
「ちょっと、あんたまでこわいことやめてくれる?」
仕返しだと笑った甘寧の後を追って、俺は席を立った。
君の知らない春が来る
「自分は思い出したけど、向こうは忘れたまま……って相手、いるかい?」
「あー……いいや?反乱軍にいる奴らは粗方思い出したし、向こうも俺のことは思い出してたぜ」
見覚えのあるような、ないような。異国の風情と少しの禍々しさが混じった町をぶらつく。
確か、以前にもこの町を散策した。この角を右に曲がった通りに甘い菓子を取り扱う店が、
「…やっぱりある」
「あ?」
「そこの菓子店、コンペイトウって絶品の菓子があるよ。陸遜と朱然に買っていってあげたら?」
「へぇ。ちっと覗いてみっか」
店の外で甘寧を待つ間、広がる町並みを改めて確かめた。
この向かいの長屋には白い猫が飼われていたっけ。裏路地の怪しげな呪いの店の前には、もう何年も使われていないという古井戸があった。肝試しにやってくる餓鬼共を脅かすのを日課にしてるじい様が、表通りで団子を売ってて、それを食べながら歩いた。
それから確か、きれいな装飾の箱を見つけたんだ。中を見るため蓋を開けようにも、びくともしない小箱。彼女が数回それを振ると、いとも容易く蓋が開いた。いっとう大事なものをしまい込むための、仕掛けのついた箱なのだそうだ。
その時に、何か、話をして───ああだめだ。やっぱりそこだけモヤがかって思い出せない。
「買えるかあんなもん!!」
予想通りの反応で、甘寧が店から飛び出してきた。
「数粒で城が買えるお値段らしいからねぇ」
「知ってたのかよ!!」
「知らなかったら、あんたに教えてないよ」
ああ言えばこう言いやがる!ぎりぎり歯ぎしりする甘寧を放って、再び歩き出す。
そうそう、前もこんな風なやりとりをして歩いたんだった。
相手はこんな、筋肉の塊じゃなかったけど。
「んで?お前があの店で騙された相手ってのが、お前のことを忘れたままの奴って話か?」
「……あんたのそういう所が、俺はどうにも好かないよ」
因縁云々を除いてもね。俺は小声でそう付け足したけど、甘寧は「俺の好きな所なんざひとっつもねぇくせに」と馬鹿にでかい声で言った。
そうそう、そんな所もだ。
「あの後、俺なりに考えてみたんだけどよ」
なんで考えた。
なんで、こういう時に限って、無い頭を振り絞って、考えてみるんだお前は。
「こいつだろ?お前が言ってた奴って」
こういう所が、本っ当に、もう。
俺がらしくもなく動揺した一日から数日後、甘寧がなんと件の人物を伴ってやってきた。
「黙って着いて来い言わはるから、来たんやけど……やぁん、またしゅっとしたええ男はんと会うてしもたわぁ」
甘寧の隣でぽっと頬を染める彼女は、相変わらずの彼女だった。自由奔放で、掴みどころがなくて、自然と目で追ってしまう、異国の女の子。
「けどうち、ちょっと強引なお人も好きみたいどす」
押しの強すぎる彼女は、すすすと甘寧の隣に並んだ。
美女の上目遣いだってのに、甘寧はあからさまに警戒していて「………こいつで合ってるか?」と、小声で確認してきた。情けなく、後退りしながら。
認めたくない。こいつに筒抜けだったことを。認めたくない、けれど。
大当たりだよ馬鹿野郎。
「あーっと、ごめんね?急に連れてきたりして。乱暴なことされなかっ、」
「うちのこと心配してくらはるん?こないな男前にそない優しゅうされてもうたら……もうっ嬉しおす!」
ち、近いな。しかも、食い気味だ。
俺が半歩下がるよりも早く、彼女はずいっと顔を近づけた。
「甘寧様に連れてきてもらう途中で、聞きましたえ。凌統様のこと」
名前を呼ばれただけで、どきりとした。
彼女の澄み切った声が、どうしようもなく心地良い。夢や幻なんかじゃなくて、あの時間は確かに存在していたんだと実感する。
「うちのこと、覚えててくれはったんやねぇ」
白魚のようなきめ細やかできれいな手が、俺の手を掴む。
誘われるがまま、彼女の頬に手を添えた。
「きれいなお顔、色っぽい泣き黒子、逞しゅうて大きな手。ぜんぶぜんぶ、懐かしいはずやのに……」
堪忍え、と目を伏せて、背伸びをしていた彼女は踵を下ろした。
やっぱり、そうか。彼女は、俺のことを、
「阿国さん、俺は」
「きっと、あん時のうちがしまいこんでしもうたんやわぁ」
「え?」
「凌統様とのこと独り占めしとうて。欲張りやからなぁ、うち」
彼女が鈴を転がしたような声で笑う。
ああ、そうだった。以前も、そんなことを言っていたっけ。
『箱の中には何を入れるんだい?』
『いっとう大事なもんをしまうんどす』
『阿国さんだったら?』
『やぁん!そないなこと、恥ずかしゅうてよう言わんわぁ』
『おっと、野暮だったかな。ごめんよ』
『そや。凌統様のこと、しもうてまいましょ』
『答えるんだ………って、俺?』
『開け方も忘れるくらい大事に大事にしとったら、根の国の神さんにも気づかれまへん。ずぅっとうちだけのもんどす』
「……大事にしまってくれたのかな」
─────凌統様もお口堅うして、いつか忘れとくれやす。
細い人差し指を口元に当てられて、悪戯っぽく笑う姿が脳裏を過ぎる。
「凌統様?」
「……あ、ごめん。かわいいなと思って」
朱色の頭飾りに青葉が何枚か張り付いている。ちょっと失礼と断って、それらを摘んだ。
甘寧の奴、どんな案内をしたのだろう。彼女も大概行動派だけど。
「葉っぱまでくっつけちゃって。一体どこ通ってきたんだい?」
あの猪に負けじと追いつく姿が目に浮かんで、俺はつい笑ってしまった。
すると、目をまん丸にした彼女がぱちぱちと二、三度瞬いた。右と左を一度ずつ見て、さっと両頬を抑えた。
どうかしたのか聞く前に、彼女はくるりと背を向けてしまった。通りの向こうで、神経質そうな色男が彼女を呼んでいる。これから出撃だそうだ。
後ろ髪を引かれる思いではあるけれど、お役目ならば仕方ない。いい男の隣に立つ彼女は、そこにあるべくしてあるようだし、なにより楽しそうだ。
いってらっしゃい、と声をかけると、振り向いた彼女が柔和に微笑んだ。
「今度のうちともぎょうさんおしゃべりしとくれやす。白いおまんじゅうみたいな猫ちゃんと会うて、町の子らと肝試しして、お団子食べながら歩くんどす。かいらし小物選んでもろて、それから、」
「コンペイトウは、また今度ね」
「もう、いけず!」
お日様の下、桃色の和傘が開いた。
春を纏った彼女が、そこにいる。
すっかり忘れていたのだけど。
「………………終わったか?」
両手で顔を覆い隠した直立不動の甘寧も、そこにいた。